第13話 『不吉な道程』
世界有数の難所の中でも、一二を争う過酷さを秘めたこのアルシオン山脈は、その規模もまた驚くべき大きさを誇っている。
地平の遥か彼方まで続く裾野は、末端を目にするなど烏滸がましいとでも主張するようで、見上げる者の視界を埋め尽くさんばかりに立ちはだかる。
当然、山である以上、上へ上へと登るにつれて、徐々に細く形は収束していく筈なのだが、人智を超えた規模であるからして、下層から上層まで一向に幅が変わらない気すらしてしまう。
唯一の休息所とも言えるこの中腹でさえ、それは例外ではない。
仮に、想像もつかない程の巨大な刃で、この山の中腹を真横に真っ二つに断ち割ったとしたら、その断面は大都市が百か二百、すっぽりと収まってしまうぐらいには、広大な面積となるだろう。
あまりにも膨大な範囲のため、比較対象と出来るものがそうそうある筈もなく、伝聞で実感してもらうのはとても難しい。
もしも、一度でも付近を訪れる事があれば、ぜひともその威容を目にしてもらいたいものである。
百聞は一見に如かず、だ。
そんな中間地点ではあるが、実際はまだまだ先へと続く断崖を中心に抱いているため、まともに歩ける場所は全体の十分の一以下となっている。
それでも相当な広さである外周の、ほんの片隅に位置する目的の一角を目指して、三つの足音が無風の山道にじゃりじゃりと音を刻んで、歩みを進めていたーー。
「悪いな、道案内を頼んじまって。洞窟に着いたら、入り口で待ってて構わねえからよ」
足場の悪い岩道を粛々と進む中、沈黙に耐えかねたのか、精悍な顔つきをした若い黄髪の剣士が、少し前を先行する少年に声をかける。
「いえ。出来れば僕も中に同行させて貰えるとありがたいです。先生も、取りに行くだけなら危険はないと言ってましたし。
......それに、他人事ではないので」
なだらかながらも要所要所に点在する、進行の邪魔になる大き目の石塊を避けて傾斜を歩んでいたフュフテは、話しかけてきたオスタをちらりと見返り、自身の要望を述べる。
そんなフュフテに若干顔を曇らせるオスタの代わりに、
「でも、あの竜のお方の口ぶりでは、何もないという感じではなかったけれど......本当に大丈夫かしら?」
少し不安げに薄茶のお下げ髪を揺らして、リティリーがここに来る前から抱いていた気懸りを口にする。
それでも、ある程度の不測の事態に襲われたとて、それなりに対応できる自信があるのだろう。
彼女の足取りはしっかりしており、腰の後ろに斜めの向きに釣られた細剣の柄を握りしめて歩く様は、常に警戒を怠らない熟練者としての風格を漂わせていた。
「さあ、どうでしょうか......。先生の言っていた事は、いまいち要領を得なかったですからね」
おっと、と呟いて、踏み締めたら足の裏を怪我しそうに尖った石ころを回避しつつ、フュフテはグググ先生の言っていたことを思い返す。
※ ※ ※ ※
『フュフテ、お主、まさかあの毛皮で寝ておったのか......? おいヴァイス! 少々、こやつに酷ではないか?』
「すまん。知らなかった」
多大なエネルギーを消費するため非常に疲れる、という理由で、赤い竜形態から元の白い棍棒にその身を戻したグググ先生は、ぴくん、と頭を上に向けて、イアンを非難する。
責められたイアンは、心なしか秀麗な眉目を垂れて、罪悪感に浸っているようにも見えた。
意外にも、この一糸纏わぬ偉丈夫は、割と常識的な感情を持っているのだ。
悪いと思えば素直に謝るし、物事を尋ねればきちんと返事を返してくれる。
ただ少しばかり、腰から下に常識が足りないだけに過ぎない。
『全く、お主はいつもそうだ。興味のない事はまるで覚えぬ。我がどれだけ苦労したか......。
まあ良い。知らなかったのならば、仕方あるまいな』
「いや、全然仕方なくないです、先生。僕にとっては、一大事です。
その、血が出る以外に、病気にかかっているかどうかの判別はできないのですか?」
『ふぅむ。さて、我も全てを覚えている訳ではない故な............おおっ、そういえば!』
なんとしても病気の有無をはっきりさせたいフュフテにせっつかれ、先端を真下に向けてビクビクと唸っていたグググ先生は、ふと、思い出した! というように勢いよく先端を持ち上げると、
『そうだ! 御影草の葉を尻に当てればよい! 直接地に生えている状態のものであれば、それで判断できる』
「本当ですか! 当てた後は、どうすれば?」
『うむ。病にかかっていなければ、百を数える前に葉は自然と離れてゆく。もし患っていたのならば、半日は尻から外れぬのだ。
昔は、この病はそうやって治療をしておったのだぞ? ......時が流れるにつれ、群生地が減ると共に、今では知る者も少なくなってしまったのやも、知れぬがな』
何かを思い出したのか、しみじみと哀愁を感じさせる素ぶりで、へなへな地面と向き合っていたグググ先生は、今しがたの判別方法を反芻しているフュフテを見て、
『その様子だと、共に行くつもりであろう? うむ......お主であれば、大丈夫であろうが......』
「? もしかして......危ないところなんですか?」
少し声の調子を落とし、我が生徒に伝えるべき言葉を探している。
持ち前の臆病さを発揮して、不安を露わにそわそわし出した少年の問いに、
『直接危害を加えるものは、生息しておらぬ。採取するだけならば、危険はない。余計な事をしなければ、であるが』
歯切れの悪い返事で答えるグググ先生の、いつもの快活さとは程遠い姿に、フュフテはますます不安を募らせてしまう。
やっぱり行くのをやめようか、いや、そういう訳にもいかないーーと、思い悩むフュフテに、グググ先生が何かを決意した身ごなしで、ぐぐぐ、と姿勢を正し、物々しく尿道を開く。
『フュフテよ。目に見えるものだけが、真実ではないのだ。きっかけ一つで如何なる脅威にもなりうる。
げにおそろしきは、人の業というもの。ゆめゆめ、忘れるでないぞ?』
「......よく、分かりませんが、気をつけます。先生」
なにやら意味深な訓辞で返答し、注意喚起を促す白い根の先生は、真面目な雰囲気で少年を見つめてくる。
グググ先生から薫陶を授かったフュフテは、これまた生真面目にコクリと頷き、目的地へと向かうために準備をしている二人の探索者の元へと合流する。
治療薬の材料である御影草が群生する洞窟の、行った事は無いがおおよその場所だけは分かるフュフテを道案内に、いざ目的地へ、という段になって、
『お主らに、忠告しておこう。洞窟内で、何を目にしたとしても、けして自分を見失うでないぞ?
