第15話 『過日の咎 Case:R -1』
《Sight:リティリー》
ふと気がつくと、リティリーの視界は、訳の分からない状態となっていた。
目に映るのは、石造りの家々、敷石で舗装された通り、すれ違う人々。
どう見ても、何処かの見知らぬ街並みの風景だ。
それらが、なぜか次々と後ろに流れ去ってゆく。
体は全く動かす事ができない。
瞬きさえも不可能。
まるで、金縛りにあったかのような事態で、目線だけをキョロキョロと動かしながら、順送りに前へと進んでいく事だけが分かる。
(これは......走ってるの?)
そう、リティリーが思った理由は、自分の耳が正常に音を拾っているらしい、という事に気付いたからに他ならない。
今いる場所は、住宅地の路地のひとつであるようで、過ぎ去る際に、井戸端会議をする女性たちの話し声や、はしゃぐ子供逹、キリキリ石畳と摩擦音を立てる荷車など、ささやかな騒めきが入れ替わり立ち代わり耳に入り、遠ざかってゆくからだ。
なにより、断続的に続く、他人のものと思うには余りにも近すぎる息遣いが、間近で聞こえ続けている。
視界に映る前髪と鼻先らしきものに加えて、チラチラと目の端に入る細長い手足。
全てひっくるめて、今の自分の状況を知る判断材料となった。
これらから導き出される答えは、自分が誰かの中に入ってしまっているのではないか?ーーというものである。
なぜこんな事になっているのか、リティリーには全く理解できない。
当然、先程まで自分の側にいたオスタとフュフテの姿も無く、ここは御影草のある洞窟内ですらない。
薄暗さとは真逆の、真昼間の明るい街中にいるのだ。
頭上で照らす日光によって熱せられた地面から陽炎が上がり、遠くに蜃気楼さえ生まれる陽気の中、ひたすらに疾走する身体に入って、ただ景色を眺めているという現況。
やはりあの魔石は転移の罠だったのか、と一瞬考えるが、こんな誰かの体内に飛ばされるなど、聞いた事がないしあり得ない。
混乱の最中にありながらも、努めて冷静であろうとするリティリーだったが、突然女性の甲高い叫び声が、街中の喧騒を切り裂いて耳に飛び込んできたため、意識を全てそちらに持っていかれた。
視界を共有する身体の持ち主もそれに気付いたようで、急激に走るのをやめ、悲鳴の上がった後方を振り返る。
立ち止まった瞬間に、ぶわっと熱気が立ち込めて、熱さが込み上げるのをリティリーは感じた。
どうやら、五感をすべて共有しているようだ。
走り続けていたせいか、停止した事で一気に汗が吹き出して、身体が燃えそうに熱くなる。
軽装とはいえ、そこそこの重量の鉄の胸当てと長袖なんて着たまま走れば、この暑さで汗だくになるのは必然というもの。
この身体の主は、何を考えてこんな格好をしているのか。
一向に操作する事のできない五体のせいで、汗を拭うこともできず苦しむリティリー。
そんな彼女など全く感知せず、身体は声の方へと向きを変えて、景色を置き去りにする速度を増しながら、目的地へと全力で駆けてゆく。
何をそんなに急ぐのか、と疑問に思うリティリーだったが、不意に違和感を感じた。
徐々に慌ただしい雰囲気の現場が近づくにつれて、リティリーの中の何かが、急に警鐘を鳴らし始める。
ーーだめ、これ以上、近づいてはいけない!
意識の奥底から湧き上がる焦燥に戸惑うも、自由のきかない身体は、一刻も早く現地に辿り着くため、勢いを落とさず走り続ける。
(なぜこんなにも、嫌な予感がするの......? 違う......私は、きっと知っている......!?)
ーーあるわけが無い、そんな筈はない。
忘れたはずのーーいや。
忘れられずに、思い出さぬよう厳重に封をしたはずの、苦々しい記憶がゆっくりと蓋を開け漏れ出した。
(止まって! 行かないで!)
リティリーの、声にならない必死の叫びは体に全く伝わることなく、街通りを駆け抜ける人物は遂に舞台へと足をかけ、事件の渦中へと飛び込んだ。
そこで目にした光景を前に、リティリーは絶句する。
行き着いた先で上映されていたのは、彼女にとって最も忌避する、忌まわしき過去の情景であったーー。
まず真っ先に目に入るのは、抜き身の剣を幼い少女の首筋に当てる、壮年の男の姿だ。
三十代半ばの剣士くずれの男は、それが自分の生命線であるとでも主張する体勢で、少女を胸に抱き寄せている。
隈の浮いた目をギラギラと血走らせ、追い詰められた表情で息を荒げているのは、ここまで何かしらの逃走劇を経たせいであろうか。
「近寄るな! コイツを殺すぞ!?」
左腕でガッチリと、少女の細く未成熟な胴体を拘束する男は、口から唾を飛ばして二人の追跡者に脅しをかける。
(ああ......そんな......嘘よ......だって、あの二人はもう......)
