第29話 『知らない方が幸せな事もある』
「ゔっ! ゲホっ! ゴホっ、ゴホ......ッ!」
急激な息苦しさと異物感にむせ返りながら重い瞼を開くと、外部刺激によって反射的に涙腺から滲み出た液体でぼんやりとする視界に、見覚えのある肌色の物体が映り込んできた。
明かりの類いがほぼ存在しない暗窟と違って、窓から差し込む朗らかな太陽光に照らされてテラテラと光るその物体は、自分がグググ先生と呼ぶ、銀髪の麗人の股から生えた竜の化身その人であった。
『おおっ! 漸く目覚めたか、フュフテよ。安心したぞ』
「ケホ......グググ先生......ここは、ネメシアさんの家、ですか? ......あれ? なんか記憶が......」
心なしかシットリと濡れた表面を覗かせる先生から視線を外し、仰向けになったままに首だけで周囲を見渡しキョトンとするフュフテは、喉の奥に若干残る違和感をひとまず脇において、ぼんやりと考える。
意識を取り戻したばかりでいまひとつハッキリとしない思考ではあるが、瞬きを幾度か繰り返している内に、少しずつ直前に見ていた光景が蘇ってきてーー。
「ーーっ!! あの化け物は!? というか、病気が! グググ先生! 助けてください!!」
『落ち着くがよい! フュフテよ! お主の言う化け物とやらはもう居らぬ。それに、罹っていた病もすでに治っておるぞ。心配せずともよい』
「......えっ? そうなんですか? え、なんで?」
慌てて起き上がろうとするも、顔の前にぷらぷらするグググ先生ならびに、その本体である裸族の戦士ーーイアンが、自分の首元に片膝を立てて跨っているこの状況で、身を起こすことが出来る筈もなく、フュフテはジタバタと暴れる。
が、続いたグググ先生の言葉を耳にして、幾ばくかの疑問に頭を捻りながらも、自身の身の危機が去った事を理解して大人しく頭を下ろした。
『我は概要しか聞いて居らぬが、詳しいことはそこな娘に後で聞くのだな。
病の方も今調べたが、特に問題なく完治しておるようだ。安心するがよいぞ? もっとも、治したのは我ではないが。そうであろう? 娘よ?』
「.......はい」
グググ先生にイアンの背中越しに声をかけられたリティリーは、何故か頬を赤らめて、直立したままに小さく返事をする。
少し俯き加減に視線を彷徨わせる姿は、まさに恥じらう乙女といった所か。
それは、目の前の尋常ではない美しき男の容姿に見惚れたせいか。
はたまた、足元以外に全てを剥き出しの逞しい肉体に充てられたせいか。
いや、そうではない。
それは実は、ついさっきまでグググ先生によって、意識のないフュフテに行われていた行為の一部始終を、バッチリ目撃してしまったせいであった。
幸運にも、フュフテはまだ気付いていない様だが。
むしろ、一生気付かない方が幸せかもしれない。
『体内の魔力も全く乱れておらぬ故、起きても大丈夫であろう。あの病は、魔臓の機能障害による魔力暴走がそもそもの原因。
魔力が血管に異常に流れ込む事で全身の血流がおかしくなり、全てまとめて尻から噴き出すという恐ろしきものよ。
それ故に、我自らが魔臓に直接届くように魔力を流し、正常に機能しておるか確認してやったのだぞ? 感謝するがよい!』
「それは......ありがとうございました、先生。......え? 直接って、どういう意味ですか?」
『そんな事はどうでもよい! ほれ! さっさと起きぬか! 既に白昼を過ぎておる。飯を終えたら修行ぞ!』
言うべき事はすでに言い終えたと言わんばかりに、グググ先生と連動してイアンが立ち上がり、そのまま振り返ることなく扉を開けて階下へと去っていく。
それを見送って、ゆっくりと上体を起こしたフュフテと目があったリティリーが、
「! わ、私も、降りるわね! ......あの、フュフテ君、こんな事を言うのはなんだけど......強く、生きてね......?」
直ぐに視線を逸らして、どこか気まずそうにそそくさと扉へと小走りに。
「え? 急に、なに......? どうしたんだろう、リティリーさん......?」
挙動不審なリティリーに多少の戸惑いを感じつつ、膝に力を入れて慎重に立ち上がったフュフテは、自分の身体が問題なく動く事を確認して、ほっと息をついた。
グググ先生の言うとおり、妙に体が軽くて、感覚的には健康そのもののように思える。
しいて違和感をあげるとすれば、若干口内が甘じょっぱいくらいで、それもさして気にする程の事ではなく、あまり待たせるとまたグググ先生に怒られると思ったフュフテは、急いで廊下へと向かった。
一階へと通じる階段を一段飛ばしに駈け下りると、木造りのテーブルには既にオスタが座っていて、一足先に食事の真っ最中の様子。
「ふぉ! ひがふいはは、フフヘ!」
口に巨大な肉詰めソーセージを咥えたままに喋るオスタは、お世辞にも上品とは言えないが、皿から顔を上げて嬉しそうにフュフテを見ている。
美味しそうに食べるその姿と、食卓から上がる香ばしい料理の匂いは、通常であれば空っぽの胃を刺激すること請け合いなのだが、どういう訳かフュフテは食欲が減退していくのを感じて、不思議に思う。一体、どうしてだろうか?
