第6話 『魔女の誘惑』
見るからに香ばしい茶褐色のシチューからは、何とも言えない良い匂いが漂ってくる。
羽毛がふんだんに使用された高級な寝具に沈み込む心地でスプーンを差し入れると、立ち昇る湯気が頬をうっすらと撫でて、芳醇な赤ワインとトマトの香りが鼻先で混じり合い、食卓を幸福の色に染め上げた。
(あー、やっぱりあったかい食事って、落ち着くなぁ)
込み上げてきた唾を咽下していそいそとスプーンを口に運べば、途端に広がるシチューのコクと肉の甘みでじんわりと感動が胸に染み渡り、味の優しさに涙が溢れそうになった。
噛み締めた肉は柔らかくも重厚で、程よい脂身が香味野菜と煮込まれたブラウンルーと見事に調和し、口中に旨味が広がる。
隣の皿に添えられた狐色に焼き上がったパンを齧ると、軽快な歯ごたえと共にしっとりとした中身が弾力を伝えてビーフシチューの重みを緩和し、口内をさっぱりと拭い去る。
そうすると再びシチューの濃厚さを口が欲しがり、パンとシチューが交互に入れ替わって、少年の若い胃袋を競い合うがごとく満たしていった。
「どう? お口に合うかしら?」
「はい......すごく、美味しいです」
惚けた表情でスプーンを握りしめるフュフテの幸せそうな様子を見て、慈愛に満ちた穏やかな微笑みをたたえるネメシアは、彼女の本性を知らぬ者からすれば聖母のように抱擁力に充ち満ちている。
その隣で黙々とシチューを口に運ぶイアンは、野生児さながらの格好の割にひどく綺麗な所作で食事をしていた。
どうやら食事のマナーを解する程度には、文明人であったらしい。
少なくとも服装以外は、という但し書きが付くが。
ちょうど向かい合う形で食事を始めているのは、夕刻に差し掛かる時刻であったこともあり、ネメシアが空腹を訴えたからだ。
どうやらネメシアが小さな書斎で会話を中断したのは、自分がお腹が空いてきたから、という理由が大部分を占めていたらしい。
フュフテが監禁されていたのはこの家の二階の一室だったようで、イアンに促されるままに階段を降りてきた先がこの食卓であった。
歴史を感じさせる細かな年輪が刻まれた白木は、その断面を覗かせながら仲間と組み合い、その頂きに一定間隔に揃えられた板を連ねた天板を支えて、部屋の中央にどっしりと構えていた。
平らに整った天板は、主人の胃を満足させる料理をその身に乗せ、自らの役目を全うして誇らしげに。
それを囲む四つの丸太達は、ちょうど膝丈ぐらいの身長を伸ばして主人が腰掛けるのを待っているが、今はその内の一人があるじの不在に不満そうにしている。
衣服越しに引っかかる木材のささくれを臀部に感じながら、
「あの、さっきの話ですが、僕の尻から出る魔法が治せるっていうのは、本当ですか?」
あらかたの食事を終え、正面で木製のカップに注がれたワインを楽しむネメシアに、事の真偽を伺う。
「ええ、本当よ? とは言っても、魔都でアシュレの秘宝を手に入れれば、の話だけど」
「? どういうことですか?」
右手の小ぶりな酒杯を口に傾け、喉を上品に鳴らした後、赤の液体に濡れた唇を潤しつつ、
「アシュレの秘宝はね、彼の魂だけではないの。
『魔力結晶』というものを、あなたは知っているかしら?」
「ああ、はい。一応僕も、魔法士の端くれですから」
フュフテの知識を試すかのように、問い返してきた。
その単語は、魔法士として未熟である自分でも当然知っているものであったため、迷う事なく頷きで答える。
魔力結晶とは、平たく言えば魔力が込められた石の事だ。
大きさや形、込められた量にはそれぞれ差異あるが、魔法の源の力が宿っているという点ではどれも共通している。
そもそも、なぜそんなものがこの世に存在するのか?
