第30話 『焦燥と喧騒と擬装』
オスタの話が終わり、各自が思い思いの余韻に浸る中、ひとりやたらと濡れている者がいた。
他でもない、漸く自身の思い込みから解放され、正確な事実を認識して冷や汗をかく、フュフテ少年だ。
じわりと湿る体液は、通常の体温調節を目的として汗腺から分泌される無味無臭なものではなく、緊張による神経の乱れによってベタつきを伴う刺激的なフェロモンを内包した汗で、主にフュフテの脇下の衣服を色濃く染め出していた。
他に類を見ない程に容姿端麗であり、どう見ても美少女としか思えない男の娘が出す、ぐしょ濡れに匂い立つ体液は、特殊な性癖を持つ者にとっては垂涎の的となる聖水に等しき汁だが、当たり前とも言うべきか、この場にはそんな変態は存在しない。
尤も、もしここにフュフテの色香に惑わされた好きモノがいたとすれば、彼の衣服を搾り出してでも「フュフテ汁」を小瓶に採取しようとしたかもしれないが。
ただ美しいというだけで体液すらも付加価値を持つのだから、人の欲とは誠に恐ろしきものである。
(そんな......リティリーさんは、ビッチじゃなかったのか......! オスタさんも......)
あきらかに動揺を隠しきれず、驚きで言葉を失くすフュフテの内面は、汗まみれの外面に負けず劣らず滝汗を放出していた。
ーー何ということだろうか。
どうやら自分は、とんでもない勘違いをしていたらしい。
唯一合っていたのは、父親が亡くなったという点くらい。
妹さんの話など初耳であるし、そもそも童貞だの貫いただの、全く本筋にカスリもしていなかった。
当然、リティリーさんが下衆な行いなどしていた筈もなく、自分の一方的な誹謗中傷ともいえる、失礼極まりないただの決め付けだった。
冷静に思い起こせば誤解するのも仕方のない流れだったのかもしれないが、そんな細部のやり取りまで覚えていないので、たぶんどこかで何かを間違えたのだろうーー。
(まずいぞ......これは、怒られる! 黙って、誤魔化すしかない!)
おでこの生え際からツツっと焦りの雫を頬に流していたフュフテは、急遽アワアワしていた表情から一転して真顔になると、静々と神妙な態度を取り始めた。
まるで、「知っていましたが何か?」とでも言うように白々しい顔をした後に見せた、俯き加減に睫毛を伏せるその姿は、不幸にも命を落としたオスタの家族の冥福を祈る仕草で。
その変わり身の早さは、不利になると瞬く間に手のひらを返す姑息な為政者のようだ。
存外、フュフテはセコいやつだった。
(『此奴、何かやらかしおったな?』)
ただ、この場で唯一当事者ではない傍観者のグググ先生の目は誤魔化せず、一部始終を目撃されていた事に、フュフテは気付いていない。
おそらく少年の意地汚い性根は、この後グググ先生の手で修行という名の制裁によって、しっかりと矯正されることになるだろう。
悪い事をしたら、ごめんなさいをするべきだ。ズルはいけない。
「しかし、あの洞窟は一体なんだったんだ? なあ、教えてくれねえか? アンタなら、なんか知ってんだろ?」
『ふむ、良かろう。我も一度しか入った事はないが、大体の事は分かる。
まず、お主らの触れた台座の魔石だが、あれは対象者が過去に抱いた、最も強い負の感情を増幅させるものよ。
魔石に触れたものは膨れ上がった感情に支配され、まともな思考を失う。現時点で過去を克服出来ていなければ感情は統合されるであろうし、克服していたとしても別人格に乗っ取られたが如き振る舞いとなろうな』
「あれ? 先生。僕、触れても何ともなかったんですが? なんか、頭と胸が痛かったくらいで、特には............何でですかね?」
『......そんな事は知らぬ。自分で考えてみよ』
オスタからの問いかけに対し、つらつらと先っぽから説明を始めていたグググ先生だが、フュフテから質問を受けた途端にピタリと尿道口を閉ざし、少しの沈黙の後に動き出す。
先端で弧を描いて、ぷいっと頭を背けるグググ先生から続いた台詞は、何故かフュフテを突き放すかの色を帯びていた。
その様子は、知られたくない事実を隠すかのような雰囲気を持っていてーー。
『それと、化け物とやらを生み出した霊草だが、あれは御影草と似て非なるものだ。
我は触れて居らぬ故真偽を確かめた訳ではないが、話を聞く限り負感情を具現化させ目的を遂げさせるものではないか? 何のためにそんな特性を持つかまでは、知らぬがな』
話のコシを折った事で機嫌を損ね冷たくされたのだと思い、しょんぼりとするフュフテには敢えて触れず、多少早口に説明を終えたグググ先生は、いつもと違い何処か余裕が無さそうに、自身の推察を締めくくった。
要するに、グググ先生の推測を含めた分析によれば、例の草はオスタの恨みの感情を具現化させて化け物を形作り、その恨みの矛先であるリティリーを襲わせた、という事だ。
先生の予測が正しければ、仮にリティリーが草に触れていた場合、彼女の自罰の念によって生み出された化け物は、おそらくリティリー自身へと襲いかかったのであろう。
また、もしオスタひとりで洞窟に入っていたとしたら、化け物は洞窟から出てリティリーを探しに行ったのかもしれないし、或いは対象者が同じ場にいないため何も起こらなかったのかもしれない。
魔石と霊草が明らかに関連性を持っており、魔石に触れなければ先に進めないという構造は、御影草を餌に獲物を誘い込む狡猾な罠師を思わせる。
どう考えても何者かの意思が存在していたとしか思えないが、現在洞窟はフュフテのせいで崩落してしまい、検証の手立てが既にない以上、真相は闇の中だ。
難し気に余った皮をピロピロさせて考え込むグググ先生を見ていたオスタは、
「なるほどなあ......。ああ、後はあれだな、フュフテの謎の光だ。ありゃあ一体何なんだ? あんなん見た事ねえぞ?