「もう、嫌......さっきの、思い出すじゃない......」
真っ赤な顔を両手で覆って隣に立つリティリーの小声の呟きは、何故か意識の奥底にずしんと響いて、フュフテは全身に鳥肌が立つのを感じた。
理由は分からない、が。
※ ※ ※ ※
昼時という事もあり、 木製の長方形の飯台に並ぶのは、肉料理が中心となっている。
オスタの向かいに腰かけたフュフテは、気分を切り替えると、さまざまな種類の中で一際目に付く肉塊をひとつ手に取った。
掴んだ骨部分は、焼き上げられた際の熱を未だ所持しており、その中腹から先端にかけて重厚なあぶら肉がごってりと鎮座している。
表面はこんがりと艶やかに色付き、プルプルと揺れる脂肪部分が柔らかさを主張していて、フュフテは食欲が急上昇し、口の中に生唾が湧き上がった。
そのまま一息に齧り付くと、歯がまるで抵抗なく沈み込み、とたんに甘辛いタレの旨味が口一杯に広がって、夢中で咀嚼させられてしまう程に美味。
ひとかみ噛み締めるごとに香りが鼻腔を抜けていき、ホロホロと蕩ける食感のせいであっという間に口内から消えてしまい、次、次と新たな肉を求めて、気が付けば手の中には裸の骨が一本だけ。
それなりのボリュームがあった筈だが、全く胃に重くないせいで、幾らでも食せそうな気さえする。
自分の隣に座るリティリーも、さすが体を資本とする探索者と言うべきか中々の健啖家で、女性らしく上品でありながらも次々と料理を口に運び、その表情は幸福感に満ちている。
目の前のオスタは獣のようにがっついており、品のカケラもないが、その食べっぷりは全身が「美味い!」と雄弁に語っており、作り手が見れば料理人冥利に尽きると言えるだろう。
その美味なる料理の数々を今もなお作り出しているのは意外にも、布切れ一枚を首から足元まで前面のみぶら下げて、鉄板片手に火と向き合う銀髪の鉄人、イアン=ヴァイスロードだった。
『よく食う奴らよ! ヴァイス、もっとペースを上げても良いぞ! 我の本気を、見せてくれる!』
「うむ。任せた」
フュフテのぷりぷりお尻とは一線を画して、カチカチの筋肉で引き締まった精悍な臀部をこちらに向けるイアンは、いわゆる裸エプロンという状態であり、可愛らしい花柄の生地と無骨な銀の足甲が異質なハーモニーを奏でている。
長身のイアンの丁度腰あたりに位置する火元のすぐ側にはたくさんの調味料が置かれていて、調理工程の合間に即座に投入出来るように、という思惑なのだろうが、それを入れているのは、まさかのもう一人の料理人であった。
『ふん! ふん! ふん!』
円形に開けられたエプロンの穴から顔を覗かせる稀代の料理人は、その先っぽから吹き出す息吹によって、それぞれの香辛料を絶妙な匙加減で吹き上げて料理へと投入し、忙しなく味付けに余念がないようだ。
『ふはははは! もっと火力を上げよ! 多少の火の粉など、我には涼風同然である!』
「......俺が熱い、駄目だ」
『ヴァイス貴様ッ! いつからそのように軟弱になったのだ! 恥を知れッ!』
少し離れた位置でギャーギャーと騒がしく調理する裸プロンの料理人を、モグモグと口を動かして眺めていたフュフテは、
「そうか......イアンさんは熱いのか.......」
と、なんの役にも立たない知識を得て、そもそもこの料理は衛生面で大丈夫なのだろうかと、新たな疑問と戦っていたーー。
ひとしきりの食事を終えて、食卓を囲む四人と一本は、昨日の洞窟内での出来事に言及する。
崩れ落ちる洞窟から辛くも脱出を成し遂げたオスタ達が、命からがらこの家にたどり着いたのが丁度今時分。
その時に二階のフュフテ専用となった書斎に寝かされた少年は、どうやら丸一日意識を失っていたようだ。
フュフテの状態についてオスタから聞いたイアンとグググ先生は、早急に少年の容態を確認したかったようだが、魔臓が帯び続ける白い光が邪魔をして、何故か魔臓に魔力が通らず調べる事が出来なかったらしい。
謎の発光は一晩中続き、完全に収まったのが今朝方、という運びだ。
結果的には今こうして元気な姿を取り戻したとはいえ、大いに心配をかけてしまった事には変わりなく、フュフテは有難くも申し訳なさに小さくなった。
「何はともあれ、無事に生きて帰ってこれてホッとしたぜ......。とはいえ、ほとんど元凶は俺みてえなもんだがな......。
......リティリー、フュフテ。本当に、すまなかった!」
椅子に坐したままに勢いよく頭を下げるオスタは、身体全体から後悔の念が滲み出ていて、真摯に謝罪をしている事が窺える。
それに対するリティリーは、少し顔色を悪くしながらオスタ同様に罪悪感に染まっていて、まるで自分に全ての責がある、とでも言うかのように。
一方のフュフテは、「そういえばこの二人は下半身事情で揉めていたっけ?」と、割と呑気に構えていた。
『その事だが。我にも事情を説明するがよい。昨日の時点では、そこまで詳細に聞いてはおらぬ故にな。どのような状況であったのだ?』
「ああ、そうだな。今から説明するよ......。実は、俺とリティリーはーー」
グググ先生からの催促に、重い溜息をひとつ吐き出して、オスタはゆっくりと語り始めた。
全ての始まりの事件から今に至るまでの思い出と、胸に抱えてきた想いを赤裸々に。
そして、それを端に発した洞窟内での出来事を、余すところなく、克明に伝える。
かなりの時間を費やして、オスタが長々と話し終えた後に口を開く者はおらず、場には重苦しい沈黙のみが漂う。
そんな中、誰もが重く紡がれた悲劇とも言うべきストーリーに想いを馳せている状況で、ただひとりフュフテだけが、自身の盛大な思い違いに気付いて、顔色を青ざめさせていたのだった。