その答えは単純だ。
魔力結晶は、魔臓の成れの果てなのである。
生れながらにして全ての生物は体に魔臓という器官を備えているが、怪我や病気、寿命なんであれ、肉体が死を迎えると同時に、体内の魔臓は物体として結晶化を始める。
これは、各界の学者の間で諸説入り乱れる所ではあるのだが、結晶は生前の持ち主の魔力量に比例して、その大きさや力が決まるとされている。
用途としては、主に魔法士の魔力媒体、魔技師の作製する魔道具の動力源といった、魔法関連に使用される事が多い。
賢い方にはお判りかと思うが、決して量産できるものではないため、その価値は非常に高い。
大抵は、動物などの死体から採取したものが市場に出回る。
が、最も希少度が高いのは、言うまでもなく、魔法士の結晶だ。
「魔都にはね、邪神との闘いで命を落とした者の魔力結晶があると言われているわ。
死んだ英雄たち、聖人アシュレ、そして滅ぼした邪神の、ね。
特に邪神の魔力結晶は余りにも巨大で、見上げるほどの大きさだったと、生き残った英雄たちは語ったそうよ? すごいでしょう?」
「確かに、そんな大きさの結晶は聞いた事がありませんけど......。でも、それがどう関係あるんですか?」
「魔力結晶には、未だに解明されていない部分がたくさんあるわ。
何百年も昔の文献にはね、巨大な結晶を使って死者を蘇生させたり、不老の肉体を手に入れたという伝承があるの。
そんな、まさに神の奇跡というべき現象が引き起こせるのなら、あなたの体くらい簡単に治せると思わない?」
平凡な魔法士ひとりの結晶でも、大きな力を秘めている。
それが、聖人や邪神ともなれば、それこそ人知を超えた力を発揮したとして何の不思議でもない。
伝承とやらが事実であるかどうかは定かでないが、少なくとも挑戦する価値は十分にある。
何も、邪神と戦えと言われている訳ではないのだ。
ただ、なぜ自分が行く必要があるのかが、分からない。
ネメシアが自分で行けば済む話じゃないのか?ーーそう思うのだが、それで済むのであれば、手足を切り落とすなどとフュフテを脅してまで連れて行こうとする筈がない。
きっとなにか、理由があるのだ。
思考に浸り、わずかに俯き加減に目線の照準だけをネメシアに当てて、用心深く目を光らせるフュフテ。
絶え間なく杯を傾けつつ、それを楽しそうに眺めていたネメシアは、底に溜まっていた残りのワインを一息にあおる。
すると、酔いが回って手元が狂ったのだろうか。
酒杯から一雫の液体が溢れ、ネメシアの体に滴り落ちた。
食事中ということもあり、黒のローブを脱いだ彼女は非常に薄手だ。
細めの紐状のもので吊り上げる形の、肩を露出する黒の肌着は透けそうな薄さで、その艶めかしい肌を惜しげも無く披露している。
そのうえ、上部のラインが比較的水平に近いため、ネメシアのボリューム感たっぷりの胸が丸見えだった。
赤い水滴は、その豊かな山の天辺に着地すると、急に足を滑らしたかのように深い谷間に向かって滑り落ちてゆき、てかてかとした足跡を残して姿を消していく。
思わず水滴の安否が気になり、椅子から腰を浮かせて前のめりになるフュフテをよそに、「あら?」と可愛らしくも色香を含んだ独り言を呟き、ネメシアは自分の胸元をさらにはだけさせる。
長く繊細な人差し指で、そっと豊乳に残る足跡を撫でて、それを顔の前に持ってくると、フュフテに見せつけるように優しく口に含み、舐り出した。
出たり入ったり、たまにチロチロと薔薇色の舌で舐めとる姿は、もはや艶めかしさを通り越して、淫乱としか言いようが無かった。
「魔力結晶は、あなたが好きにしていいわ。私に必要なのは、アシュレの魂のほうだもの。
私が欲しいのは、アレよ。分かるでしょ? フュフテ」
あざとくも計算された角度で流し目を送る魔女は、明らかに自分の顔より下に視線を固定しているフュフテを見て、妖艶に笑う。
若い情動に支配されてしまった多感な少年を前に、より一層妖しく。
「一緒に、イってくれる?」
煽情的な魔声に唆され、フュフテは気が付くと、首を縦に振り、魔都に同行する事を承諾してしまっていた。