第7話 『アンモニア大王』
亀頭を鋭く尖らせて荒い水蒸気をふかすグリフィスと、彼の漢気あふれる提案を現実的観点から冷静に退けたイアンの、その少し後方。
イアンの頭部に陣取る謎に満ちた生命体である鳥の尾から続く、子を守る目的で伸ばされたしっぽの先端が、もこりと動き出した。
ほんの少し前に第一都市内部から放出された、絶対的暴威の閃光によって掘り起こされ、地面に堆積した土砂に埋まる尻尾。その内部。
砂を掻き分けて地面に顔を出したのは、幾分か茶色く汚れた色白のお尻だ。
荒涼とした大地にぴょこんと飛び出す割れ目の塊は、周囲の安全を確認するかの仕草でプリプリと辺りを見まわし、自身に付着する異物を払い落とすべくフリフリと左右に揺れる。
「コホッ......死ぬかと、思った......」
もちろん、喋りだしたのはお尻ではない。
当然だろう。
発声器官を所持していない臀部は、声を上げることなど出来ない。そんな事は、常識だ。
唯一の例外として、似たような排出器官から発声する特殊な竜がいるが、そんなものは一人で十分。二人もいらない。
先駆けて姿をあらわした尻に続いて、土の中から這い出してきたフュフテは、頭から背中にかけて積もる土の重みに顔をしかめつつ、土臭い空気の中で安堵の息をついた。
どうやら、自分は無事生きているらしい。
正直に言って、未だに何が起こったのかちゃんと理解は出来ていないのだが、すごく恐ろしい目に遭ったという事だけは分かる。
それほどまでに、放たれた光線は猛威をふるって自分達に襲いかかってきたからだ。
その威力はあまりにも予測の範疇を超えていて、本当に生きた心地がしなかった。
なすがままに高速移動するイアンに引っ張られ、かなりの時間空中を飛び続けていた自分の眼前に、新しい都市が近づいてきたと思った矢先。
皮肉にもすでに二度、大都市の幾多の障害物に体当たりをぶちかまし身体を張って破壊するという経験をしてきただけに、今度もまた城門にぶち当たるのかと、油断ではないが慣れで少々気が緩んでいた中での出来事。
言葉にすると物騒に聞こえるかもしれないが、そんな荒業をこなして来たにも関わらず、自分の体には大きな怪我はない。
その理由は、原理はよく知らないが、ひとえに自分の腰に絡みつく変な鳥の尻尾のチカラに起因するものと思われる。
そこから流れるエネルギーが自分の全身を覆って守ってくれているおかげで、衝撃などに息が詰まったり時たま服が擦り切れる事はあっても、そのくらいの被害で済んでいるようだ。
がしかし、そんなレベルとは根本から次元の異なる脅威的な破壊を浴びせられ、大怪我こそ無いものの意識を根こそぎ持っていかれるような衝撃に正面から撃ち抜かれて、あえなく撃墜。
軽く脳震盪を起こして倒れ込んだ所に大量の土雨に沈められ、あっという間に地面へと埋もれてしまった。
「はぁ......散々な目にあった。もう空の旅は、こりごりだな......」
やはり人は地に足を付けて生きていくべきだ、と改めて学ぶ事ができた。
非常識な力を持つ者ならいざ知らず、比較的常人である自分に、こんな無茶な旅路は似付かわしくない。
少し意味合いは違うかもしれないが、そんなこの世の真理を教えてくれた、二人の非凡な存在に目をやる。
おそらくは、こちらに攻撃を仕掛けてきた相手をその目に捕らえているのだろう。
こちらに背を向けているイアンは、両足を軽く開きながら腕組みをして、大きく抉れた街中のずっと向こうを見つめて威厳たっぷりと。
そして、普段から無口なイアンに変わり頻繁に語りかけてくる鳥カゴのグググ先生は、なにやら大きな声でギャーギャー喚いていた。
「ん? どうしたんだろう、グググ先生......?」
互いに相当の距離が離れているにも関わらず彼らは会話を成立させているようだが、常人である自分の耳にはグググ先生の音しか聞こえない。
厳かな語り口調のくせにやたらと饒舌なせいで親しみやすいグググ先生だが、今の先生の声には明らかに剣呑な響きがこめられていて、若干の近寄り難さを感じる。
それでもやはり発せられている先生の言葉の内容が気になり、もっとよく聞こえるようにと彼らに近づいて、イアンのすぐ横からグググ先生を覗き込んだ途端、
『ッ! 貴様が、それを言うか......ッ! 相も変わらず、不快な喋りをしよって! 黙れッ! 虫唾が走るわッ!!』
「うわっ!」
プシャアアァァッーーーー!!
