第3話 『止められるものなら止めてみよ』
広大無辺。
目の届く範囲の隅々まで広漠として映り込む、魂を揺さぶる程に感動的な秀峰。
人の小ささを思い知らされる大自然の情景の中、フュフテはその空中をすごい勢いで急降下していた。
「うわあああぁぁーーーー!!」
慣性の法則に従って山麓一直線に落ち行くその身は、巻き起こる上昇気流をもろに受けながらも決して浮かび上がることはない。
くびれたウエストにしっかりと巻き付く怪鳥の尻尾がフュフテを捕まえている限り、先行して落下する本体に引っ張られ続けるからだ。
「無理無理無理ッ! ああぁぁーーーー! 死ぬうぅーーーー!」
吹き付ける強風を浴びて大空に絶叫を響かせるフュフテは、人生で初めて体験する高高度からの落下という未曾有の事態に、冷静さを完全に欠いていた。
尻からの風魔法を使って減速するとか、尻尾を攻撃して切り離すとか、方法はいくらでもあるにも関わらず、そんな事は一切頭に思い描けずひたすら悲鳴を上げる彼の状態は、まさにパニック。
どんどんと大きくなっていく地上を目にして、激突の恐怖に侵食された脳内が神経伝達物質を大量分泌させている。
そんな状況でも気を失わずに済んでいるのは、視界へと映る先駆者を無意識の内に信頼しているからだろうか。
フュフテを強制的に空の旅へと連行した変態的格好の鳥人は、青年から見ると豆粒ほどの大きさで先駆けて落ち進んでいる。
その姿勢は両手両足を大の字に広げただけのフュフテとはまるで違い、両腕を肩と平行に足は駆け上がる仕草のまま整えられた姿で、天空に飛び出した時と全く変わらぬ美しさ。
天上から降り立つ神聖な存在を思わせる高貴な装いで降下する鳥人イアンは、常と変わらぬ無表情を浮かべて風を掻き分け進んでいた。
そんな空中遊泳も徐々に終わりが近づく。
ハッキリと地表の起伏が分かるくらいに接近して初めて、フュフテの生存本能が覚醒。
無行動が死に直結する、と判断した脳が思考を経由せずに直接五体へと信号を発する。
その危機管理能力は、曲がりなりにも死と隣り合わせで培ってきた苛烈な修練の賜物とも言えるものだ。
だが、衝突の瞬間まであと数秒。
その極小の猶予を最大限に活用して、クッションがわりの風魔法を発生させる為に全身の筋肉が躍動する。
最小限の動作で魔素を吸引、魔臓の魔力変換、尻穴への魔力移送。
それら一連の流れを瞬時に行い準備を整えて、辛うじて衝突対策を間に合わせた。
が、次の瞬間に、それはすぐさま無駄となってしまう。
一足先に地にイアンが到達したのが見えたと同時に、爆音で大地が怒号を張り上げる。
寸時遅れて、地面が蜘蛛の巣状に陥没。
数多の亀裂が、鳥人との接触点を起点に広範囲に拡散。
当たり前というべきか、イアンは傷一つ負っていない。
紅焔を纏いしその強靭な肉体を振り絞ると、再び激音を鳴り渡らせて地を踏み抜き自力の加速。
桁外れの速度で前方に飛び出した。
そのイアンの疾走はフュフテとの間に繋がる尻尾に多大な影響を及ぼし、彼を新たなるステージへと誘う。
「ちょっ! いっ......いぎゃああぁぁーーーー!!」
先程まで自然落下によってたわんでいた尻尾による連結縄は、イアン本体がフュフテの落下速度を遥かに上回る勢いで駆け出したことで再度の牽引力を取り戻し、青年の落下地点を強引に変更させた。
ーーこれはやばいッ!!
