第17話 『神の「み」子』
「皿......かい? 別に構わないけれど、そんなもの何に使うんだい?」
「口では上手く説明できないので、実際に見てもらうほうが早いと思います。あ、なるべく深みのある物のほうがいいので、あればそれでお願いします」
突然のフュフテの申し出に面食らいながらも、「わかったよ、ちょっと待ってな」と一声かけてこの部屋から出て行ったサマンサは、さして間をおかずに一枚の食器を手にして戻ってきた。
「こんなのでいいかい?」
「......ちょうどいいです。ありがとうございます」
使用目的が分からないため、これが適した形であるかどうか判断のつかないサマンサが手渡す縁付きの皿は、それを受け取るフュフテの両手のひらから少し溢れるくらいの大きさで。
充分な深みを持つそれは、フュフテからすれば最適と言ってもよい代物であった。
「おまたせしました。では、今からお見せしたいと思います。信用に値する、治癒魔法を」
長椅子に横向きに座し、血濡れの右脚を椅子の上に投げ出したままにこちらを伺う少女、シリンへと向き直ったフュフテは、ついさっきまでの焦燥に彩られた表情とまるで違う凛とした顔つきを見せて、厳かに前置きを口にする。
そのフュフテの姿は年若いながらも泰然とした揺るぎないものであり、正面から叩き付けられる気概が覚悟の深さを見るものに与えて、それを浴びせられたシリンが軽く息を飲む音が小さく聞こえた。
不意に眼前で生じた緊迫感にかすかな喉の渇きを覚えて、唾を嚥下する少女は思う。
ーー「いったい、これから何を見せられるのだろうか?」と。
今目の前で器を抱えて起立する若い魔法士は、これまで自分が目にしてきた魔法士たちとはずいぶんと趣きが異なる、とすでにこの時点で思わせられるくらいに異質な存在である。
正直に言って、見誤っていたと言わざるを得ない。
大体にして、先刻のある種侮辱と取られてもおかしくは無い発言を受けて、激高しない方が不自然なのだ。
自己顕示欲の塊であり山より高い矜持をひけらかす常の魔法士であれば、間違いなく怒りの感情を露わに、「こちらから願い下げだ」と立ち去って当然の振る舞いを、自分は確かにした筈。
故意に追い返す、という目的もあって放った辛辣な言葉は、きっとこの魔法士にとっても気分の良いものでは無かったに違いない。
にも関わらず、目前の人物は若干挙動不審な仕草を見せたものの、サマンサの頼みを断ることなく怪我の治療を実行しようとしている。
しかもこちらの意を汲み取って、「信用を勝ち取る」とまで明言してだーー。
えもすれば肯定に傾いてしまいそうになる思考に気付き、頭からそれを削ぎ落とすかのようにかぶりを振るシリンは、最終的な結論を心中で独りごちる。
ーーともかく、認めるのはまだ早い。
全ては、その魔法とやらを見てから判断するべきだ。
もう二度と、相手のうわべに騙されて痛い目を見るのは御免。この目でしっかりと見定めてやろうーーと。
そう心に描くシリンの心情は、厳しさとは裏腹にどこか期待感にも似たものを揺らめかせて。
久しく忘れていた、それこそ初めて魔法士の魔法を目にした時に抱いた高揚感に近いものを感じて、フュフテから立ち昇り始めた魔力の波動を凝視し、今から起こる出来事を一寸たりとも見落とさないように神経を研ぎ澄ませていた。
※ ※ ※ ※
シリンから信用を得るための治癒魔法の準備が整ったフュフテは、両手で深皿を押し抱き、固く瞑目する。
まるでこれから厳粛な神事を遂行する、とでも言わんばかりの彼の振る舞いは、全身から発せられる魔の威圧も加わってより神々しさに満ち、清浄無垢な神域に降り立つ聖者の如き有様で。
天に召します偉大なる父への供物であると暗に示す、今はまだ内に何も満たされていないその器は、これから入れられるものが神に捧げる「御捻り」であると、雄弁に語っているようで。
聖王国出身であるフュフテ以外のこの場の面々は、彼の粛々とした細やかな動作に己の信仰心を大いに刺激されて、神妙な面持ちで只々静かに一人の魔法士の行いを見届けている。
そうした後にゆっくりと瞼を開いたフュフテは、「いよいよここからが本番だ」と気を引き締め、持ち上げていた器をゆるりと下げた。
ーーこれから行うは、いたわりの儀式。
自分のためではなく、傷付き苦しむ者に安らぎを与えるための、真心の作製である。
雑念は一切思い浮かべてはいけない。
極限に集中しなければ、この魔法は真に完成する事はないからだ。
再現こそが全て。必ずや、成し遂げてみせよう。
改めて己の成すべきことを明確に自身の心に描き、その場に跪いて手にしていた器を床にそっと置く。
そのままの体勢で、徐々に準備を整えていた身体の内なる魔力を尻に集中し、その魔力に具体的指向性を与えるべく鮮明なイメージを脳裏に描き出した。
ーー思い出せ。
あの時の、安らぎを。
自分を飢えから救い、生きる力を与えてくれた、あの戴き物を。
ーー呼び覚ませ。
脳裏に刻まれた、幸福の余韻を。
五体を駆け巡り、活力をみなぎらせてくれた、あの芳醇な味わいを。
恩人であるサマンサさんがくれた、あの煮込み汁を。
ーー聖母の、「シチュー」をッ!!
