第18話 『たったひとつの真実』
「うっ......気持ち、悪い......」
ごつごつとした冷たい地べたに半裸で横たわる少年の口から、苦しげな呻き声が漏れ出た。
目が覚めると同時に、寝起きの不明瞭な思考のままに身を起こそうとしたフュフテだったが、ぐわんぐわん揺れる視界と猛烈な吐き気に襲われ、為す術なく再び固い岩の大地に寝っ転がる。
(......頭痛いし、吐きそう......。うー......寒い......お尻、冷たい......)
未だ飲酒を経験した事のないフュフテには分からない感覚だが、もしかすると二日酔いと呼ばれるものに近い症状なのかもしれない。
いや、膨大な魔力の光に当てられたのだから、魔力酔いとでも言うべきだろうか。
よく母親のニュクスが、今の自分と同じような事を言いながら朝起きてきたなーーと、少しでも気分の悪さと尻の冷たさを誤魔化すため、少年は思考の波に身を委ねる。
どうやら自分は、気を失っていたらしい。
御影草を求めて、歩き辛く狭い岩窟の通路を抜け、行き着いたこの小部屋で、紫の魔力結晶に勢いよく尻を当てた所までは覚えているのだが、そこから先の記憶が見事に飛んでいる。
朧げながらも何かを見ていた感覚が残っているのだが、思い出そうとする度に何故か左胸の魔臓がズキズキと痛みを訴え、潜在的な恐怖にそれ以上の追求を諦める。
そうすると、痛みはすうっと引いていった。
横になって休む事で、少しずつ体調が正常に回復してゆき、そろそろと上体を起こして横坐りをしつつ、ひと息をつく。
頭にかかる重さの残滓を振り払うためにかぶりを振っていると、すぐ隣で人が身動ぎする気配を感じた。
「ん......ここは......」
「あ、リティリーさん。大丈夫ですか?」
「ええ。......そっか、戻ってきたのね」
自分と同じく苦しい思いをしているのではないかと心配して、フュフテはリティリーに声をかけるが、彼女の様子を見るに特にそういった症状は出ていないようだ。
しいて言えば、気怠げに立ち上がり、随分と悲壮な面持ちで遠くを見つめる彼女の雰囲気が重々しいくらいで、体には何の負担もかかっていない様子に、フュフテは軽く首を傾げる。
しかし、それについて分析するつもりはない。
彼女の「戻ってきた」、という発言も気になる所ではあるが、いつまでもここに座っている訳にはいかないからだ。
自分たちは、おしゃべりをしに来たわけではないのだ。
何より、さっきからやたらと冷気を伝えてくる濡れた岩床に接する尻肌が、もう勘弁してくれ、と悲鳴を上げていた。
このままでは、自分のお尻は、限界を突破してしまうだろう。
今現在フュフテがしている座り方ーー俗に言うお姉さん座り、というものなのだが、これは直接床にお尻が付いてしまうため、秘密の門への負担がとても大きい。
本来は負担軽減のために正座で座るのが理想的なのだが、今いるこの洞窟の大地は突起物も多く、脂肪の少ない脛では痛みが半端ではないため、フュフテは泣く泣くこの体勢を取っている。
一刻もはやく尻を救助すべきだ、と考えたフュフテは、急に動いてお尻をビックリさせないように慎重に、出来る限り素早い動作で立ち上がる。
洗練されたリスクゼロの身の起こし方は、もしここでお尻のレスキュー隊が彼を見ていたとしたら、感嘆の声を上げる程に見事なものであった。
無事フュフテが立ち上がり、尻に手を当ててさすりながら暖を取っていると、魔石の台座を挟んで向かい側で倒れていたはずのオスタが、いつの間に起きたのか、一言も発する事なく静かに佇んでいた。
これまでに見た彼の性格からすれば、何かしら騒いだりしそうなものであるが、腰に手を当てて俯き、表情をこちらに一切伺わせない様子は、何処かしら不気味な雰囲気を漂わせている。
そう感じたのは自分だけではないようで、隣に立つリティリーも同じく彼の違和感に気付いたのか、何かを悟った悲しげな笑みを浮かべて、
「行きましょう? この先に、きっと目的のモノはあるわ」
