第12話 『いつからただの王様だと錯覚していた?』
『ーー静まれええぃッ!!』
次元を断ち割る壮烈な怒号が、猥雑な思念に染まりきった衆目の頭上から、荒ぶる神の鉄槌の如く下された。
その神々しい荘厳に満ちた一喝に、憎悪に捕らわれた男と、慈しみを注ぐ女、思わせぶりな少年が、それぞれ弾かれた様に体全体を跳ねさせる。
「な、なんだ、この声は!?」
漲らせていた憎しみの念を、矢庭に叩きつけられた怒声にかき消され、オスタは狼狽えながら主を探す仕草で首を回す。
そんな彼に思い知らせる勢いで、裸の土台から天空へと飛翔するに最適な傾斜角を保っていた益荒男が、目も眩むような赤光を放ち始めた。
神秘的な深紅の衣を顕現させた男神は、以前見せた薄桜の被り物とは桁違いの濃厚な赤のヴェールを御身に纏うと、その形状を変化させる。
自身の何百倍もの体積に広がった紅蓮のエネルギーが、徐々に人が物体として認識できる存在へと成り代わってゆく。
ーーそれは、巨大な顎門であった。
びしりと居並ぶ獣性むき出しの歯列は、この世の如何なる物体をも噛み切る程の鋭さを帯びている。
その直ぐ上、先端に突き出た部位にある二つの細長い楕円の穴からは、赤々とした鼻腔が垣間見え、ひと度匂いを知覚されたのなら、逃れ切ることなど不可能だ。
最上に位置する全てを見透かすアーモンド型の瞳は白く輝き、暴力的なまでに威圧溢れる眼光を持ってして、矮小な獲物たちを見据えていた。
イアンの腰の左右両端を通過する形で伸びた長大な角を含めて、三人の眼前に姿を現したのは、まさに【竜】と呼ぶに相応しい、厳然たる神格を備えた超越者であった。
『この愚物共がっ! 我の前でくだらん諍いを見せるなど、不愉快極まりないわっ!
其処な小僧は、この我が直々に鍛えし者。貴様らのような無知蒙昧な輩に、とやかく言われる筋合いなど皆無よ。
修行の邪魔ゆえ、早々に立ち去るが良い!』
特大の赤竜の口から威厳ある御言葉をグググ先生が切り出すと同時に、ブシャーーッ! っと、激しい噴出音が聞こえた。
イアンの下腹部と接するグググ先生の根元から、真紅のエネルギーが追加で噴き出し、見る見る内に側面に巨大な両翼を形作る。
大きく翼を広げた全長は、大人三人が両手を伸ばしたぐらいの幅広さで、今は威嚇を伴ってバサバサと揺れ動いている。
降って湧いたように現出した異様な存在に、驚愕で誰一人動く事が出来ない。
それも、当然というもの。
オスタとリティリーからすれば、怒鳴り声と共に裸男が急所を紅く光らせ、大きなドラゴンをいきなり股の間から生み出したのだ。
これで驚かない者など、普通はいない。
そんな奴は、人生を一からやり直した方が良いくらいだ。
勿論、イアンの下半身事情をよく知るフュフテも、この光景には戸惑いを隠せない。
(グググ先生がっ! 変身したッ!? ほんと、どうなってるの先生......。
ていうか......あの翼、意味あるの? え、飛べないよね?
いや、もしかしたら、体から外れて飛ぶのかもしれない......。なんだそれ......めっちゃ怖い!!)