っ! いやちょっと待て、それも気になるんだが、その前に......」
「?」
洞窟の仕組みについて一応の理解を得ると、次にフュフテが急に白く光り出した件について触れようとした。
しかしーー、
「フュフテお前、なんでケツから魔法出してんだ? 趣味なのか?」
「! そんなわけないでしょう!!!! 僕、そんな変態じゃないです!!」
「そ、そうか......すまねえ......。いや、ずっと尻を丸出しにしてるもんだからよ。なんかこだわりでもあんのかと思ってな......悪りぃ。そんな、怒んなよ......」
心底不思議そうな顔で首を傾げこちらを見るオスタに、食ってかかる勢いで椅子から立ち上がったフュフテが、テーブルをバンバン叩いて抗議した。
さしもの普段温厚なフュフテも、あまりに無神経かつ呑気なオスタの物言いに、血圧が上昇してしまったようだ。
あらぬ疑いをかけられて異議を唱えたフュフテは、いきなりの剣幕に驚くオスタの謝罪を聞いても、「心外だ!」と言いたげに、可愛らしく頬っぺたを膨らましてプリプリ怒っている。
「オスタ、失礼よ。こんな真面目な子が、そんな変な理由で魔法を使う訳ないでしょ? 少し考えれば分かることよ。ね?」
「リティリーさん......」
膨れっ面でヘソを曲げて拗ねるフュフテを見かねたのか、横からリティリーが助け船を出す。
「大丈夫、全て分かっているわ」という意を込めた、リティリーの優しい微笑と慈しみの眼差しを浴びて、不覚にも目元を潤ませたフュフテは、
「彼は、裸族を目指しているのよ。イアンさんのような最強の裸族になる為に、普段から露出の訓練に励んでいるんじゃないかしら。
そうね......世界中から裸の猛者が集まる、【裸族の楽園】。
確かあそこは、全身の穴という穴から同時に魔法を放つ事が出来て初めて入国が許される、裸族の聖地。
お尻から魔法を使うのも、きっとその一貫ね。
フュフテ君、あなた、行く気でしょ? どう? 合ってる?」
「全然間違ってますけど? なんですか、裸族の楽園って? そんな所あるの!?」
びっくりする程キメ顔で流し目を送る彼女の、明後日の方を向く推理を聞いて、一瞬で涙が引っ込んだ。
ーー何だ、その気持ちの悪い楽園は。
聖地とか言っているが、そこを目指すもの皆が皆、そんな阿呆みたいな特訓をして来たのだと思うと、驚きを通り越して憐れみさえ感じてしまう。
大体、全身の穴から同時に魔法を吹き出させる事に、何の意味があるというのか。
人生のどの場面で役に立つのか全く分からない技術の有無で入国審査など、作った奴は気が狂っているとしか思えない。
それに根本的な間違いとして、イアンさんは裸族だけど裸族じゃない。
彼があんな格好をしているのは、グググ先生が窮屈を嫌うから、というのが元々の理由らしい。
そのせいで、迂闊に人通りの多い街中を歩けないとの事だが、それはとても良識ある判断だと思う。
対して、常時裸を人前に平然と晒す裸族は、フュフテからすれば変態的な種族だ。
今し方「僕は変態じゃない」と言ったばかりなのに、リティリーさんは何を聞いていたのだろうか。
もしや彼女の中では、裸族というのは変態というカテゴリーに入らないのかもしれないーー。
「この人、やっぱりビッチなんじゃないか?」と、またしても失礼な考えがチラリと頭をよぎるが、このままでは話が先に進まないため、荒ぶる思考を抑えてフュフテは自身の不便な特異体質を二人に語った。
「ーーそうか。お前、苦労してんだな......。しかし、尻しか魔法出ねえとか、尻が病気になるとか......お前の尻、呪われてんじゃねえか?
いや、冗談だって! 睨むなよ! ......おい、何で尻向けてんだ!? やめろ! 撃つな!」
「......もう、恥ずかしいッ! 裸族全然関係ないじゃない......何言ってるの私......。アレを見せられてから、なんか思考が......」
余計な一言で反感を買い、殺意を向けられて逃げるオスタと、ケツを振り乱して追うフュフテ。
その隣では、リティリーが両頬に手を添えて、ひとりぶつぶつと赤く恥じらっている。
慌ただしくバタバタとする光景は、フュフテの尻から魔法が出てしまうという悲惨な内容の直後にも関わらず、何処か明るい雰囲気で。
その要因となったのは、フュフテの話し方が以前ほど悲壮感に染まっていなかったからに他ならない。
こうして人前で、自身のケツ魔法について冷静に話せるようになった事は、フュフテにとって大きな進歩とも言える。
それは、少しずつではあるが、彼が自分の欠点を受け入れて肯定し始めた事の証なのかもしれない。
尻から魔法を放つ魔法士は、日々成長しているのだ。
そんな中でーー、
『まったく、騒がしい奴らよ。しかし、フュフテの尻の光か。やはり間違いないのだな。......恨むぞ、ヴァイス』
周囲の騒がしい喧騒に呆れていたグググ先生が、何やら物思いに耽ったのち、腕組みをしながら固く瞑目するイアンに向けた苦々しい一言は、魔法の発射音とオスタの悲鳴にかき消されて、他の者には誰一人届かなかった。