第16話 『過日の咎 Case:R -2』
「モニカ......」
熟れきったじゅくじゅくの果実が地に落ち、潰れてひしゃげるに似た不快な音をたてて、細剣を喉仏から生やした少女が、力を失い地べたに崩れ落ちた。
放心したように娘の名を呼んだ男は、ゆるゆると屈み込み、少女の身を懐に抱き寄せると、震える手でその頬にそっと触れる。
「なんで前に出たッ............動いちゃダメだって、言っておいただろう......? パパに、任せなさいって......」
今し方の野卑で荒々しい態度を霧散させて、何よりも大切な宝に触れる繊細さで少女を慈しむ男は、彼女の額に自分の額を合わせて、固く眼を瞑る。
両の目から流れる滂沱の涙が、温もりを徐々に失いゆく娘の肌を、じわじわと濡らしていった。
「目を覚ましてくれ......モニカ......頼むから、目を覚まして......ッ!」
男の悲痛な繰り言が、たったひとつの音として周囲の風景に溶け込んで行く。
晴れ渡っていたはずの上空に雲足が数を増して重くのし掛かり出す様相は、眼下に跪く男の内面を代弁するかのようにも見え、鉛色の胸の内に湿度を蓄えて暗雲へと変じてゆく。
ぬるい湿り気を帯びた熱風が吹き抜け、物言わぬ娘の髪を乱すが、男が密接しながらもそれを撫で付けて整えた。
もう、何人たりとも娘には触れさせはしない、と言わんばかりに。
戦慄く唇を、血が出るほどに噛み締めて。
強く娘を掻き抱くその身に、狂おしい震えを纏わせながら。
どのくらい、そうしていただろう。
娘を悼んでいた男が面を上げ、閉じた目をゆっくりと見開いた。
涙と並行して、延々と続いていた四肢の痙攣が、ぴたりと治る。
既に絶命し、深く瞼を閉じる娘の顔を見つめる男の瞳が、先程とはまるで異質なものに変化してゆく。
ーーそれは、憤怒。
激昂など、生温い。
怒り、憎しみ、悲しみ、そんな感情もろとも、あらゆる全てを燃やし尽くす業火。
娘の命を奪われたことで生まれた、復讐者としての赫怒。
男が立ち上がり、娘を殺めた女へと剣を向ける。
その瞳を見て、過去の自分の身体が芯から恐怖に雁字搦めにされるのを、中に入っているリティリーは感じ取った。
今こうして、過去のフィルターを通して見ても、凄まじい感情が伝わってくる。
男の存在全てを込めた激憤の目に射抜かれて、例え今身体が動かせる状態であったとしても、やはり自分は動けなかっただろうーーと、リティリーは述懐する。
それ程までに強烈な男の鬼気が、彼女の全身に叩き付けられていた。
未だ嘗てない気迫を漲らせた剣士が、復讐の剣を振りかぶる。
身代わりとなった少女の身体に細剣を置いたままの過去のリティリーは丸腰で、おまけに気圧されて身動きを取ることが出来ない。
男がただ剣を真下に振り下ろせば、報復は完了する。
呆気なくリティリーの身体は赤を撒き散らして、その生命活動を停止するだろう。
(......っ、ごめんなさい......ッ!)
