第17話 『過日の咎 Case:O 』
《Sight:オスタ》
(これは......どういうことだ......ッ!?)
視点の低さから、自分が地に伏せているのが分かる。
体の自由が効かないのは、どうやら意識だけがこの体に。
当時の子供だった頃の自分の体に、宿っているからに違いないーーと当たりをつけて、オスタは目に映る光景に注視した。
そこには、自分のたったひとつの大切なものだった家族の死にゆく様が、何もかもを克明に、余すところなく視界へと映し出されている。
(ああ......ダメだ! ......モニカ......父さん......ッ!)
胸の奥から込み上げる絶望の感情は生々しく、一切の風化を経ていない鮮明な情動に突き動かされ、オスタの意識は悲痛な叫びを上げる。
それと同時に、それがオスタのものかこの時の自分のものかは分からないが、一つの記憶が映像として唐突に蘇った。
「ーーごめんな。オスタ、モニカ。
ちょっと苦労をかけちまうが、それも、もう少しの辛抱だ。
この国を出たら、一杯楽しい事をしよう! な!」
見上げる父は、眉を下げて申し訳なさげに、それを吹き飛ばす明るさの笑顔を続けて、自分とよく似た色の息子の頭に手を乗せ、黄色の髪をわしわしと掴み撫でる。
「モニカも! モニカも!」
「ははっ! よしよし。お前はいつも元気だな、いい子だ」
「えへへ」
兄と同じように撫でられて無邪気に喜ぶ娘を眺め、心底愛おしさのこもった温かさを瞳に映していた父が、不意にその色に翳りを見せて、
「......もし万が一見つかった場合だが、父さんはお前たちに酷い事をしなくちゃいけないかもしれない。
その時は、すまんが、耐えてくれ......。なんとか、切り抜けて見せるから」
苦しげに吐き出される言葉は陰鬱で、さっきまでの陽気な雰囲気を一変させて、この狭い自宅の一室に暗い影を灯し出した。
「大丈夫だよ、父さん。僕なら何があっても大丈夫。任せて!」
そう告げた自分の体の声に、困ったように、しかし嬉しそうに頬を緩めて、
「頼もしいな。任せたぞ、オスタ」
そういった父は、大切な家族を守る一人の父親として、決意に溢れた顔で二人を見つめていたーー。
ーーその結末が、これだ。
無惨にも喉を刃に貫かれ、糸の切れた操り人形のごとく落ち崩れる、最愛の妹。
憐れにも頭部を矢で串刺しに、本懐を全うする事なく地に堕ちた、最愛の父。
これが、現実。
世界は、優しくなどない。
なぜなら、世界は泣きも笑いもしないからだ。
誰かが笑うその裏側で、きっと誰かが泣いている。
幸福を謳歌する者がいれば、その反対側で不幸に打ちひしがれる者がいるのだ。
ただ、順番が回ってきただけ。
ただ、それだけの事。
しかしながら、それを泰然として受け入れるなど、ごく一握りの達観した精神論で確立された者以外には不可能であろう。
だから、人は人を憎むのだ。
やり場のない想いを、変えられない現実を、受け入れられない事実を、目を背けたくなる真実を。
それら全てを形ある存在に転化して、ぶつける事で、心身のバランスを保とうとするのである。
天を仰ぎ見る少年は思う。
ーーどうして、父と妹は死なければならなかったのだろう、と。
神様は、何をしているのだろうか、と。
この国は、宗教国家だ。
聖王国は、唯一神レアオスを崇め、奉っている。
国教であるレアオス教の教えによれば、神を信じるものは救われる、というのが、厳然たる事実として罷り通っているのである。
神を信じぬものや悪事を働いたものは、神によって罰を下される。
故に、敬虔な信徒であれ。神を敬い給え。
そう、教えられて、自分は今まで生きてきた。
これが、救いか。
これが、罰なのか。
少なくとも自分たち家族は、朝晩のお祈りを欠かした事はないし、協会に足繁く通い、神への祈りも捧げ続けてきた。
神の存在を疑った事はないし、悪い事もした覚えはない。
この国から逃げ出すことが悪というのならば、それは誰にとっての悪なのだろう。
人か。法か。国か。神か。
それらは全部、自分から家族を奪った、憎むべき敵だ。
集中豪雨の只中で立ち尽くす少年は、煮えたぎる憎悪を瞳の中心に滾らせて、黒く頭上を覆う雨雲の遥か向こうにいる神に殺意を向ける。
ーーあんたが、自分にとって大事なモノの為に罰を下すのなら、俺は、俺の大事なモノの為に罰を下そう。
まずは手始めにーーと、少年は見上げていた首を元の位置に戻し、周囲の男女を鋭く睥睨する。
今の自分では、コイツらに報復する力はない。
力をつけ、復讐の機会を待つべきだ。
そのためには、どんな苦しみにも耐える必要があるだろう。
悟られてはならない。
従順に振る舞う必要がある。
狡猾に動くべきだ。
少年は恐ろしいまでに強固な意志で、憎しみを胸の内へと深く押し込める。
ーーそして、その込められた常軌を逸した感情すべてが、少年の中に宿ったオスタの精神を掌握し、完全に支配した。
場面は次々に変化する。
どうやら目に映し出される映像は、惨劇の後の自分の生きた歴史を追っているようで、場面場面がコマ送りに流れ続けている。
しかしそのどれを見ても、憎しみに呑み込まれた今のオスタは、何ひとつ感情を揺さぶられる事はなかった。
本来感じていた筈の想い全てが、ただひたすら負の心情に塗り潰され、正常な思考を奪い去ってゆく。
ーーひとつの場面が、止まる。
「オスタ。お前、俺みたいに大振りしてどうすんだ馬鹿野郎。
大剣と普通の剣じゃ間合いが違うだろ。お前は俺と違って非力なんだからな?