青筋を立て怒髪天を突く勢いでそそり立つ肉棒の先端から、黄金の雫が大量に噴出した。
グググ先生の溜まりに溜まった苛立ちが遂に決壊し、それを代弁するかのようにほとばしる熱い聖水が、噴水の如く周囲に飛び散る。
それはすぐ間近でグググ先生を覗き込んでいたフュフテにも襲来し、突如噴き出した黄金水を避ける間も無く顔面にぶっかけられ、びしょ濡れに悲鳴を上げた。
「ああっ! 痛い! 目に入った! 目がっ、目がぁぁーーッ!!」
ギンギンに上を向いていた先生の傾斜角度から放たれた、怒りのアンモニア臭が目に入り込み、地面を転げて激痛にのたうち回るフュフテ。
そんな弟子の声すらも、耳に入っていないのだろうか。
荒ぶるグググ先生は、なおも止まる事なく尿道から激憤の産物を撒き散らして昂ぶっている。
余談ではあるが、本来尿のみが目に入ったとしても人体にさして影響はなく、痛みを感じる事はない。
しかし、今フュフテが苦しんでいるのは、グググ先生が竜の化身であるせいだ。
詳しく言うと、竜であるグググ先生の息吹には塩素ガスに似た毒性が含まれているのだ。
破壊の権化でもある竜という存在は息すらも凶器となるので、普段はグググ先生も気を使って制御しているのだが、あまりの怒りに我を忘れて本来の息を吐いてしまった事により、その劇物と尿が混じり合って結合。
非常に体に悪い液体を作り出して、それをフュフテはモロに浴びてしまった。
涙を流して苦しむフュフテは、目に入った異物を洗い流そうと、尻から魔法で水を出してそれで顔をバシャバシャと洗っている。
地面に膝をついて、両手を尻と顔に往復させている姿は、なんの冗談かと思うほどに滑稽だが、本人は必死なのだから仕方がない。
なお、この惨状を引き起こした本体であるイアン=ヴァイスロードは、腕組みをしながら眉ひとつ動かさずに冷静沈着。
はたから見れば、人ひとりの顔に放尿を引っ掛けて悪びれもしない男は、稀代の大悪党のようにも見える。
普通の精神をしていれば、たとえ事故であったとしても少しくらい申し訳なさを感じるものだ。
犬畜生であっても、おしっこを引っかければ多少は罪悪感に縮こまるのに。
これが、竜族の鍛え上げられた不屈の精神力の為せるわざなのだろうか。
何者にも屈しない男、イアン。放尿ごときでは、彼を降す事は決して出来ない。
しばらくの間、怒りのアンモニア劇は続けられていたが、ようやく落ち着きを取り戻したのか。
『おいヴァイス! さっさとフュフテを逃せ! 交戦は時間の問題。我とて、これ以上怒りを抑える事は出来ぬ。
あやつの前では、いつまた我を失ってもおかしくはないぞ!?』
「それは困る。わかった、急ごう」
理性を取り戻したのち、放出をやめて舞台の幕を下ろしたグググ先生はイアンへと指示を出すが、その物騒な内容は刺激臭漂う再演の可能性を匂わせていて、切羽詰まった様子。
さすがに二回も激憤されては膀胱がもたないのか、若干困り顔のイアンは、
「フュフテ、これを被れ。あとは、こいつに任せればいい」
「えっ?」
やっとのことで痛みを払拭し、真っ赤な目をピリピリとさせているフュフテに近付き、その頭に鳥を授けた。
すぽり、と被せられた物体は、あくまでイアンが帽子だと言い張る謎の鳥生物である。
確かに帽子のように被ることが出来る訳の分からない物体だが、頭部を覆われて初めて分かる、明らかに体温に近い温もりと生き物の息づかい。
予想に反して、鳥くさい不快さなどはなく、口内(?)はふわふわと暖かくてとても気持ちが良い。
しかも、絶対に臭うと思っていたヨダレは意外にも華やかな香りで、ラベンダーによく似た優しさの中に力強く満ちる心地良さに包まれて、いっそ癒しさえも感じるくらいに。
以前の御影草といい、どうしてこうも見た目が悪い生命体に限って、有り得ない快感を与えてくるのだろうか。
本当に、この世は神秘に満ちている。
『フュフテよ。ここはじきに戦場となる。お主がいては、足手まといよ。奴らが相手では我とて本気を出さねばならぬ故、お主を守る余裕はないのだ。
なに、心配せずとも早急に敵を始末し、我らも魔都へと向かおう。お主は己の成すべき事を成せ。よいな?』
『分かりました......先生、御武運を」
いつになく真剣なグググ先生の肉棒姿に気圧され、先程の酷い仕打ちに対する苦情を言うのも忘れて、フュフテは大人しく先生の言に従う。
経験上、こういう時は黙って頷いた方がいい。
かけられた尿は、旅立ちの餞別だと思うしかないのだ。
すると、そのやり取りを理解したのか、フュフテの頭上の怪鳥がばさりと漆黒の羽を広げて、上下に羽ばたき始めた。
その勢いは結構な風圧を生み、宙に浮かぶ独特の浮遊感を伴ってフュフテの体を地面から浮かび上がらせる。
「ええっ! この鳥、飛べるの!?」
あの時の崖からの落下は、一体何だったのか。
空を飛べるんだったら、最初から飛んで欲しかった。
出し惜しみする意味がわからない。
「当たり前だろう、何を言ってるんだコイツは?」という顔でイアンとグググ先生に見つめられ、まるでこちらが間違っているかのような疎外感を感じながら、空の旅を再開しようとするフュフテ。
黙って見送る二人から徐々に遠ざかり、空の住人となったフュフテは、奇妙な鳥に誘われて魔の都と呼ばれる迷宮都市へとひとり飛び立つ。
日が地平線すれすれに沈み夜の帳が下りようとする光景の中で、遥か遠くに小さくなった第一都市から爆発的な赤光と地響きが聞こえた。
上空から眺める遠方の諍いは、ここまで音が響いてくる破壊音と入り乱れる閃光に彩られて、人外魔境ともいうべき激戦区に早変わり。
グググ先生の言うとおり、あんな戦闘が繰り広げられる中では、フュフテなど足手まとい以外の何物でもないだろう。
保護者が誰も居なくなり、生まれて初めて単独行動を取ることに不安を感じながらも、今のフュフテにはイアンとグググ先生の無事を祈る事しか出来なかった。