第31話 『けつ意』
生きとし生けるものすべてが閑かな寂光に包まれる夜半、夜空のひとところに留まるのは、氷のような冴えを刻みつけ胸裡を蒼白に浸す幽玄な月輪。
陽の光と違い素っ気なく射し下ろす月明が、真四角に切り取られた囲い枠の内側へと密やかに潜りこみ、宙空に暴き出された塵芥の控えめな流動を浮き彫りにする。
寝室がわりの書斎に埋め込まれた窓枠から照射されるその月明かりを一身に浴びているのは、夜空の煌びやかな美しさに負けず劣らずの美を持つ、森の民出身の少年フュフテ。
彼は今、病気の感染源となった毛皮とは別の、しっとりと肌に吸い付く白く繊細な毛を持つ敷物の上でうつ伏せになって、尻の月光浴をしていた。
別段フュフテの趣味という訳ではなく、これも立派な鍛錬の一環としての行いである。
グググ先生曰く、「古来より月光には魔の質を高める効果がある」との事だ。
月の光で力を蓄える花や、満月に変身する獣といった逸話が存在することから、その効能は推して知るべしといった所だろうか。
よって、その恩恵を受けるためフュフテは、月の見える夜はこうして尻を丸出しに寝っ転がるように心掛けている。
そうしていずれやって来る睡魔の訪れを待ちながら、フュフテは昼間の出来事をぼんやりと思い出していた。
結局あの後、いつまで経っても終わらないオスタとのじゃれ合いに堪忍袋の緒を切らしたグググ先生によって屋外へと叩き出され、そのまま強制的に修行へと移行。
怒りのグググ先生に、二人揃ってボコボコにされてしまった。
その身を急に伸ばして鞭の如くしなり始めた教官は、他の追随を許さぬ程に卓越した強化魔法で先端を硬くし、嵐のような勢いで襲いかかってきたため、自分達は何も出来ずに一方的に沈められてしまったのだ。
無表情で腕を組む静かな巨漢から、股間だけが伸び縮みして神速で暴れ狂う姿は、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
攻撃の手段が多岐に及ぶ点は、流石グググ先生と言いたい所だが、突然あんなモノを見せられると恐怖しか感じないので、本当にやめて欲しい。
オスタさんなんか、ちょっと泣いていた。心の庇痕にならなければいいのだが。
鬼教官はそれで幾分かの溜飲を下げたようで、そこからは割と親身に指導を開始してくれたのがせめてもの救いだ。
「ーーフュフテ、お前の尻......っ、黄緑じゃねえかッ!!」
オスタさんの心底驚いた声が聞こえたのは、ちょうど身体強化魔法の特訓で尻の秘孔に魔力を集めていた最中のこと。
どうやら側で見学をしていた彼は、自分の尻から出る魔力光の色彩にビックリしたようだ。
「〝身化ニ束中位″、だと......ッ! 俺たちよりも上なのか......というか、尻に、負けたのか俺は......!?」
「あ、僕そんな色なんですね。自分では見えないので、知りませんでした」
「......ああ、黄と緑のど真ん中の色だよ......。なんてこった、よりによって尻に負けちまうとは。
つうか、なんでケツの穴だけ8倍強化なんだっ! 何の意味があるんだそりゃ!?」
「うるさい! ここしか使えないんだから、仕方ないでしょう! 黙ってて下さい、気が散ります!」
まったくもって失礼な言い草に頭に血が上った一幕もあったものの、無事今日も特訓を終えることが出来た。
途中、強化訓練に参加して来たオスタさんも、伝説とまで謳われる竜族から直接指導してもらえて、とても嬉しそうなのが印象的だった。
その間リティリーさんは、御影草から妹さんの治療薬に必要な素材を採取していたようだ。
なんでも、洞窟から脱出する際に気絶した自分の腕に巻き付く御影たちも一緒に連れて来たらしく、それを家の近場の暗所に植えなおしていたらしい。
彼らから葉を分けてもらえた事で、この山に来た目的は達成したという事だろう。
その後、必要な準備を整えた彼らは、自分とグググ先生、イアンの三人に別れの挨拶をして、下山していった。
妹さんの病気の進行も気掛かりであり、目的の素材を手に入れた以上、あまり悠長に長居はしていられないらしい。
下山の道中には危険極まりない難所の数々が存在するが、身体強化も使える腕利きの二人の探索者にとっては、死線というには生温い難易度との事で、心配には及ばないそうだ。
尤も、それはこの中腹よりさらに上を目指した場合、あまりにも身の程知らずの戯言となってしまうという事実を忘れてはいけない。
登頂を目指す挑戦者を、死界とも言うべき絶望で迎え入れるのが、このアルシオン山脈なのだから。
別れの際に、オスタさんとリティリーさん二人から、多大な感謝の言葉を告げられる。
「本当にありがとう、フュフテ君。あなたのお陰で救われたわ。何か困った事があったら言ってね?
