第7話 『尻 VS 裸族』
結局の所、ネメシアの明け透けな誘惑に屈する形で魔都行きを了承したフュフテは、悲しい男の性に頭を抱えながら、晩餐を終える事となった。
美味な食事でお腹がくちくなったのと、日中の戦闘、加えてネメシア達とのやり取りに気力と体力を消耗していたことで、瞼の重みを感じてきたフュフテに、
「お疲れかしら? いいのよ。少し早いけれど、休むといいわ。明日から忙しくなるのだから。
イアン、フュフテを連れて行ってあげて?」
テーブルに両肘を付き、指を絡めた手をおとがいに当てたまま、ネメシアが少年に優しく微笑み、就寝を勧める。
傍らで座るイアンがネメシアにいかめしく頷き、ゆるりと立ち上がってフュフテを通り過ぎ、階段の手前で立ち止まった。
ついて来い、と言いたげに視線でフュフテを促すと、それを受けた少年ははっとしたように椅子から飛び跳ね、イアンに駆け寄る。
二階へと続く階段に足をかけるフュフテの背中に、
「分かっているとは思うけど、逃げ出そう、なんて考えないでね?
身体を綺麗に切るのって、意外と大変なの。
ああ、でも、あなたのお肉を食べるのも悪くはないわね。とても柔らかそう。いけないわ、興奮しちゃう。ふふっ。
じゃあ、おやすみなさい」
眠気が吹き飛ぶほどの凄惨な笑みを浮かべて、別れの挨拶をかけるネメシアに、少年は全身に鳥肌が立ち冷や汗を流した。
フュフテの浅はかな考えなどお見通しなのか、最後に釘を刺すその抜け目なさに肝を冷やしながら、誤魔化すように弱々しく笑い声を上げて、食卓を後にする。
イアンに連れて行かれた先は、先刻フュフテが拘束され、転がっていた小さな書斎だ。
部屋の隅の一角に、いつの間に置かれたのか、何かの動物の毛皮が敷かれており、どうやらここを寝床にしろという事らしい。
自分の仕事は終わりだと、振り返ることもなくスタスタと扉から出て行くイアンを見送りながら、フュフテは大きく息を吐く。
(はぁ、なんとか乗り切った。......乗り切ったのかな? すごい不安だけど。とにかく、休もう......)
おっかなびっくり、謎の毛皮に体をうずめると、意外にもふわふわとした感触に包み込まれ、何処と無く良い香りが辺りに立ち込める。
(なんだこれ!? すごい気持ちいい! こんな柔らかいの初めてだ!)
赤黒く硬そうな見た目に反して、極上の触り心地の柔軟な毛は、横たわるフュフテの体を半分以上埋もれさせる長さで、母親に抱かれる赤子と同じ安らかさを使用者に与えている。
フュフテの身長の倍の大きさもあることから、元の生き物が相当な巨躯を持っていたことが伺えるが、未知の寝心地の良さに感動している少年には、それは特に重要ではない。
ちょっと目を見張るぐらいに美味しかった食事と、今まで体感したことのない最高の寝床。
監禁されているのか、歓迎されているのか。
よく分からない状況に内心の戸惑いを覚えながらも、押し寄せてくる眠気にあがらうことが出来ず、ここから逃げ出すことを検討する間も無く、フュフテは速やかに夢の中へと転がり落ちていった。
※ ※ ※ ※
翌朝、フュフテは、抜き身の刃物をぶら下げるイアンと向かい合っていた。
「どうした、来い」
剣呑な響きで告げる男は、相も変わらず安定の全裸に鋼鉄のグリーブという装いで、昨日と違うのは、右手に自身の身の丈と同じぐらいの長さの長剣を下げている、という所か。
「あの、何がなんだか......」
対するは、寝ぼけ眼で所々髪を跳ねさせている、寝起きの少年。
時刻はまだ夜が明けたばかりの早朝で、地平線から登ったばかりの太陽は、未だ暗闇を支配しきれてはいないが、それでも刻々と己の領域を広げ続けている。
暁の晴朗な薄明かりに照らされる少年は、戸惑いを微塵も隠せず、状況がカケラも理解できていない様子でしゃがみ込んでいる。
なにせ、体験したことのない最上の寝具で、誘拐されているにも関わらず呑気に寝入っていた所を、突然扉を蹴り開けて侵入してきた銀の裸族にいきなり襲撃されたのだ。
美しい裸族は、フュフテを掴み上げると、寝起きで混乱しまくる少年を小脇に抱え、軽快な足取りで階段を降り、玄関の扉を開けて、未だ仄暗い外の世界へと飛び出した。
家の外は一面見渡す限りの不毛地帯で、家のすぐ側には切り立った崖が垂直にそびえ立ち、壮大な威容を誇っている。
その反対側は、断崖絶壁となっており底に霧がかかって見えないことから、この場所が余程の高所にある事を示しており、落ちたらまず助からないであろう険しさだ。
無造作に地面に降ろされ、辺りをキョロキョロと見渡すフュフテを前に、玄関を出る際に掴み取った長大な剣をイアンが鞘から抜いた所で、冒頭に戻る。
「貴様の力を見る。避けねば死ぬぞ」
そう言うや否や、イアンは右手の銀の剣を構え、棒立ちから前傾姿勢へと移行し、今にも飛びかかる態勢をとった。
「ーーっ!」
その姿を見たフュフテが、反射的に起き上がると同時にイアンが地を蹴って切迫。
左側面から水平になぎ払われた剣閃は、低姿勢のまま背後に飛び退くフュフテの前髪を数本刈り取り、様子見だとでも言うように鈍く輝く。
「ほう、躱したか」
想定よりもフュフテの反応が良かったせいだろうか。
短く呟くイアンは常と変わらず無表情だが、透き通る神秘的な青眼は少し喜色を生んでいた。
一方で、辛うじて初撃を躱したフュフテは、全力で後ろ向きに地面を転がりながらイアンから距離をとり、すぐさま立ち上がった。
その顔は血の気が引いた真っ青な顔色ではあるが、どうにかして生き残ろうとする気概が、ひしひしと感じられる。
(ーーあ、あっぶなっ!! 本気で殺す気かこの人!? やばい、どうする、どうするっ......!!)