凄まじい張力による負荷を加えられて斜め下に軌道を変じられたフュフテは、身の危険度が更なる上昇を遂げた事で極限状況に追い込まれる。
さっきまでの落下速度であれば、風魔法でなんとか衝撃を和らげることが出来た。
しかし、今度はその落下速度にイアンの超加速が加味された事で、大地との接触の際の威力が桁違いに肥大するのは間違いない。
確か、落下の直前にイアンは「気を抜くな」と言っていたが、そういう次元の問題ではないだろう。
どこまで弟子を過酷な状況に放り込むつもりだ。
自分ならどうにかする筈だと思われているのかも知れないが、その信用が重過ぎる。
もしもイアンの推測が間違っていたとしたら、死んでしまうのは自分ではないか。
まったく、冗談じゃない。
もはや風魔法程度で防げるレベルではない。ならばーー。
衝突まで秒読み体制の中、溜め込んだ尻の魔力に指向性を。
風魔法ではなく、この一年で最も研ぎ澄ませた技術を使用する。
尻が魔力光を帯びて薄っすらと輝き、その色彩が、青、黄、緑、と順々に移り染まって、イアンよりかなり劣るものではあるが、十分に存在感を放つ「赤」へと変わる。
その色彩変化の終わり際に、尻と地面が熱烈なキスをした。
「アーーーーッ!!」
激しい接触音を奏でて逢瀬を遂げた互いの面積が、情熱的な摩擦熱を発して燃え上がる。
肉体を使って一気呵成に侵攻しようとする青年が、命を育む母なる存在を入れ替わり立ち替わり陥落していく様は、絶倫な精豪を見るものに連想させて、この上なく破廉恥極まりない有様。
フュフテは、またひとつ大人の階段を登った。
プレイボーイならぬ、アヌスボーイの誕生だ。
モリモリモリモリと地面が土を盛り上げ続けて、尻の進行方向に次々と立ちはだかる。
両足をピンと揃えて上向きに、尻だけが大地と接するフュフテの今の姿は、横から見ると「Vの字」のようにも見える。
赤いお尻が水上滑走の如く水の代わりに土を掻き分けて進む様相は、視覚的にはとても楽しそうに見えるかもしれないが、実際は恐るべき速度でケツに猛打を受け続ける地獄にも等しい光景。
時たま掘り起こされた硬い岩が直撃して、ガンガン尻のライフを削る苦行に、
「く......ッ! こなくそーーッ!!」
フュフテは両の瞼をカッ、と見開いて、気合いの一声と共に尻から魔力を大量放出。
身体強化魔法で耐える合間に補填した魔力を尻から吹き出し、風魔法の応用で自分の体を上空に打ち上げた。
「V字」の体勢のままにケツから大空に発射される姿は、墜落する機体の射出座席から緊急脱出する操縦士のよう。
もちろん、パラシュートはない。
命と尻を危機から脱したフュフテだったが、浮かび上がった身体は当然のように連結紐に引っ張られる。
相当な速さの初速で飛び出したイアンは、地を蹴る毎にどんどんと速度を上げていく。
ひと蹴りする度に地が割れ、陥没し、衝撃波が巻き起こって、彼が過ぎ去った後に大気を突き破る轟きが遅れて周囲に木霊する。
これが、鳥人イアン=ヴァイスロードの移動手段。
常人の1000倍以上の肉体強化によって引き起こされる、音速を超えた圧倒的高速移動。
実は、イアンはこれでもまだ全力ではない。
彼が本気を出せば、隕石が飛来するのと同等の速度を出す事が可能だ。
しかし、それをやってしまうと背後に引き連れたフュフテが、大変な事になってしまう。
イアンなりに、フュフテの身の安全を考慮しての現速度なのだ。
多分に常識外れなのは否めないが、そこは気にしてはいけない。
「こんなの......聞いて、ないよ......ッ!」
まさか人知を超えた移動方法で迷宮都市に向かうとは微塵も想像していなかったフュフテは、必死に命綱を両手で掴んで地面と水平飛行中。
