第19話 『そんなの知らない』
(やばいッ......取れない......ッ!!)
自分からそう離れてはいない位置で、今まさに一つの命が失われようとする光景を目にして、フュフテは焦りに額から汗を滲ませていた。
突然、態度を豹変させたオスタが仲間である筈のリティリーに剣を向けるという状況に、フュフテの理解は全く追いついていないのだが、あれが戯れに行われているものである筈もなく、少年はどうにかして止めなければいけないという衝動に駆られる。
が、困ったことにフュフテの尻に張り付いた御影草は、頑として吸引力を緩めず、少年を解放する気がまるで無いように感じられた。
こんな事になるのならば、自分の目的を後回しにするべきだった、とフュフテは後悔する。
彼とて、このような展開になるとは思ってもみなかったのだ。
ーー時間は、少し遡る。
オスタとリティリーが青い祭壇に向かって歩き始めた丁度その時、自身の尻の病を治療してくれるお医者さまーー御影草の元にたどり着いたフュフテは、霊草をしげしげと見つめて、ほー、と感嘆の声を上げていた。
名前に「影」と付くことから、何やら黒々として陰気なイメージを抱いていたのだが、実物は寧ろその逆で、とても目に優しい白桃の色合いが陽気な雰囲気を見るものに与えている。
白ウサギが、ぴんっと長い耳を伸ばしたかに見える甘色の花弁は、一人は寂しいのか仲間達と身を寄せ合い、互いの体を重ね合わせて輪の形に手を繋ぎあっている。
笑いさざめくような花盛りの薄い桃花色で艶やかに花芯をつつんで湧きたつ彼らは、青の照明に微かに染められてむらさきがかっており、それが一際美しい造形を生んでいる。
その鮮やかな冠を支える茎幹は、向こうの景色が透けて見える程の透明度の中に緋色の液体を循環させており、それが生物的に蠢いて生命力の強さをこちらに訴えかけてくるかに見えた。
植物というには些か動物的過ぎる霊草の姿に驚きつつも、肝心の葉の部分に視線を落とすフュフテは、巨大な葉っぱがゆらゆらと自動するのを見て、再度の驚きに目を瞠る。
(風......じゃないよね? これ、自分で動いてるのか!? ......怖っ! !
え......ホントに大丈夫なの? いきなり噛まれたりしない? ぐぐぐ先生、信じていいんですかっ!?)
『御影草に尻を当てろ』という、生殖器に宿った教師の言葉を思い出し、患部の治療を開始しようにも、血管を思わせる茎と生き生きした花びら、触手のようにのたくる葉の様形を見てとり、血が通った生き物に近い不気味な存在感を抱いたフュフテは、恐れに尻をぷるぷると震わせる。
対して、
「おや? 君、治療は初めてかね?」と、今にも喋り出しそうに頭を振る御影草は、まるで腕利きの執刀医のように自信満々に、不安に取り憑かれた患者と信頼関係を築こうと、じっとフュフテを凝視するかに見えた。
決して相手を威圧せず、ゆっくりと葉を優しく動かし、フュフテの反応を待つ御影草。
フュフテが警戒心を露わに慎重に距離を詰め、その真ん前まで近づくも怪しい行動を一切せず、私に任せなさい、という仕草で威風堂々としている。
(よろしくお願いします。御影さん......)
その不思議な貫禄に飲まれた少年は、なぜかこの人に全てを託してみようという気になり、深々と一礼をした後、心の中で敬称をつけて呼んだ御影氏に背を向けて腰を落とし、おずおずと尻穴を差し出す。
すると、バクバクと鼓動を奏でる心音に落ち着け、と言い聞かせながら静かにしゃがみ込んでいたフュフテの尻の蕾に、待ってましたと言わんばかりにピタリ、と御影氏の一葉が貼り付いた。
(っ! なんだこれ! あったかい......ポカポカする)
器用にもフュフテの大事な部分に接する医師の手からは、じんわりと心地よい温もりが伝わってきて、そのあまりの気持ち良さに少年は言い知れぬ感動に襲われる。
秘部に流し込まれる熱は排出器官の奥深くまで潜り込み、それが下腹部の中心にまで侵入してきたのだが、驚く事に不快感は全くと言っていい程感じられず、それどころか優しく内部をかき回される未知の感覚は、癖になってしまいそうに甘美な癒しであった。
(ふああぁぁ......気持ち、いい......っ! ああ、すごいっ......奥まで、入ってくるっ!)