だが体内のリティリーは、それが訪れない事も、また彼がこの先どうなるのかも、知ってしまっている。
故に、せめてもの償いに、彼に届かぬ謝罪の言葉を投げかけた。
ーー目の前で火花が激しく飛び散る。
鍛えあげられた鋼と鋼が、打ち下ろしと打ち上げで迫り合い、その接合部の摩擦によって熱が生じたのだ。
つまり、仲間の窮地に横入りした大剣使いの刃が、間一髪で復讐者の断罪の一刀を受け止めた、という事である。
拮抗状態を維持したまま、言葉で説得しようと試みたのであろう。
大剣使いが、口を開きかけるが、そこから意味のある音の羅列が綴られる事はなかった。
その時には既に、憎しみに囚われた男の頭部を、太い矢が貫通していたからだ。
高速で射出された矢の先端ーー鋭利な刺突具が、あっさりと頭蓋を突き貫き、脳漿を散乱させて男の動きを停止させていた。
娘を奪われた男の怒りが。
娘を殺した女への憎しみが。
娘を失った父親の悲しみが。
一人の子に向けた親の愛情が、頭から吹き出す赤い液体とともに、外の世界へと流れ出てゆく。
重い地響き立てて膝を折った父親の、魂を空にした抜け殻が、物言わぬ娘の亡骸に寄り添う形で、緩やかに倒れ伏していく。
偶然にも折り重なった男の右腕が、最愛の娘を抱きしめたように見えたことが、ただひたすらに、見る者にもの悲しさを与えていた。
ガランッーーと、重い金属を放り捨てる音が、沈黙に支配された惨劇の中心に響く。
地に投げ出した大剣に目もくれず、踵を返したパーティーのリーダーは、憤りを隠す事なく荒々しい地響きを立てて、仲間の弓士の元へと向かっていく。
目線を逸らし佇む弓士の真ん前で立ち止まり、重量武器を扱うために鍛え上げられた太い右腕を伸ばして、骨太の五指で相手の胸倉を掴み捻り上げると、
「お前ッ......話を、聞いてなかったのか......ッ!? 殺すなと言ったはずだぞ!! 馬鹿野郎ッ!!」
強引にその腕を自分に引き寄せたリーダーが、毛孔が見えるほどに近づいた顔面目掛けて、歯茎を剥き出しに怒声を浴びせかけた。
「十分に、間に合ってただろうが! 射つ必要はなかっただろ! なんでッ......なんで、待てなかった......ッ!」
「......それは結果論だ。あの状況では、ギリギリ間に合うかどうかも怪しかった。
ここで、リティリーを失う訳にはいかないだろう?
どの道、この国から逃げ出すのに失敗した時点で、彼らの命運は尽きている。
遅いか早いかの違いだ。
......俺は、間違った判断ではないと、そう思っている。
リーダー............あんたは、優し過ぎる」
憤懣やるかたない思いに苦しげな表情で、リーダーの戦士は布地を握る拳を強く震わせる。
自分のことのように嘆く戦士を前に、冷徹と取られてもおかしくはない正論で返した弓士の男は、自身の正当性を主張しながらも、その目元に遣る瀬無さを浮かべていた。
「だとしても、こんな終わり方はねえだろうよ。
クソったれッ! この国は、イカれてやがる!!
......とにかく、遺されたこの少年だけは、何としても生かすぞ。
この子に国外逃亡の意思はなかった。
親に無理矢理連れ去られそうになった所を、俺たちが救い出した。
それでいく、いいな!?」
この先おとずれる国による調査の目を誤魔化し、処理されるであろう若い命を拾い上げるため、リーダーの男は自分達の方針を口にしつつ、石畳の上で微動だにせず家族を凝視している少年に目を向ける。
その光景を、立ち尽くしたまま呆然とする過去の自分の中から見つめていたリティリーも、同じく視線を少年へと動かした。
瞬き一つせず、折り重なる父と妹を直視する彼の瞳は、父親と同じ黄色の色彩の中心に深い深い闇を宿した絶望の黒を押し込めて、死人と見紛うばかりに静かに息を殺している。
全ての感情が抜け落ちた蝋人形を思わせる白さの顔色で、一切の心の動きを他者に悟らせず、ただ静かに。
彼が今、何を思っているのかは、家族を一瞬で奪われた事の無いリティリーには分からない。
だが、その黄の瞳の奥底に、闇夜よりも昏い憎悪の灯火を煮えたぎらせて父娘の姿を目に焼き付ける少年の、長年目に慣れ親しんだ黄色い髪を打ち眺めて、リティリーは己の咎を理解した。
この日、聖王国の一都市の片隅で起こった逃走劇は、事実を歪められて民衆へと伝わる。
重税によって生活が困窮し、法によって二人の子供を奴隷として国に差し出す羽目となった一家を、脱税を故意に繰り返し、国に叛意を持つ重罪人たちに変えて。
