第1話 『整いました! 尻』
『......ゆくぞ。我が、弟子よ』
「......はい。いつでも、構いません。先生」
荒れた大地に立つ、気迫溢れる両者の視線が交わり、覇気と威圧のやり取りで周囲の大気が震える。
始めに声を発した主は、一日の開始を告げる日光に向かってその白く逞しい現身を意気揚々と掲げ、眼前の相対者に覚悟を問う。
平均よりも遥かに立派な肉体の巨大さを見せつけると、それに応えて彼の相方である銀色の戦士が臨戦態勢へと移行。
戦士が右手に握る、ナイフよりもやや長い刃渡りの飾り気に乏しい中剣が、切っ先から紅煙を揺蕩わせた。
二身一体の戦闘姿勢を迎え撃つは、陽光によって明るく輝く黄金のお団子を頭に乗せた、年若き青年。
少年期より幾分か伸びた背丈と引き締まった体躯は、細身ながらも壮健さを感じさせ、一人前の男に向かって着実な一歩を踏み出そうとしている。
と、言いたいところだが、男というには余りにきめ細やかな美肌と、瞬きの度に音がしそうに長細い睫毛。
凛々しいながらも艶麗な金の瞳は、吸い込まれる程に魅惑的に煌めいていて。
返事を返した薄唇までもが桃色の癒しで潤う、そんな彼の嫋やか過ぎる容姿の数々は、誰がどう見ても美少女の中の美少女といった有様。
本人には気の毒だが、立派な男からは程遠い成長を遂げてしまっていた。
不意に一陣の強風が互いの間を横切り、通り過ぎる間際に気紛れの風圧を押し付けて、青年の衣服と銀戦士の長髪を巻き上げた。
突風ともいうべきその現象が去り際にひとつ、二人の間に一本の木片という異物を放り込む。
風に無理矢理引き摺られて舞い上がった木の枝が、眼光の境界線と重なった、一刹那ーー。
「シッ!」
銀剣士の身体がぶれるや否や、空中の小枝が中心を割り裂かれて粉々に。
それを成したのは、赤いオーラ纏う中剣の一撃。
固い大地にヒビを刻んだ爆発的踏み込みから身体ごと突っ込み、青年目掛けて伸ばされた最速の突き剣が、木の枝が通り過ぎる間も無く巻き添えに破壊された事から、その速さが並大抵のものでないと容易に知れる。
青年は、動けない。
いや、動かないのか。
武器一つ持たない彼の一点に吸い込まれるように届いた紅の凶刃は、
「ーーッつあぁ!」
ゴオンッ、と鈍重の衝撃で劇的に空気を震撼させ、青年の発声の直後、完全に防御されたーーばかりでなく、硬質な破壊音を響かせて剣身を木っ端微塵に撒き散らした。
「......見事だ!」
突きを放った態勢のままに低音で口を利いた銀の美男子、イアン=ヴァイスロードが、ゆっくりと右手を下ろして賛辞を贈る。
「はぁッ......はぁ。ありがとう、ございます、イアンさん!」
今し方の瞬時の攻防で莫大な精神力と体力を消耗したのか、額からびっしょり汗を滴らせる青年、フュフテは、肩を大きく上下させ疲労感を見せるが、それでも嬉しそうな笑顔をイアンに向けた。
この戦闘訓練で見事な働きを見せた、鮮やかな赤い魔力光に染まる自身の尻を、自慢気に突き出してーー。
※ ※ ※ ※
『遂にやりおったな、フュフテよ。本当にアレを耐えきり、かつ破壊するとは......。我は鼻が高いぞ?』
可憐さを更に進化させてしまった青年フュフテと、相も変わらず裸身を披露する銀髪の剣士イアンが並んで歩く中、イアンの下腹部の先生、グリフィス=グルニカ=グアルディオス。
通称グググ先生が、フュフテに飾らない賞賛の一声をかける。
「ありがとうございます、先生。......でも、まだまだですよ。だって、一年近く身体強化魔法の訓練を続けたのに、中剣一本をやっと防げるくらいですから......」
掛け値無しの褒め言葉に達成感のこもった笑みを浮かべたフュフテだったが、続く台詞は少々落ち込みを含んだもので。
全力で修業に取り組んできたのは間違いないのだが、思っていた程の成果を上げられなかった、と残念がる弟子に、
『なに? お主、まさかアレがその辺のナマクラと同じと思っておるのではあるまいな? 愚かな......。
あの剣はな、竜族が鍛えし珠玉の逸品よ。「成竜の儀」という契約試験にも使用されるものぞ? 十分過ぎる成果であろうが! そうであろう? ヴァイス!』