スタスタと自分達を追いて、前に歩みを進めていった。
彼女の足が向かう方向には、魔力結晶に三人で触れる前にはなかったはずの、この先へと続く大きな穴が口を開けて待ち構えており、その先の見通せない暗さにフュフテは言い知れぬ不安を胸に抱くが、リティリーは確かな足取りで穴の中へと消えてゆく。
それに続いて、あいも変わらず無言を保ったまま彼女の後を追うオスタを見て、フュフテも置いていかれては困るとばかりに、小走りで駆け出す。
ーー誰もいなくなった部屋の真ん中で、彼らを見送った物言わぬ魔石だけが、奸悪に揺らめく紫炎の光を、愉しげに燻らせていた。
※ ※ ※ ※
暗闇を魔道具の明かりで照らすリティリーを先頭に、オスタ、フュフテといった順番で、左に大きく湾曲した通路を進行してゆく。
すると、歩き始めて然程時間をかけずに、前方からの青い光が、彼らの目に飛び込んできた。
これだけの光量があれば、次の場所には明かりは必要無いだろう、そう思わせるぐらいに眩しく。
罠などがないか警戒しつつも、ほぼ同時に通路を歩き終えて、新しい部屋へと足を踏み入れると、三人の内の誰かから、思わず息を飲む音が聞こえた。
フュフテ達一行の前に広がっていたのは、まさに蒼穹と呼ぶに相応しい、呼吸を置き去りにする程に美麗な青の領域が、この世の神秘をまざまざと見せつける姿であった。
その中でも一際存在を主張しているのは、正面の壁面から飛び出す段差の上に鎮座する、くどいほどに群青色に発光した植物の姿だ。
自ら光を生み出す彼らは神々しく煌めいており、まるで神聖な祭壇に光臨した水神の如く、みずみずしい青の奇跡を、仰ぎ見るもの達に施している。
紺青の恩恵を受けた周囲の壁たちは、青々しく賛美の声を上げ、岩陰からそっと身を乗り出した御影草と呼ばれる群衆達は、冴え渡る蒼の威光に深々とこうべを垂れて、神妙に恭順の意を示す。
その有難き光景に感動し、思わず天を仰ぎ見ると、天面から突き出た幾重にも連なる水晶の群が、眼下の厳粛な儀式を祝福せんばかりに、透き通るその身に青光を反射させて、より一層の彩りを神事に添えていた。
「綺麗ね......こんな所があるなんて......」
ほうっ、と感嘆の息を漏らし、リティリーが頭を少し上げて、この非現実的な情景に目を奪われている。
何かしらの思惑に耽るオスタも、さすがにこの景色には驚きを隠せないのか、少し目を見開いて周りを眺めていた。
一方、ひとり寒そうな格好をした少年は、ちらりと天井を見上げた後、すぐに興味を失ったのか、キョロキョロと地面を血眼になって見渡し始めた。
(どこだ......御影草は、どこに......あった! あれだッ!)
青く照らされた大きめの岩に隠れる、いくつか纏まって群生している目的のブツを発見したフュフテは、蒼に心奪われている二人を放置して、おもむろに駆け出す。
フュフテがこの流麗な光景にさして心動かされなかった理由は、正直これぐらいの風景では、森の民が住む里の名所の華麗さに、遥か遠く及ばなかったからだ。
これより美しいものなど、あそこに住んでいれば幾らでも目にする事が出来る。
森の民の審美眼は、尋常ではないほどに肥えているといってもよい。
それよりも、彼にとって一番大事なのは、自分の尻の病気の有無である。
「魔血乏症」という命に関わる危険な病に感染している可能性がある以上、悠長に景色の美しさに構っている場合ではない。
もちろん、同じ目的で妹の病のために、御影草を取りに来たリティリーにもそれは言える事なのだが、彼女の場合は妹の病の進行度合いをきちんと把握しているため、まだ十分に猶予がある事を知っており、フュフテほどの焦りはない。
ところがフュフテの場合は、不幸にも尻を苛めすぎた事で、常時出血状態をキープしており、もし病が発症していたとして、その進行具合が全く判別出来なかった。
最悪、今この瞬間にパタリと事切れても、何らおかしくはないのだ。
