第12話 『愛=おなら』
「ーーエンジェル・ブリーズッ!」
目の前の清廉かつ艶やかな少女の、濡れた紅唇から耳に心地よい音色が生まれた瞬間に、彼女の臀部に添えられた右手辺りが膨大な光を放った。
「うっ......まぶしーーぐッ!」
あまりの眩さに反射的に顔へと手をやろうとして、即座に胸に走った激痛に苦悶の呻きを漏らす。
「またやっちまった」と内心で自嘲するが、どうにも条件反射の体の動きにはあらがい難いのだから仕方がない。
胸を中心に縦に走る剣傷は、先日実戦形式の対人訓練の際に自身のしくじりによって負った傷だ。
個人的な鬱憤もあって少々手荒く新兵を扱き過ぎたせいか、地面にへたばったそいつを助け起こそうと無防備に近づいた途端。
逆上したそいつは、差し出した手に対してあろうことか剣で返して来やがった。
咄嗟に上体を逸らしたお陰で急所は外せたが、それでも胸元に浅くはない痛手を負ってしまった。
よほど腹に据えかねたのか、そのまま殺意剥き出しでこちらにトドメを刺そうとする理性を失くした新人を、慌てて取り押さえる周囲の同僚たち。
いくらこちらがやり過ぎたと言っても、これが訓練の一環である以上は上官に反抗するのは筋違いというものだ。
当然そいつは他の上官たちーー俺からすると同僚だが、彼らに容赦なく鎮圧されて血反吐を吐きながら連行されていった。
おそらくは再教育という名目で徹底的に肉体的制裁を受けるのだろうなーーと、怪我をした包帯姿の兵士は思う。
半ば自業自得とも言える形で負った怪我は、高位の治癒魔法でもかけて貰えれば直ぐに治るのだが、治癒魔法士自体が国によって管理されていておいそれと治療、というわけにはいかない。
だからこそ、怪我をして早々にこうして治癒魔法の恩恵を受けれるというのは望外の幸運だ。
今まさに魔法を右手から放とうとする彼女は、年若いながらも驚くほどに美しい。
少しばかり風変わりな鳥を模した被り物をしているが、それさえも魅力的に映る。
何より衣服の下の縁から覗く真っ白な美脚が眩しく、その付け根が見えそうで見えないのが恨めしい。
もし街中で出会ったとしたら、声をかけるのを躊躇うくらいにまばゆい美少女。
そんな彼女は今、自身の持つまぶしさ以上に輝かしい光に煌めいて、手から漏れ出したかのように緩やかな風を周囲に向けて放散し始めた。
美少女を中心に吹き出した風は騒がしいものではなく、そよ風よりも遅くどちらかというと煙が噴出するに近い穏やかな微風。
不思議な事にその風は翡翠色に色付いていて、この集会場の大窓から室内に差し込む光に照らされた部分がキラキラと神秘的に。
何か細かいものでも靄に含まれているのだろうか。
その風はゆっくりとした速度で円状に広がって突き進み、人混みの中程にいた胸に怪我を負う兵士の元にも到達した。
「っ! な、涙が......ッ! なぜ......?」
緑の不思議な靄に飲まれた彼は、不意に訪れた目や鼻の奥の刺激、次いで靄を吸い込んだことによる胸の疼きに驚き、同時に流れ出てきた涙に動揺する。
だが瞬く間に癒えていく胸の傷と、仄かに香るラベンダーに似た優しい匂いに包まれて、「これは起こされた奇跡に感動したせいか」と思い直し、目から流れる雫を拭うこともせずに、余韻に浸るかのように瞼を下ろした。
彼だけではなく周囲の人々も同様に、胸を押さえて涙を流している。
その光景は、どこからどう見ても聖人による奇跡を目の当たりにして心を打たれた民衆の姿に他ならない。
叙述的な情景、とも言える、この一室で生み出された感動的な素晴らしい風景。
しかし残念ながら、実はこの涙の原因は心の感動によって生まれたものではなかった。
その正体はフュフテの腸内で発生した、人体に猛毒になりうる「硫化水素」という気体のせいだった。
腸内を風魔法が暴れ回り魔に長時間触れたことで、腸内に発生していた硫化水素が異常変質。
通常は腐卵臭のする気体が高濃度化して無臭となり、それが風魔法に混じって群衆に拡散した。
広範囲に分散されたことで致死性は薄れたものの、初期症状である目や鼻の痛み等を引き起こした、というのが実態だ。
そしてまた、彼らがありがたそうに口から吸い込んでいる緑の靄には、口にするのもはばかられる恐ろしい物体が含まれていた。