空飛ぶグググ先生に襲われる場面を想像して、情けなくもビビる小心者の少年は、目を瞠って気圧されたかのように、ちょっとずつ後ずさる。
ついさっきまで心の中でグリフィスに助けを求めていたというのに、自分の先生が晒した真の姿に尻込みするとは、なんとも薄情な生徒である。
そんな平々凡々な少年とは違い、探索者として多くの経験を持つ二人の男女は、フュフテとはまた別の驚きを持って声を上げた。
「竜っ!? もしかして......この人、竜族なの!? うそ......ホントにいたんだ......」
「まじか......伝説上の種族じゃねえか。じゃあ、あれか? さっきの訓練ってのは、嘘じゃなかったってことか......」
リティリーとオスタの発言に対して、基本的に物を良くしらないフュフテは、「竜族って何?」という表情で、二人を見つめる。
ちなみに、フュフテが些か物知らずなのは、師匠のニュクスによって外界から隔離された環境で、ひたすら魔法修行のみをさせられていた所為である。
幼馴染であるニーナや、サシャとミシャ達との交流はあったが、それも決して多くはなく、大半が命掛けの特訓生活であった。
そのため、少々世間に疎い少年として育ってしまった感は否めない。
竜族とは、山の民と呼ばれる多種族の内のひとつであり、彼らの精神は、精強でありながらも崇高。
最強といっても過言ではない抜きん出た力を持つが故、無闇矢鱈に力を誇示する事を良しとせず、己を厳しく律する気高き一族である。
伝説と称される所以は、彼らがまず人前に姿を表すことが皆無に等しいせいだ。
一番の理由としては、竜族は成人までに竜の英霊との契約を行う為に、過酷な修練に励まねばならない。
無事に契約を交わせれば、その偉大で誇り高い英霊の魂と強大な力を、自分の身体の一部【ごく稀に武具など】に宿すことが出来る。
そのため、外の世界に出て遊んでいる暇などないのだ。
そんな竜族の存在を、お伽話に近い形としてではあるが、オスタとリティリーは知識として知っている。
気高い精神を持つ彼らが、力任せに弱者を襲い、下衆な行いをするなどあり得る筈がない。
イアンが竜族のひとりである事を知った二人は、自分たちが大いに誤解していた事を悟り、
「申し訳ありません、竜のお方。私達の早とちりでした。お許し下さい」
「すまねえ。失礼な態度を取っちまった。許してくれ。この通りだ」
謝罪の言葉と一緒に、目の前の神々しい赤き竜と銀髪の男に対して平身低頭、深々とこうべを垂れた。
『ふむ。無知である事を、我は責めはせぬ。その潔さに免じて、先刻の無礼は帳消しとしてやろう。
ヴァイス。それで良いな?』
厳かに述べたグリフィスは、その大きな鼻腔から真っ赤な息吹を吹いて、イアンに同意を求める。
「構わん。詮無いことだ」
さして気にしていない、という事を伝えるために鷹揚に頷き、イアンは苦笑の形に口許を緩める。
無愛想でありながらも快く謝罪を受け入れた、股ぐらから竜を生やした男を見て、男女の探索者の双方から安堵の吐息が漏れた。
※ ※ ※ ※
『して、お主らは、何ゆえこの山に登って来たのだ?
ここまで来るには、相応の覚悟と実力が伴っていなければ到達する事はできぬが、この先に進むのならば、より過酷な洗礼を浴びる事になるぞ?
目的によっては、今のお主らでは到底不可能と言わざる得んな』
「いや、俺たちは別に、山頂を目指して登ってきた訳じゃねえんだ。
実は、【魔血乏症】の治療薬の材料が、この山にあるって聞いて取りに来た」
『ほう。というと、【御影草】が欲しいという事か。
ならば、お主らは運がよいな。それが群生する地は、ここのすぐ近くにある。
容易く、とはいかんが、まあ充分達成可能な目的ではあるな』
巨大なーーとはいっても、「元の大きさに比べて」という前置きが付くのだが、それでもイアンの腰回り全てを覆う大きさに成長したグググ先生改め、『本気グリフィス』は、訳知り顔でオスタ達の目的地を教えた。
それを聞いて、
「本当か!? よかった......おい、リティリー! なんとかなりそうだぞ! やったな!」
「ええ! よかった、本当に......。これで、あの子も助かるわ......! ありがとう、オスタ」
リティリーの肩に右手を置いて喜色を浮かべるオスタに答える形で、彼女は薄茶色の瞳を嬉し涙に濡らし、祈るかのように閉じていた瞼を開いて、感謝を伝える。
飾らない妙齢の女性の綺麗な笑顔に、
「いや、まだ気が早ええって。そういうのは、無事材料を取って来てからにしろよな......」
こみ上げる感情を誤魔化したかったのか、オスタは明後日の方向を向いて、黄色い髪が少しかかる首筋をガシガシと掻き毟った。
「あの、誰か病気なんですか? 魔血乏症っていうのは......?」
「ええ、私の妹がね、その病気にかかってしまったの。
でも、薬の材料が簡単には手に入らないから治療が出来なくて......このままだと、あの子は死んでしまう」
『うむ。確か、あの病気は、一部の獣の毛皮から発生する眼に見えぬ虫が、血液を伝って体内へと入る事で起こる病であろう?