それと、最奥に群生するものだけは、絶対に採取してはならぬ。よいな』
いつになく真剣な声音で、重々しく言の葉を紡ぐグググ先生の様子に、一抹の不安を抱えながらも、一行は目標地点へと辿り着くため、その場を後にしたーー。
※ ※ ※ ※
「なあ、フュフテ。洞窟ってのは、もしかしてあれか?」
機械的に足を動かし、下を向きながら思考の檻に囚われていたフュフテは、後ろから上がったオスタの声に、はっと顔を上げると、己の視界に小さく映る目的の穴蔵を目に留めた。
一歩一歩近づくにつれて次第にはっきりしてきたその洞窟の外観を見て、フュフテは背筋に這い上がる悪寒に身震いする羽目となる。
それは、人の頭蓋に近しい不気味な姿をしていた。
暗色の苔むした岩壁から生み出された入り口の真上には、抉れた眼窩を模した大きな穴が二つ。
その間にある半円の窪みは、丁度鼻にあたる位置に存在しており、あたかも虚ろな亡者のごとし様相を象っている。
両脇に鋭利で長い岩の牙を上下二本ずつ備えた開口部は、丁度人一人が通れるくらいの高さと横幅で、侵入者を暗黒の喉奥に飲み込まんとするかのようだ。
「気味が悪いわね......こんな形の洞窟、初めて見るわ......」
「なんだ? 怖えのか、リティリー? ただ骸骨みてえな顔してるだけじゃねえか。情けねえな」
「そんなんじゃないけど、なんか、嫌な予感がするのよ......入ったら出られないような」
立ち込める冷気に寒気を覚えたのか、軽く自分の両腕を抱いてさするリティリーに、小馬鹿にした顔で揶揄するオスタ。
そんな二人のやり取りが、常日頃からのものなのかは、彼らとの付き合いの浅いフュフテにはよく分からないが、あまりいい空気ではない。
もしかすると、オスタも内心では怖いのだろうか。
それを誤魔化すために、わざとああいった振る舞いをしてるだけなのかもしれない。
なにせ、これほど気色の悪い洞窟を見てなお入ろうと考える奴は、明確な目的を持っている者か、気の狂った阿呆のどちらかでしかないーーそう、フュフテは思うからだ。
少なくとも、自分は怖い。
すごく、怖い。
今すぐ回れ右をして帰りたい、と思う程度には不吉なのだ。
しかし悲しい事に、「そうですか、ではお帰り下さい」という訳には行かない。
病気かもしれないのだ、自分の尻は。
身体の何処にも特に変調が見当たらないので、自覚が全く湧かないが、もしかすると今にも死んでしまうかも知れない。
そんな病気にかかった可能性を、抱えてしまっている。
本来ならば、臀部からの出血の過多によって、病の前兆を嗅ぎとることが出来るのであろうが、残念ながらフュフテの臀部は、血塗られた日々を過ごしている。
ほぼ毎日噴水のように激しく血しぶきを撒き散らし、強敵との熱き戦いを繰り広げる様は、まるで狂戦士の如き有様だ。
「お尻のバーサーカー」という二つ名が付いても、ちっともおかしくはない。
こんなに、尻をいじめ抜いたのは初めてだーーと、フュフテはちょっとだけ自嘲げに口許を歪めて、自分を奮い立たせる。
これだけ熾烈な修行を行なってきたのだから、何か恐ろしいものがこの洞窟に潜んでいたとしても、きっとなんとかなるだろう。
今こそ、その成果を見せる時。
そう考えて、不安で逃げ出したくなる臆病な自分を押し込め、慎重に洞窟の入り口に体を飲み込ませてゆく二人の探索者の後へと続く。
だが、そんな三人の侵入者に容易く目的を達成させるほど、悪意に満ちた髑髏の岩窟は、甘くはなかった。