カッ! ーーと勢いよく目を見開いて、記憶から呼び起こした聖母のシチューの詳細な情報を魔法へと反映すべく、綿密な魔法構成を構築する。
もちろん、本来の目的である治癒魔法も充分に織り込んで、だ。
どんどんと尻穴付近に集まる治癒の力と創造物が混じり合い、覚えのある圧迫感がミチミチと菊門を刺激する。
腹部がキュルキュルと音を立てたと錯覚しそうな荒いうごめきに耐えて、懸命にそれを押し留める門が決壊しないよう慎重に、お皿の上に被さるように移動した。
床に設置された、白く汚れのない綺麗なお皿にまたがって屈み込み、服の裾を少しまくる。
そうすると自分の、男にしてはややプリプリ度の高い臀部がひょっこりと下から顔を出し、衆目に桃色の輝きを見せつけた。
これにて、準備は全て整った。
精密な模倣、高い再現性、そして込められた癒しの奇跡。
これら全ての練り上げられた塊を、足元の器めがけて解き放つのだ。
顔を地面の器から離して、すぐ目の前で自分を見つめるシリンへと向ける。
急に見上げられた事に驚いたのか、軽く身体をビクつかせて揺れた少女の緑の瞳を真っ直ぐに見つめ、正しく発声の気を整えてから、この治癒魔法の名を高らかに宣言する。
見るがいい。これが僕の、治癒魔法。
君の見てきた偽り多き魔法士たちとは違う、ありのままの姿。
一切の嘘偽りのない、本気の真心だッ!
『天使のおひねり』!!
ビチャビチャビチャビチャーーーーッ!!!!
フュフテの尻の穴から飛び出した大量の茶色い飛沫が、すごい勢いで純白の器へと注がれていく。
激しい水音を盛大に響かせて、とめどなく噴き出し続ける粘性の高い液体が、お皿の底に着地するも勢いを止めきれずに跳ね返る。
次から次へと上から降ってくる茶褐色の雨に逆らう動きで飛び上がった汁たちが、お皿の淵まで駆け上がり、陶器の穢れない白に茶の彩りを添えた。
流石にこの光景を目にして、シリンのみならずサマンサたちも驚きを隠せない。
それもそうだろう。
神聖な儀式を行う素ぶりを見せていた人物が、突如として真逆の奇行に走ったのだ。
これで驚くな、という方が無理があるというものだ。
次第に終息に向かって勢いを減じていくフュフテの水飛沫を、ただ呆然と眺める彼らは無言のままに。
水音以外に何も聞こえない静寂な空間に、仕上げとばかりに、
ポチャンーーと、締めの一欠片が器に最後の落下を見せて、小さな水跳ねの後、お皿の水面にゆるやかな波紋を生んだ。
「ふう......」
一度軽く身を震わせたフュフテは、満足気な吐息をひとつ落とすと、ゆっくりと腰を上げて服の裾を下ろす。
ひと仕事を終えた尻は再び雲隠れし、残るのは床に置かれた茶褐色のシチューのみ。
それをゆっくりと両手で持ち上げたフュフテは、
「どうぞ飲んでください。これが僕の、『心』です」
シリンの前に進み出て膝を折り、うやうやしくお皿に盛られた御捻りを差し出した。
※ ※ ※ ※
自分に向けて差し出されたお皿を目にして、シリンは激しく動揺していた。
これは一体なんなのだろうか、という疑問が頭から離れないのだ。
見間違いでなければ、この皿に満たされた液体はこの魔法士の下腹部から排出されたように見える。
というか、そうとしか思えない。
もしこれが、なんの言葉も無く差し出されたものであったならば、おそらくシリンは嫌悪感のみに全身を支配されて、下手をすれば所有者ごと剣で斬り捨てていたかもしれない。
そこまではいかなかったとしても、気狂いの奇行だと断定して即座に目の前から排除していただろうし、当然サマンサたちも無礼者としてつまみ出していただろう。