端的にいうと、フュフテのうんカスである。
突然だが、皆さまは人の排泄物とは何で出来ているかご存知だろうか。
「食べたものを消化した滓」と思われがちだが、これは正確な答えではない。
実は食物のカスは全体の5%ほどなのだ。
そして、大部分。およそ65〜70%をしめるのは水分である。
では残りの部分は何で構成されているのかというと、そのほとんどが腸内菌の死骸や死滅した細胞であり、つまりはフュフテの腸内から風魔法によって根こそぎ掻き集められて放出されたものは、全て排泄物の主原料なのだ。
そんなものを涙をながして「ありがたやありがたや」と口にする彼らは、なんと常軌を逸した行動であることか。
知らず知らずの内に特殊なプレイを強要された彼らは、それでもなお喜びに打ち震えている。
風に舞う男の排泄物のカスを、親鳥から餌を与えられる雛のごとく口を開け閉めして摂取する姿は、まさに滑稽というもの。
無知である事は、ある意味とても幸せな事なのかもしれなかった。
その内の一人である胸の傷が癒えた兵士は、この心震わせる光景と自身を痛みから救ってくれた輝かしい美少女に対して、
「天使だ......彼女はまさしく、神が使わした慈愛の天使......ッ!」
刷り込みにも近い形で怪しげな信仰心を発揮し出していた。
そして、そんな天使の慈悲を吸い込んだ事で己の行動を恥じ、「明日からは新兵に優しくしてやろう」と心を入れ替えたのだった。
※ ※ ※ ※
心落ち着かせる甘い香りの中心で、フュフテはホッと安堵の息をつく。
この室内に充満する臭気は、言うまでもなく頭上に陣取る鳥さんの唾液臭だ。
これでもかと言うほどにヨダレが染み付いた湿気たっぷりの衣服が、使用した魔法の熱量で温められてニオイ物質を大量に発生させ、それが風に乗って周囲一帯に満ち満ちている。
鳥さんのヨダレが良いニオイだったからよかったものの、悪臭であったなら普通に大惨事だ。
ぐるりと周囲を見渡した感じでは、皆の怪我は無事に癒えている様子。
涙こそ流してはいるものの、特に体調が悪いといった人物はいなさそうだ。
実際この複合治癒魔法「天使の屁」は、回復魔法でありながら少々危険な代物である。
治癒効果は非常に高く、広範囲に渡って大人数の怪我を癒せるという優れものなのだが、なぜか目とか鼻が痛くなって涙が止まらないのだ。
理由は分からないが、自分も最初試しに使った際にはえらい目にあってしまった。
そこから改良を経て、風魔法を上手く使って自分には被害が及ばないようにしてみたものの、他人にこれを使うのは初めてだったため、少々不安だった。
この症状は不思議と治癒魔法では治らないので、もしかすると病気に分類されるものなのかもしれない。
なにはともあれ、ひとまずは大丈夫そうだーーと、思案するフュフテに、
「見事だったよフュフテ、あんたやるもんだね。正直ここまでとは思わなかったよ」
「サマンサさん。いえ、上手くいって良かったです......」
魔法発動の際に、緑の靄の範囲を怪我人のみに選定していたため涙の被害から逃れたサマンサが賛辞を送る。
そうして、「ため息......か」と呟いた後に、
「綺麗な魔法だね。名前も良いじゃないか! 《天使のため息》。あんたにピッタリだ」
「えっ!? そ......そうですかね? ぴったりと言われると、なんか恥ずかしいんですけど.....」
「お前は屁みたいな奴だ」と言われて困惑するフュフテを見て、勘違いをしたのかサマンサは、
「恥ずかしがらなくてもいいさね。自信を持ちな! 『名は体を表す』っていうじゃないか。この魔法はあんたに相応しい名前だと、みんなが言うよきっと。
綺麗な顔したあんたから出るのは、たぶん相応に美しいもんなんだろうね。あたしとは大違いだろうさ」
美しい少女を褒めつつもその事を羨む表情で少し困ったような、それでいて何処か暖かい苦笑を浮かべてため息をついた。
「尻からでる屁に一体なんの美しさがあるのか? 顔の美醜って何か関係あるの?」と、ますます混乱するフュフテだったが、サマンサの憂い顔が気になり、
「その、サマンサさんはどんな屁を出すんですか?」
「あたしかい? 残念だけどあんたのため息と違って、でかくて重くて儚さなんてこれっぽっちもない下品なもんだよ! あっはっはッ!