そんな、懸命に自分の命を救いに駆けていった若い少年を見送ったリティリーは、柔らかい苦笑をひとつ零すと、止まっていた足を動かし始めた。
輝く草が生えた壇上の近くに、ゆっくりと歩み寄った彼女は、祈りを捧げる仕草でそっと目を閉じる。
敬虔な信徒が、神に祈りを捧げるように。
自らの願いが、どうか叶いますように、と。
チャキリーーと、腰ベルトと鞘、二つの金具の擦れる音が、青の祭場に鳴り響く。
次いで、鋼が抜き放たれる硬質な音色が、待ちに待った祭典の始まりを告げた。
リティリーは、振り返らない。
目を瞑ったまま、微動だにせず、ただ静かに。
彼女は、背後で剣を抜き放った男が、これから何をしようとしているかなど、十分に理解しているのだ。
そして、その事を理解した上で、全てを受け入れようとしている。
ーーそれが、不満だったのであろう。
いつまでたっても何も動きがない事を不思議に思い、リティリーが閉じた目を見開く。
そのまま、ゆっくりと後ろを振り返ると、ずっと長い年月を共に過ごしてきたオスタが、右手に握った剣を自身の頭上に掲げたまま、苦々しい表情で憎しみを凝縮した殺意の瞳を、リティリーへと向けていた。
「......気に食わねえな。てめえも、コイツも、俺の思い通りに、ならねえ」
見ると、剣の柄を握るために添えようとするオスタの左手が、それを拒絶するかに見える動きで、激しく震えを帯びている。
消そうとしても消えない想いが、男の兇行を阻止せんばかりに。
誰かに任せられた約束が、彼女を死守するとでも言いたげでーー。
ーー今のこの光景は、八年前の焼き直しだ。
剣を振り上げる男と、それを振り下ろされる女。
あの時と同じ、憎悪に染まる瞳の色を覗き込んで、リティリーは思う。
きっと、何かが違えば、皆が幸せになる道があったのかもしれない。
ひとつの家族は、何も失われる事がなく。
ひとつのパーティーは、何を背負う事もなく。
それは、所詮、誰かの叶わぬ願望に過ぎない。
でも、何よりも眩しい憧憬でーー。
ありえた未来の光景を思い浮かべて、透き通る雫を頬に伝う彼女は、
「いいの、オスタ。
私には、これが相応しいの。
あの時、罪を償うべきだったの。
これが、私の望み。
だから......もういいのよ? オスタ」
宿命を受け入れた、誰よりも美しい笑顔を浮かべて、自分の大切な存在に、最後の言葉を紡いだ。
それを聞いて、オスタの左手から力が失われる。
男は、憎々しげに舌打ちを鳴らした後、自由になった左手で振りかぶった剣の柄を握り、過去に果たせなかった断罪の時を、父に代わって遂行する準備を、完了した。
青き祭壇の前で行われる裁きは、神に捧げる供物のようで。
厳かなこの神事を邪魔する不届きものなど、誰一人としてこの場にはいない。
ーーいや。
そうではない。
この場にいるのは、彼らだけではないのだ。
その者は、この二人とさして深い関係にある人物ではない。
むしろ、今日初めて出会ったばかりの、ほぼ他人といっていい存在だ。
彼らの因縁など、何も知らない。
百パーセント、自分の用事で彼らに付いて来ただけの、おまけの少年。
だが、もしかすると、彼がこの場にいるのは、奇跡なのかも知れない。
それを引き起こしたのは、誰だろうか?
気まぐれに救いの手を差し伸べた、神だろうか。
はたまた、彼らを救いたいと願った、死者の魂だろうか。
いずれにせよ、この結末を変えるために、彼はこの場に誘われたに違いない。
歪んだ国が引き起こした、悲劇を。
一人の少女が起こした、惨劇を。
民衆が嘲笑った、捕り物劇を。
一人の少年が為そうとする、復讐劇を。
そして、訪れる、最終劇の結末を。
今この時、この瞬間に覆すことの出来る人物が、たったひとりだけこの場に存在するのは、変えようのない真実。
その、たったひとつの存在、フュフテ=ベフライエンは今ーー。
(やばいッ......取れない......ッ!!)
ーー顔面を真っ赤にして、全力を振り絞って。
両足を力強く踏ん張り、尻の穴に引っ付いた葉っぱを引き離そうと、ひとりで遊んでいた。