「ああ。お前の尻は、竜族から見ても一人前だ。尻だけ、だがな」
「......そんな事、今初めて聞いたんですが。......という事は、あれですか? 僕は、そんな無茶苦茶に凄い剣を相手に、今まで尻を刺され続けてきたんですね......?」
お前の認識は間違っていると、声高らかに叱咤する先生たちの、信じられない仕打ちを耳にして、「おかしいと思ってたんだ」と、フュフテは聞こえないようにボソリと呟くーー。
最初に木の棒を尻穴に叩き込まれて、100日くらい掛かって辛うじて勝利。
そこで身体強化のコツを掴めたのか、続くナイフは数日でクリアする事が出来た。
どうやら感覚の会得が最も難関だそうで、そこを突破すれば序盤は飛躍的に上達するらしかった。
「これはいける!」
そう思った、次の獲物が、先程対決した中くらいの刀身の剣。
さして華美でもない無骨な剣は、安っぽい見た目に反して恐ろしいほどの硬度を持っており、どれだけ試行錯誤しても打ち勝つことは出来ずに、ひたすら尻を血に濡らす毎日。
グググ先生の、『この軟弱者が!』という鬼気迫る叱咤激励を浴び続けて、「これなんかおかしくない?」と面と向かって言う事も出来ず、無我夢中でお尻を突き刺されまくること幾星霜。
気が付けば、仇敵ともいえる硬いアイツを粉々に破砕出来るまでに、尻は強くなっていた。
(くそうッ! みんなして、人の尻を何だと思ってるんだっ! すごい、痛いんだぞ!?
刃物だよ? 鉄の刃が貫通してるんだけど!? 何の拷問なのこれ......お尻が、馬鹿になりそう)
幼少期からの魔法訓練でも、尻を散々に酷使してきた事で、多少の痛みには免疫があるつもりだったが、グググ先生の修行の前では、そんなささやかな自負などくその役にも立たなかった。
なにせ、人体の急所に業物の一刀を全力で打ち込まれるのだ。
せめてナイフの次は普通の剣とか、そういう常識的配慮があってもいいと思う。
グググ先生も大概、鬼だ。
ただ、その残虐非道な修業のおかげもあって、尻だけとはいえ驚異的上達を成し遂げる事が出来ていたようだがーー。
地獄に無理矢理叩き込まれて強制的に身体を改造され、無自覚に強くさせられる。
フュフテに降りかかる試練は、こんなのばっかりだった。
そんなやり取りの間に、ここに連れて来られてから暮らすことになった、木造の建物に到着。
すると、この家の女主人である金色の魔女ネメシアが、珍しくも家の扉の前に立っていた。
「あら、お帰りなさい。待ってたわ。
今日で丁度約束の一年だけれど、フュフテは仕上がったのかしら? どう? イアン。
そうね......グリフィスと、あとフュフテにも感想を聞きたいわ? 自信の程はどうかしら、みなさん? うふふ」
フュフテと同じ森の民出身であり、絶世の美女と言っても過言ではないネメシアは、種族特有の黄金色の髪と金眼を、見るものに鮮烈に焼き付けて妖艶に微笑む。
今日の彼女の出で立ちはいつもの黒一色のローブではなく、各処に青の刺繍の入った黒青のドレスを着用。
膝までの躰の曲線をくっきりと表し、膝下からは美しく広がるデザインは、女性らしさと上品な色気を振り撒いていながらも、大胆に側面に深く切れ込むスリットが官能さをより引き立てている。
肘まで覆う同色の手袋を嵌めた両腕を組むことで、はち切れそうに熟れた二つの果実が押し上げられて、この上なく眼に毒な光景に。
男の欲情を的確に刺激する魔性の女の、泣き黒子の目立つ艶めかしい瞳を向けられた各人に対する、「フュフテはどうか?」という質問に対する回答は、
『尻だけならば、及第点をやってもよい』
「尻は、鍛えた。問題ない」
「尻なら、自信があります!」
「......あなた達、遊んでたんじゃないでしょうね? 一年も、一体何をしてたのかしら?」
ネメシアの困惑と呆れの表情で、複雑に迎えられた。
「まぁいいわ。使えるかどうかは、行って見れば分かるわよね? 楽しみにしているわ、その、お尻の成果? をね。
早速だけれど、今から魔都に向かって頂戴。イアン、着替えは中に用意してあるわ。フュフテは......向こうで買い揃えなさい?