なんだ? ベラジオの毛皮の上などで、裸で寝ておったのか?』
どのような病気なのか気にかかり、フュフテが詳細をリティリーに尋ねると、横から本気グリフィスが口を挟んできた。
「いえ、ベラジオではないです。見たことはありますが、あんな高級品、うちにはありません。
あれは、すごく手触りがいいですよね? 見た目は赤黒くて固そうなのに、羽毛みたいに柔らかくて」
『あの毛皮は、我も気に入っておる。まあ、最近は使っておらんがな。
そもそもベラジオの毛皮は寝具として極上ではあるが、滅多に手に入るものでもない。
おまけに、怪我でもして傷口をさらしたまま寝ようものなら、いつ虫に侵入されてもおかしくはないのだ。
使用している者など、そうそう居るまいて。
ん? どうした、フュフテよ? 顔色が悪いぞ?』
二人の会話を聴きながら、段々と顔色を蒼ざめさせていくフュフテを見て、本気グリフィスが珍しく気遣いをみせた。
心底不思議そうに白眼をすがめてフュフテを見上げ、鼻息を吹きかけてくる。
吹き付ける熱気のこもった空気を顔面にまともに浴びながら、フュフテはここに来てからの生活を振り返っていた。
(落ち着け......冷静に......冷静に......落ち着くんだ、フュフテ。ゆっくりと、思い出してみよう)
目を瞑り、息を吸って、吐いて。
頭を空っぽにして、無心で記憶を思いだす。
自分が毎晩、体を擦り付けて堪能している毛皮は、とても赤くて黒くて固そうで、しかしその実、羽毛のように柔らかいものである。
更に、ここ最近は、どうせ破れるから面倒だと、毎日下に何も履かずに、ブラブラと過ごしている。
極め付けは、訓練によって必ず尻から血が出るため、痛みを堪えて眠ることも多い日々であり、ちょくちょく自分の穴に、細く繊細な毛先が擦れる時もあるーーという、状況だ。
(あれ? これ、大丈夫? 僕......死ぬの?)
一縷の望みにかけて、記憶を探ってみたものの、完全にアウトだった。
むしろ、全力で病気にかかりに行く積極性まで見せている有様だ。
自分が魔血乏症を発症させる害虫なら、こんな美味しい獲物は放っておかないだろう。
「あ、あのッ! もし病気にかかったらどうなるんですか!? 何か、症状とか出るんでしょうか!?」
『ん? 何やら必死よの? あの病にかかっているかどうかはな、見た目では分からぬ。
専用の検査道具を使わねば判別はできぬのだ。故に、気付かねばコロリと死ぬこともある病よ。
判断基準としては、尻から血が出る事が、多くなるくらいか?
フュフテ、お主と同じではないか! ふはははははは!』
ーー全然笑えないよ、くそドラゴンッ!!
あまりの本気グリフィスの無神経さに、普段は品性方向を心掛けているにも関わらず、思わず心中で暴言を吐いてしまう程度には、フュフテは無我夢中であった。