国外に逃げようとするも、近隣の密告によって国から派遣された捕縛者に見つかり、狂言をもってして活路を見出そうとした家長を、健全な少年を盾に国へ刃を向けた悪辣な心根の屑であると吹聴して。
子を想う親の愛は、利己的な打算に。
父を案じる娘の犠牲は、害悪を排除した成果に。
最愛の魂を奪われた男の怒りは、見苦しい無駄な足掻きとして。
民衆は歓喜する。
またひとつ、我々の愛する国から汚物が取り除かれたのだと。
この素晴らしい法に背く輩など、処分されて当然であると。
まやかしの大道で道徳を塗り潰し、狂信的なまでに愛国心を植え付け搾取する。
それが、かの国の実態。それこそが正義。
非条理な結末に貶められる未来が待ち受けた彼らの頭上に、遂に泣き出した黒雲が、堰を切ったような哀哭の涙で追悼の意を示した。
たちまちの内に幾つもの小さな流れを下界に生み出し、そのひとつが安らかに眠る親子の身をひたひたと浄化してゆく。
赤の汚れを洗い流し、こびり付いた落涙の跡を雨粒で上書きして。
その流れは、少年にも同様にたどり着くが、彼はそれを拒絶するかのように、ゆっくりと身を起こし立ち上がった。
天の意に逆らう動きで雨水を浴びる少年は、頂きを仰ぎ見てそっと何かを呟いたが、雨音にかき消されて誰一人として聞き取ることが出来なかった。
そこまでを見届けた時点で、雨足に呑まれていたリティリーの視界が唐突にぶれ始め、徐々に暗い靄で情景が覆われていった。
目に映るものが何ひとつなくなり、それと同時に体が自由に動き、意識が自身へと同化したのを感じる。
だが、闇というものは元来人の恐怖を際限なく助長させるものだ。
根源的な本能に囚われて、リティリーは心細さと不安に身を震わせる。
そうしていると、一向に動きの無い空間で、暗闇の中に立ち尽くす感覚に陥っていたリティリーの耳に、最初に聞いた重い声音が、厳かに問い響いてきた。
《汝の罪を、しかと見届けたか?》
目には見えない主の問いかけに、自分の中から抑えきれない感情が溢れだす。
罪を目にして、見せつけられて、思い出して、それでも消化しきれない想いが、怒涛のようにリティリーの口から漏れ始めた。
「......ええ。嫌になるくらいにね。
正直、見たくもなかった。思い出したくもなかった。
ねえ、どうして見せたの? 私に後悔させるため? 断罪するつもりなの? ......それもいいかもしれない。
きっと私は、誰かに裁かれたかった。
暴走した馬鹿な小娘のせいで、ひとつの家族を壊してしまった。殺されても文句は言えないの。
でも、誰も私を裁かない! リーダーたちはいなくなってしまったのに、私まだ生きてる!
どうしたらいいの? 死ぬのは怖いわ。だから自分ではできない、ひどい話よね......。
ずっと、自分が許せなかった。
死ぬ程悔やんで、あれから変わろうとした。でも無理なの。
あの娘の顔が、目に焼き付いてる。
肉を貫いた感触が、手にこびり付いてるの。取れないのよ。
ふとした瞬間に蘇ってきて、狂いそうになるわ。
妹の存在がなかったら、私はとっくの昔におかしくなってた。
たったひとりの家族がいたから、私はなんとかここまでやってこれたの。
だから、どうしてもあの子を助けたい。
御影草が、絶対に必要なの。
お願い、私はどうなってもいいから、あの子を救わせて」
止め処なく語られる彼女の内面が、意味を持つ語句として音に乗せられる。
この声の主以外に聞かれる心配がないからこそ、リティリーは感情の赴くままに、誰にも話した事はない真意を語る事が出来た。
それと同時に、これが自分の本意だったのだと少し驚き、苦笑を零す。
案外、言葉にしなければ自覚出来ないものなのだな、と認識して。
リティリーの独白を静かに聞いていた声の主は、再度の問いかけを発する。
《それが汝の答えか?》
「ええ、そうよ。
それが、私の全て。それだけが、望み」
《良かろう。ならば行くがよい》
そう言って、聞くべき事を聞いた暗闇の主人は、微かに満足気な響きを残して、気配を薄めていく。
戸惑うリティリーの周囲が、ぼんやりと白く光りを点して、闇を払拭し出した。
最後にひとつ、聞きたかったことを彼女は口にする。
「ねえ、他の二人も、過去を見ているの?」
《然り。例外はない》
即座に返ってきた返答に、意外に律儀なのね、と思いつつ、感謝の念を抱く。
空間の大部分を塗りつぶした白が、目覚めの時が近い事を知らせている。
「そう。なら、私の願いも、もうすぐ叶うかもしれないわね」
恋い焦がれた乙女が抱く一途さと、生に飽いた世捨て人の厭世感の入り混じった微笑みを浮かべたリティリーを、発光する光源がひと息に包み込み、現実世界へと連れ去っていった。