本来であれば尻以外に肉体を強化出来ないフュフテは、空気抵抗に耐えられずに過負荷と呼吸困難に陥ってもおかしくないのだが、今は不思議な事にそういった兆候は見られない。
その理由は、雛を守るために施した親鳥の愛情のお陰なのだが、フュフテはそれには気付かずに、まさしく命綱である尻尾をしっかと握って空を飛んでいた。
「すごいな。人って、こんなに速く走れるのか......」
ひとまずの安息を得たフュフテは、過ぎ行く景色を眺めてそんな感慨を抱く。
もう近くの景色なんて、まともに見えてはいない。
幸いにも今現在鳥人が爆走しているのは、地平線の彼方まで広がる大草原の最中。
障害物など、時折生えるまばらな木々くらいのもので、それも一瞬で後方に過ぎ去って行く。
これが森の中などであったとすれば、とっくに自分は血だらけになっているかもしれない。
一体誰だ、かなりの長旅になるとか言っていた奴は。
この調子で行けば、驚異的な早さで目的地へと到着するに違いない。
それに、これのどこが旅だというのか。
道中の同行者どころか、人と会う事すらままならない。というか、出来ない。
今の状態で誰かと遭遇したら、出会った瞬間に即お別れとなってしまうだろう。
完全なるひき逃げ事故だ。
確かに目に映る光景は新鮮ではあるだろうが、意味が違う。
お肉的な新鮮さは御免だ。
希望どころか、絶望を味わってしまう。
そんな取り留めもない事を考えるだけの余裕を取り戻し、ぼんやりと風景を眺めていたフュフテだったが、ちらりと視界の端に映ったものを目視して、全身の血の気が引く音を耳にした。
顔を右に向けている状態で左目に微かに入り込んできたもの。
つまりは、自分たちの進行方向。
大暴走する鳥人の、紛れもなく延長線上。
ーーそこには、大規模な都市の城壁が、ずずん、と仁王立ちしていた。
「えっ......。ちょっと、イアンさん? 前、見えてるよね......?」
まだそれなりの距離はあるものの、こちらは全てを置き去りにする神速の危険物。
じきに到達する事が容易に推察できるだろうに、狂気の鳥人は残像の見える速さでグリーブを大回転させて、未だ進路を変えずに暴走中。
自分の記憶が確かであれば、あれはおそらく迷宮都市を囲む大国のひとつ。
「武力大国」とも呼ばれる、武闘派の戦士達が盛り沢山の、非常に好戦的な国。
そのうちの、都市のひとつであったはずだ。
「まさかっ......。うそでしょ......ッ!?」
間違いない。
鳥人イアンは、このまま都市目掛けて突っ込むつもりだ。
信じられない事だが、この人は文字通り、一直線に迷宮都市に向かうつもりなのだ。
色々と常識外れだとは思っていたが、改めて再認識させられてしまった。
思考すらも常識から外れているとは、本当に予想外。
端的に言って、頭おかしい。
遠目ではあるが、どうやら向こうもこちらの進行に気付いた様子。
小さく見える人影が、たくさん城壁の外に集まり出した。
それもそうだろう。
これだけの爆音を響かせて、尋常でない土埃を上げて突き進んでいるのだから、気付かない訳がない。
もう間もなく両者、というか自分も含めて、互いが激突してしまう。
その段になって、フュフテは「あれ?」と、ふと思い当たってしまった。
「ひょっとして、街中は障害物だらけなのでは?」ーーと。
短い休息は終わりを告げて、又してもフュフテに試練が訪れる。
今度の相手は、武力ひしめく大都市。
そこに点在する、ありとあらゆる障害物たちだ。
無表情で一陣の風となる、異彩を放つ鳥人間、イアン。
完全に涙目となった、哀れな雛鳥、フュフテ。
慌てふためき絶賛混乱中、武力大国の、住人達。
後に、【第一次鳥人大横断】と呼ばれる前代未聞の大事件。
その開始の合図は、城門が一撃で破壊される轟音と、ちっぽけな悲鳴を皮切りに、武力大国に真正面から襲いかかった。