眠気など完全に何処かへ飛んで行った頭で思考を回し、ひとまず距離を取ったことで生まれた余裕で、自分が取れる戦略を選択する。
が、ことはそう簡単ではない。
そもそも剣士と魔法士では、接近戦において圧倒的に後者が不利である。
師匠のニュクスぐらい規格外の戦士であれば話は別だが、ケツからしか魔法が使えないフュフテの近接戦闘力など、一般人に毛の生えた程度だ。
過酷な魔法修行の副産物として、回避能力だけは熟練の域に達しているが、躱して殴り掛かった所でたかが知れている。
(なんとか、魔法を使うしかないっ! 長期戦は無理だ。体力が違い過ぎる。一発でかいのぶち当てて、逃げる!)
先ほどのイアンの速さを見る限り、こちらが悠長にズボンを脱ぐ隙などあるはずが無い。
ゆえに、今の衣服を着ている状態で魔法を使うしかないが、そうなると下着もろとも破く勢いで使用しなければならないだろう。
この時点で火系統の攻撃魔法は、選択肢から外れる。
なぜか?
密封された状態で火なんか使った日には、尻が丸焼けだ。嫌に決まっている。
フュフテにとって、火魔法は天敵なのだ。
となると、水、風、土系統からの選択となるが、水はあまり攻撃に向いていない。
風も、決まった形を持っていない以上、服で幾分か威力を削がれてしまうだろう。
となると、自ずと答えはひとつに決まる。
一度離れた二人の距離が、一瞬で縮まる。
たった一歩の踏み出しで接近するイアンの身体能力に驚きつつも、繰り出される斬撃をフュフテは仰け反って躱す。
だが、それも想定の内か。
異常な長さのリーチを持つ刃は、イアンの最小限の手元の動きで、強引に切り返され、一寸回避が遅れたフュフテの右肩を切り裂く。
赤い飛沫が、少年から飛び散った。
白銀の斬撃は、相手の休息を許さない。
幾たびも往来する刃先は、余分な肉を削ぎ落とす解体師のような正確さで、フュフテの身を少しずつ削ってゆく。
最初の負傷によって、ギリギリで回避することが下策であると判断したフュフテは、大きく回避することで、それをなんとか凌いでいく。
凌ぐ。凌ぐ。
ただひたすらに、凌ぎ続ける。
しかし、致命傷は避けているとはいえ、一方的に傷口は増えていく。
「ふむ。目は悪くない。だが、それだけか?」
遥か高みからフュフテを見定める眼差しで、イアンは銀閃を緩めることなく語りかける。
次第にその身に受ける刃の数が、目に見えて増えてきたフュフテは、
(できるだけ......大きな......鋭く......強固に)
死線を潜り続ける中、呼吸を止めて痛みと恐怖を必死に耐え、極限の集中力で尻に魔力を集め構築し、ひたすらに勝機を待ち望む。
細身の体は己の血に濡れ、上衣は元の緑を塗り潰して、濃い赤の衣装に様変わりしていた。
が、とうとう体力が尽きたのか。
イアンの上段からの切り下ろしを後ろに飛んで着地した際に、バランスを崩し、見逃せない大きな隙を晒す。
「終わりか?」
その身を串刺しにする軌道で、長剣の突きが一直線に穿たれた。
(ーーここだっ!!)
それを視認したフュフテは、イアンの予想外の行動に出た。
今まさに突き刺さる剣先を前に、自ら背中をさらして腹部に剣を飲み込む。
背中から腹に突き出た剣には、これまで以上にべったりと血痕が付着し、もずのはやにえの如き有様だ。
内臓が深く傷ついたことで、食道から血液が駆け上り、フュフテの口から色鮮やかな血潮がほとばしる。
その光景にイアンの動きが、一瞬の硬直に捕らわれる。
ほんの一瞬。
瞬きの合間に、消えてしまう時間。
イアン程の実力者なら、すぐさま次の行動に移ってしまうだけの隙。
だが、
ーーその一瞬で、十分だ。
「ああああぁぁぁ!!」
フュフテの腹の底からの絶叫とともに、イアンに向けられたお尻から、魔術が放たれる。
岩よりも硬く、腕よりも太く、剣よりも鋭利に。
フュフテが命がけで作り出した茶色い凶器が、尋常ではない速度で螺旋を描き、イアンの胸目掛けて尻から噴き出したーー。