ではなぜ、彼らはそうしなかったのか。
それは、この魔法士が皿に液体をぶちまける直前に行った、神聖なる振る舞いのせいだった。
この国の主教であるレアオス教の敬虔な信者であるシリンたちにとって、大いなる父であるレアオスに祈りを捧げて自らの身の内から切り出したものを聖なる戴き物としたフュフテの姿は、それがどのようなものであれ「無礼」と一概には言えなかったのだ。
言わばこの皿に満ちた茶褐色の液体は、聖体拝受ともいうべき代物。
フュフテの身体を通して神から与えられた、実体変化を経た神聖なる秘跡と捉える事も出来てしまう。
最も、フュフテ自身にその自覚はなく、空の器を押し抱いたのは単なる仕草のひとつに過ぎなかったのだが。
「その方が集中できそう」という安易な考えが幸運にも良い結果を引き起こしていた、というだけの話。
まったく、土壇場の運だけは強い男である。
そしてもう一つ。
シリンが簡単にこの謎の物体を退けられないのは、フュフテが「心」という言葉と共に差し出した点にあった。
レアオス教の聖典には神の使徒たちの逸話が数多く記されており、当然信者にとってそれは神聖なものである。
その中のひとつに、神の子である聖アシュレと一人の男のやり取りの記述が存在する。
掻い摘んで説明すれば、ある貧しい村を癒しの巡礼で訪れたアシュレに対し、一人の男が粗末な豆のスープの入った器を差し出した。
その日に自らが食べるものにも困る男にとっては貴重な食物であるそれを、感謝の印として恭しく捧げるのを見て、神の御子アシュレは、
「それはあなたが食しなさい」
と言われたが、男は頑なにその場を動こうとはせず、
「このスープは私の『心』そのものです。一時の飢えを満たすことよりも、あなた様に召し上がって頂くことの方が遥かに幸福なのです。もしお気に召さないのでしたら、どうぞお捨てになってください」
と答えた。
御子アシュレはひとつ頷き、
「ならばこれを受け取りましょう。そしてあなたは私と共に来なさい。心はからだのいのち。私が道であり、いのちなのです」
とおっしゃられた。
奇しくもフュフテの言は、これを履行するような台詞である。
シリン自身は別に神の御子でも何でもないが、聖典の逸話を彷彿とさせる言動に神聖なものを感じてしまった、という状況。
それを裏付けるように『心』と銘打たれた茶色の汁物が、神々しい煌めきを湛えて光輝いていた事もまた大きな要因のひとつである。
すぐ目の前に差し出された事で鮮明に見えるそれは、治癒魔法の恩恵を内に宿しているためか淡い発光を伴っており、プカプカと浮かぶ固形物らしきものが神の奇跡を内包しているようにも見えていた。
加えて、至近距離に香る液体の風味が、不思議と心を穏やかに誘う癒しと純粋な食物としての魅力をかもし出していて、これが単なる茶色い汁でないことを匂わせている。
「これが......あなたの『心』、なんだね......?」
静かに問いかけるシリンの言葉に、フュフテが真っ直ぐに視線を返して、真剣な表情で頷きを返す。
その強い目線に込められた信念を垣間見て、少し逡巡した後に意を決して、シリンは器をフュフテから受け取った。
そのまま、両手でお皿を支えて、恐々と口元に茶褐色のシチューを運んでいく。
遂にはお皿の縁の部分に、薄く唾液が潤って照りを見せるシリンのくちびるがそっと触れて、ドロリとした粘度のフュフテの尻から出た茶色の液体が、美少女の口の中へと流し込まれた。