......なんだ、その顔は。悔しかったら、俺みたいに鍛えてみろよ」
楽しそうに笑う男が、逞しい肉体を見せ付けるように胸を張っている。
「ーーーー」
(「何をヘラヘラ笑ってやがる......ッ! 今に見てろ、必ず殺してやる......ッ!」)
ーー違う場面が。
「あの時、俺はリティリーの安全を優先した。
お前には申し訳ないが、その判断は間違っていないと、今でもそう思っている。
ただ、後悔していない訳ではない。
他に方法があったのではないかと、お前と接する内に、度々悔やまされるのだ。
いつか、こうして謝りたいと思っていた。
......すまなかった、オスタ」
普段は感情をあまり表に出さない男が、苦悩に顔を歪ませて、震えを帯びた声で懺悔を語る。
「ーーーー」
(「謝ればそれで済むのかッ!? ふざけんなッ! だったら、死ねッ! 今すぐにでも死んで見せろッ!!」)
ーー他の場面も。
「私は、ずっと自分が許せないの。
二人の話をちゃんと聞かず、勝手な判断で行動した、愚かな自分自身が。
そのせいで、あなたのお父さんと妹さんを殺してしまった......。
許さなくていい。恨み続けてくれていい。でも、お願い、謝らせて......。本当に......ごめん、なさい......ッ!」
膝を折って、地に伏せて、涙を流して赦しを乞う女が、全身を小刻みに揺らしながら、頭を下げている。
「ーーーー」
(「ああそうだ。その通りだよ! てめえが居なけりゃ、父さんもモニカも死ぬ事はなかった!
何泣いてんだ!? それで二人が帰ってくるんなら、いくらでも泣けよ! 父さんとモニカを、ここに連れて来いよクソ野郎ーーッ!!」)
いずれの場面においても、自分の声は聞こえない。
いや、今のオスタには、そんな声があった事さえ、認識出来ていなかった。
激情のままに上げる自らの雄叫びが、唯一無二の真実であると信じて疑わない。
ーー最後に。
「間が悪いな。けど、妹が病気じゃ仕方ねえだろ?
仕事は、俺とコイツで行ってくるからよ。ちょっと、厄介な案件だが、まあ何とかして見せる。
オスタ、お前はリティリーに付いててやれ」
「ーーーー」
パーティー共有の住居の玄関扉を開け、外に出て行こうとした二人に、自分が何かを答えた。
それを聞いた大剣の男は、嬉しそうに口元を緩める。
「頼もしいな。任せたぞ、オスタ」
憎悪に侵食されたオスタの意識の中で、その一言だけが、チクリと胸の奥底で鋭い痛みを伝えていたーー。
《ーー汝の罪を、しかと見届けたか?》
いつしか映像はなりを潜め、静かに暗黒の帳に棒立ちになるオスタの元へ、何者かの声が届けられる。
それを聞いて、くつくつと低い笑い声を上げたオスタは、
「ああ。あんたのおかげで、俺は自分の罪を思い知らされたよ。
八年だ。
八年もの間、俺はアイツらに復讐もせずに、のうのうと生きて来やがった。
どうかしてたぜ。
これを罪と言わずしてなんという、って奴だな。
思い出させてくれたアンタには、心から感謝するぜ。
......残念なのは、もう一人しか、残ってねえって事だな。
クソッ! 勝手にくたばりやがってッ!
俺の手で、殺してやりたかった......ッ!!
......まあいい。
とりあえず、あの女で最後だ。
存分に苦しめてやるさ。
で? こっから出してくれんだろ?」
世にも醜悪に歪んだ笑みを貼り付けて、昏い眼差しを愉悦の色に染め上げながら、声の主へと問いかけた。
その姿は、この洞窟に入ってくる前とはまるで違い、恐らく彼を知る者が見れば、本当に同一人物かと目を疑うほどに顔付きを一変させてしまっている。
あるべき姿を歪めて、憎しみだけで生きてきた男に書き換えられたオスタは、体に刻まれた皺の一つ一つ、血の一滴一滴、髪の毛の先の先まで、恨みの念で構成されているかのようにも見えた。
《それが汝の答えか?》
「そうだ。早くこっから出してくれ。お楽しみが待ってんだ」
《良かろう。ならば行くがよい》
オスタの答えを確認した暗闇の主が、満ち足りた色を声音に溶け込ませて、徐々に存在感を虚ろわせていく。
次いで、空間が白く輝き、外の空気を感じた気がして、オスタは逸る気持ちを抑えきれず、うずうずと殺意の衝動に打ち震える。
(待ってろよ! すぐに、殺してやるからな?)
自分のたった一つの大切なものである家族の復讐を遂げるために、闇から生まれ出た獣が一匹。
ただ一人の想い人に恋い焦がれて、暗黒の檻から白い世界へと解き放たれた。