少女を人質に取る男と向かい合う二人の男性の顔を見て、リティリーは悔恨で泣きそうになり、思わず両手で顔を覆おうとするが、強制的に四肢の自由を奪われた今、自ら視界を塞ぐ事は許されない。
彼らは、以前のリティリーのパーティメンバーだ。
探索者として駆け出しの自分を育ててくれた恩人でもあり、大切な仲間たち。
そして、もうこの世にはいない者たちでもある。
ここまで来れば、流石にリティリーも今見ているものが、過去に起こった出来事である事に気付くと同時に、この身体が誰のものかも悟る。
これはーー自分だ。
八年前の、無思慮で根拠のない自信に溢れた、若い自分の身体の中に入っているのだ。
剣の才能に胡座をかき、実績も無いくせに自分には何でも出来ると奢った、愚かで哀れなリティリーという名の少女。
彼女は、今から現実を知り、一生拭うことの出来ない罪を背負う事となる。
過去のリティリーの仲間である二人、リーダーの大剣使いと弓士の男は、捕らえられた人質のせいで迂闊に動く事が出来ず、機を伺っているのか只々暴漢と向き合うばかりだ。
彼らの視線の向かう先には、くすんだ黄髪の十歳前後の少女が、胸を締め付ける腕の強さに苦悶の表情を浮かべている。
「い......もうと、を......はな......せ」
その足下から、息も絶え絶えな、か細い声が上がった。
見ると、質素でお世辞にも身綺麗とは言えない汚れた格好の少年が、うつ伏せに地面に倒れており、必死の形相で剣士くずれの男を見上げている。
鼻の周りを赤く濡らし、唇から血を垂らしているのは暴行を加えられたせいだろうか。
「うるせぇッ! 黙ってろこのガキャあっ!!」
耳障りな罵声と共に、非情な足蹴りが少年の横腹に見舞われ、鈍い音とくぐもった呻きが人通りの減った路地に落とされる。
「お兄ちゃんっ! うっ!」
「モ......二......」
「動くなガキぃ! おらてめえら! さっさと武器捨てて、馬車持って来い! コイツがどうなってもいいのか!?
俺はいいんだぜ? こんな薄汚え小娘、死のうがなんとも思わねえからなぁ!」
醜く口端を歪めて愉悦に浸る男は、反射的に兄に飛びつこうと動いた少女の首に腕を回し、抵抗できぬようキツく締め上げた。
このまま男の要求を飲んで、リティリーの仲間二人が武器を手放したとて、あの男が人質を解放する保証など何処にもない。
いや、確定的に無防備になった二人を斬り捨て、すぐさま逃走を図るであろう。
どうすればこの状況を打開できるのか、分からない。
手詰まり、といってもよい。
ーーと、普通ならば、そう思うだろう。
だが、事実は違うのだ。
目に移るものだけが、決して真実ではないのだ。
今ならば、リティリーには分かる。
なぜ、腕利きである二人が、人質がいるとはいえ、さして実力があるとは思えない男の要求を黙って聞いているのか。
なぜ、刃物を突きつけられている筈の少女が、苦しそうにしているだけで、恐怖に怯えていないのか。
なぜ、地に伏す少年は、殴られた痕があるだけで、剣による切り傷がひとつもないのか。
なぜ、あの男は、あんなに痛みを堪えた眼をして、少年少女を見つめているのか。
気付く要素は、いくつも転がっていた。
それでも気付けない。
いや、気付こうとすらしなかった。
それだけ、自分の事しか考えていなかった。
自分なら、この状況を簡単に解決できると。
あんな雑魚など華麗に叩き斬り、自身の万能性を示し、己の評価を上げようとして。
傲慢に冒された若い女剣士が、腰の細剣をシャラリ、と鞘から抜き放つ。
男の背後に距離をあけて立っているため、未だ存在に勘付かれていない。
(やめなさいッ! あれは違うのッ! あんたの思ってるような、そんなんじゃないのッ! 聞いてッ!)
喉も枯れんばかりに上げたリティリーの大声は、やはり彼女には届かない。
それが解っていても、リティリーは彼女を静止するのを止めなかった。
止めることが、できなかったのだ。
身体が深く沈み込み、次に足で大地を蹴る感触を感じた。
一瞬で肉薄する男の背中。
男が背中越しに振り返り、即座に迎撃態勢をとる。
どうやら、それなりに戦闘経験はあるらしい。が、
「ぐあっ!」
鋭い突きを男の右太腿に繰り出し、即座に引き抜く。
男が激痛に叫びを上げ、態勢を崩し、人質が腕から解放された。
ーーほら、大したことない。
そう言いたげに目を細め、口許を吊り上げる彼女の顔は、まさに驕慢。
傲岸不遜甚だしいその態度は、いっそ見る者に嫌悪さえ感じさせる。
あとは、心の臓にひと突き。
それでお終い、万事解決だ。
後方に剣を振り絞り、右手首を捻って、とどめの突きを放つとーー、
(やめてええぇぇーーーー!!!!)
リティリーの絶叫と同時に、ずぶり、と肉を貫く感触が、右手に重くのし掛かった。
対象の細い首筋から、どろりと朱が染み出す。
信じられないものを見たように、不遜な女剣士の目が限界まで見開かれた。
ーー首? 胸を狙ったはず......なにが......え......。
「パパ......に......げ............て......」
傷口から漏れる空気と喉にこもる血液のせいで、絞り出された少女の声は、ひどく聞き取りづらく消え入りそうに小さい。
にも拘わらず、不思議と耳の奥底まで浸透する声音は、強固な意志の中に微かな安堵の色を湛えている。
最後に紡がれたその言葉は、少女が身を挺して庇った男の、前途を案じるものであった。