出来る限り力になるからね! ......うん、色々と、相談に乗るから! 抱え込んじゃ、駄目よ!?」
「ありがとな、フュフテ。またいつか会おうぜ。そん時は、お前の尻より強くなっとくからよ!
......あとな、ひとつ忠告だ。お前、迷宮都市に行くんだってな?
いいか? あそこにはすげえ危険人物がいる。特徴は、桃色の髪のチビ女だ。
万が一、そいつを見かけても、絶対に関わるんじゃねえぞ。何がなんでも近づくな!
お前、大変なことになるからな? いいな、絶対だぞ!?」
色々抱え込んでいたリティリーさんから、含蓄のあるお言葉を。
変な対抗意識を燃やすオスタさんからは、不穏すぎる助言を頂く。
なにそれ? すごく怖い。大変な事ってなんだろうか。
関わったらどうなってしまうのか。
肝心の具体的情報が全くない所が、もっと怖い。
振り返らずに颯爽と去っていく二人のコンビの背中を見送って、魔都に行く事に対する不安がまたひとつ増えてしまい、気分が落ち込んだ。
きっとそれは、ここに攫われてきてから誘拐犯以外、初めて出会った人達との別れが寂しかったから、という理由もあるのかもしれなかった。
月明かりに照らされる床を見つめて、フュフテはしんみりとする。
互いを信頼して寄り添って歩いていった二人を見て、自分にとって大切な人達を想ってしまう。
母さんは、心配しているだろうか。
幼馴染のニーナや、双子の姉妹たちはどうしているだろうか、と。
自分とて、ここに攫われてきた当初は、なんとか脱出する方法を模索したのだ。
しかし、現在地は世界有数の難所。
雲の上とも言える実力者の、監視の目。
脱出に失敗した場合の、重すぎる代償。
これらを突破して逃げ出すという、無謀以外の何者でもない行動を取ることの愚かさに気付いてしまった。
少なくとも従順にしている限り、今すぐ命の危険はない。
其ればかりか、最強と言われる戦士に付きっ切りで修行をつけてもらえる。
強さを何より求める自分にとっては、強制的に拉致されて来たのでなければ、土下座してでもお願いしたい理想的な環境とも言える。
心配をかける家族に申し訳ないのは確かだが、感情を排除すれば得られるメリットは甚大だ。
修行に耐えて力を蓄えたのちに、増えた選択肢を持ってして策を練るのが最上とも言える。
現状で取れる手段など、なきに等しいのだ。
それに、魔都に行けば何かしら外部との連絡手段があるかもしれない。
そこに一縷の望みをかけるしかないのも、また事実。
あともうひとつ、魔都に行く別の目的もある。
魔法を習い始めてからずっと感じてきた、自分だけが「尻から魔法が出る」という、この不可解な事実。
さらに今回、不可思議な力を持つ光まで尻から出たという、新たな謎まで加わってしまった。
ネメシアの言によれば、魔都に存在する巨大魔力結晶によって、尻から魔法が出るのを治す事が出来るという。
それが治療なのか分析なのか、一体どういう手段なのかは分からないが、魔都に行く事でこれらが解決するかもしれないのだ。
コロリと一回転しつつ尻の照射角度を調整して、フュフテは改めて決意する。
今は、ただひたすらに強くなる事だけに専念しよう。
グググ先生から告げられた修行期間は、約三百日。
今日で大体三分の一が過ぎた、といった所か。
この期間だけでも、自分の実力が急上昇しているのを強く感じる。
格闘術で体技を鍛え、身体強化魔法で魔技を鍛え、尻の流血で心技を鍛えているのだ。
このペースでいけば、自分はもっともっと強くなれるはず。
より修行は過酷さを増していくかもしれないが、望むところだ。
その先に、自分が目指すものが、必ずあるから。
だから、どんなに痛くて、辛くて、泣き出しそうに、逃げ出しそうになったとしても、絶対に耐えてやる。
石に噛り付いてでも、食らいついてやるつもりでいる。
これから先、きっと起こるであろう困難に。
襲い来るだろう、ありとあらゆる理不尽な現実に。
何も出来ずに、無力に流されないためにも。
抗う意志を内に秘めて、切り拓くための刃を研ぎ澄ましてやる。
来たる日に備えて、必ず一石を投じれるように。
波紋を自ら起こして、運命さえも変えてみせよう。
ーーこの、『尻』の力で!
己を見つめ直し、先行く道筋をしっかりと見据えたフュフテの眼と尻は、薄明かりの室内でキラキラと輝いていた。
そのまま、フュフテはゆっくりと瞼と尻を閉じ、少年の意気込みを祝福する趣きを帯びた瑞光に包まれて、明日の修行に向けての休息へと緩やかに旅立っていったのだったーー。