......でもね、そんなんでも旦那に気付いてもらいたくて、わざと出す時もあるのさ」
流石に女性に向かって「屁」とは言いづらいためブリーズと濁すと、非常に赤裸々な答えが返ってきた。
こんなにも明け透けに放屁の音について話してくれるサマンサの豪快さに、フュフテはとても驚く。
ーーというか、儚さの意味が分からない。
儚い屁って、どんな屁だろうか。
余韻が残るくらいに長く細く鳴り続ける屁がひょっとしたら儚さを生むのかもしれないが、それは非常に難易度が高く思える。
屁の音は基本的に菊紋の振動によって生まれるものなので、尻の専門家である自分なら頑張ればもしかすると出せるかもしれない。
しかし、なぜサマンサに尻の熟練度が高いとバレたのだろう?
屁みたいな奴だと言われたことから、自分は純粋に長細い音を出しそうな顔だと判断されたのだろうか。謎だーー。
そんな疑問に囚われるフュフテに、
「あんたはまだ若いから分からないだろうけどね、男ってのは大抵が鈍感なもんさ。覚えときな!
何か言いたい事があったらね、目の前で思いっきり出してやるのさ! そうでもしないと分かりゃしないからね!
まあウチの旦那は、その辺はちょっとマシかもしれないよ。あたしの些細な変化で気付いてくれるからね......」
わざと相手の目の前で出すのが常識だ、そうサマンサは豪語した。
後半には少しばかり夫に対する惚気が入っている事から、何だかんだ言いながらも夫婦仲は良いのであろうと推察できる。
だがしかし、今し方「妻は夫に不満を屁で表現するのが正しい」という衝撃的事実を知ったフュフテは、目を見開いてあわあわとしていた。
余談だが、フュフテは片親であり夫婦とはどういうものかという事について、見て学ぶことが今までなかった。
魔法を習う前の幼い頃であれば周囲の夫婦を見ていたのだろうが、流石に物心つく以前の話。
魔法の修行を始めてからは生活の大半が里から隔離されての訓練であり、出会うのは同世代の少女だけ。
夫婦の正しい関わり方など、学べる訳がなかった。
そんなフュフテが初めて出会った既婚者の女性の含蓄ある言葉に、「知らなかった!」と衝撃を受けるのは、ある意味仕方がないとも言える。
もちろんフュフテは男なので、厳密に言えば屁をかまされる側だ。
という事はつまり、女性の放屁の音色や音量といった機微を察する事が出来なければ将来困る、ということ。
その技術の習得は容易ではないし、おそらくは個人差もあるだろう。
自分の伴侶のベーシックの音を知らなければ、応用などきくはずもない。
「結婚する前には、ちゃんと相手の屁の音を聞かせてもらってからにしよう」
そう心に深く刻んだフュフテは、サマンサの言葉に神妙な表情で頷きを返した。