ここにはあなたに合う服がないの。これを使っていいわ」
イアンに出立の準備を促した後、フュフテに近づいて手のひらに乗るくらいの巾着袋を手渡す。
おずおずと両手を出して受け取ったフュフテが中を確認すると、大小様々な硬貨が沢山詰め込まれており、かなりの大金。
これだけあれば、一家四人が半年は暮らせそうな金額だ。豪遊しなければ、だが。
「当面の生活費も含めてあるから、大事に使ってね。足りなかったら自分で稼ぎなさい? 男の子でしょ?」
お金の価値は知るものの、殆ど金銭のやり取りをした事のない世間知らずのフュフテは、突然の金銭管理を言いつけられて非常に不安を抱くが、今考えても仕方がないと思い、腰紐にしっかりと巾着を括り付けて問題を先送りにした。
しかし、一体この人は何を考えているのだろうか? ーーとフュフテは思う。
今まで一切外界と接触を取らせない様にしていたにも関わらず、イアン任せに魔都へと放逐。
唐突に金銭を与えて好きに使えとは、どういう事だろう。
これから行く場所は人も多く、その気になればここと違って逃げ出せる確率も高くなる。
金で誰かを雇えば、時間は掛かるにしろ、里に助けを求めることさえおそらく可能。
自分に逃亡の手段を与える意味が分からない。
絶対に逃がさない自信があるのだろうか?
そもそも、ネメシアが普段何をしているか、自分はよく知らないのだ。
日中はほぼ家に居らず、帰ってくるのは夕食時。それも数日置きに、だ。
一度なんか、食事をしている最中に急に食卓に現れた彼女は、全身が血まみれであった。
仰天して、一応心配の声をかけたら、
「大丈夫よ。これは全部、返り血なの。うふふ、いっぱい汚れちゃったわね? ほんとう、あの子には困ったものね。次は、もっとお仕置きをしてあげないといけないわ」
凄惨を通り越して悪夢のような凄味のある笑みを貼り付け、笑うネメシアの姿と意味深な内容に恐怖してしまい、二度と近付かないようにしよう、と心したものだ。
そんな彼女だからこそ、何をしてきてもおかしくはなく、迂闊に行動できない。
逃げ出そうとした瞬間に、目の前に現れて手足を両断されるかもしれない。そんなのは、絶対に避けたい。
やはり、慎重に動くのが最良なのだろう。短慮は危険だ。
だんまりと下を向き考え込むフュフテだったが、ガチャリ、という音が聴こえて顔を上げると、玄関の扉が遅々と開くのが目に入った。
どうやら、イアンの外出準備が整ったらしい。
緩慢に開け放たれるドアを何気なく眺めていたフュフテだったが、徐々に視界に現れたものを見て、盛大に固まった。
フュフテが目にしたのは、眩しい太陽光に照らされて扉いっぱいに映る、常識外れの物体だった。