経験したことの無い熱い刺激に、フュフテの艶やかな唇から、湿度の高い吐息が漏れる。
当初、ぐぐぐ先生から『病気にかかっている場合は、葉は半日外れぬ』と聞いて、そんな不便なのは勘弁だ、と思っていたのだが、これほど癒される治療ならば、半日くらい全然問題はない。
出来れば五体投地して尻だけを丸出しに、うとうとと微睡みつつ極楽気分を味わいたいくらいに気持ちが良いのだ。
病気の治療というからには、それなりの苦痛を覚悟していたにも関わらず、予想に反してこの快楽。
これで病が治るなど、信じられないほど素晴らしい治療方法である。
間違いない、御影さんは名医だーーと、フュフテは目をとろんとさせ、ピクピクと小さく体を跳ねさせながら、ハジメテの新感覚に恍惚として身を委ねた。
そのまま、どこまでも堕ちていきそうな快感を堪能していたフュフテだったが、不意にシャキン、という耳障りな金属音に、重そうな瞼を薄っすらと開いて、音の発生源へと視線を投げる。
そうしてフュフテは、穏やかならぬ雰囲気の光景を目にしたことでやっと意識を覚醒させ、死んでいた思考を復活させた。
(はっ! 僕は一体なにを......? ん? あれは、オスタさん?
っ!! なんで、剣を......これは、もしかして不味いんじゃないか!?)
ぼんやりと頭の中にかかる靄を振り払うために激しく首を振って、理性を取り戻したフュフテは、状況を冷静に分析する。
あきらかに様子のおかしいオスタからは禍々しい殺気が隠すこともなく溢れ出ており、まず間違いなく手に持つ刃でリティリーを殺めるつもりだろう。
一方のリティリーからは、何故か抵抗する様子が感じ取れず、身に降りかかる事態を享受するかに見えた。
このままフュフテが傍観の姿勢をとれば、ひとりの女性の生涯が幕を閉じる結果となってしまうに違いあるまい。
果たしてこれが正しいのか、という疑問に、フュフテは解答を持つことができない。
何故ならば彼は、二人の事情を全く知らないからだ。
これが突発的事態なのか、それとも予定調和の行動なのか、その区別さえ判断つかない。
それ故に、迂闊に行動を起こす事に僅かな躊躇いを感じてしまう。
そんなフュフテの困惑を余所に、オスタが右手に掲げた剣の柄に、左手を添えようとするのが見えた。
剣先が蒼の光を眩しく反射するのを黙って眺めるばかりのフュフテは、見えない誰かに問いかけを発する。
ーーいったい自分は、どうすれば良いのだろうか。
どちらが善で、どちらが悪なのか。
助けは要るのか、要らないのか。
動くべきか、動かざるべきか。
選択に迷って固まるフュフテだったが、ふと、師匠のニュクスの言葉が、頭の片隅によぎった。
(「お前は、一体何をしていた?」)
これは以前、狂信者アダムトに殺されそうになる幼馴染のニーナの危機を、ただ傍観していたフュフテに対して、師がかけた重い一言だ。
状況は今と少し違うが、根本的にはフュフテの無行動に対する詰問に違いない。
むろん、ニーナとリティリーでは、フュフテにとっての存在価値に大きな隔たりがある事は否めない。
しかし、だからといって彼女を見捨てても良いのだろうか?
それで、本当に自分は納得出来るのだろうか?
リティリーを助けるのが正解かどうか分からないから動けない、というのは、ただの言い訳に過ぎない。
今の自分に出来ることがあるのに、それをしないというのは、迷ったという事ではない。
「しない」という選択をした、という事だ。
リティリーを「見捨てる」という選択をした、という事だ。
(それは、嫌だ! ......なんとなくだけど、目の前で人が死ぬのは......嫌だッ!)
結局の所、何が正しくて何が間違っているかなど、本人達しか、本人達ですらも分からないのかもしれない。
だったら、それが余計な事であったとしても、後で怒られたとしても、自分のしたい様にすれば良い。
助けたいんだったら、ごちゃごちゃ考えずにさっさと助けるべきだ。
それを彼らが恨むんだったら、人の目の前でゴタゴタを見せつけた、彼ら自身を恨んで欲しい。
人が気持ち良くなっている時に、邪魔をする方が悪いのだ。
潔いくらいに開き直ったフュフテは、自分のわがままでリティリーを全力で助けにいく事を、はっきりと決断した。