第5話 『帰路の諍い』
暮れなずむ夕陽が空と雲を茜色に焦がし、緑緑しい森林の木々たちが、燃えるように瑞々しく夕映えに包み込まれる。
急速に暗黒に変わりつつある赤と薄紫の空を行く鳥たちの眺めた先には、とぼとぼと歩く五つの影が拓けた林道を行くのが見えた。
樹々が地に落とす黒い影に重なり合いながら残照を浴びるシルエットが、力無く撤退する敗残兵の如き重苦しさを形作っている。
重苦しさは、今の彼女らの心情を表すに相応しい停滞した空気を漂わせており、それを生み出す者たちはただ真っ黒な歩き姿を晒すばかりで、だれとも見分けが付かなかった。
「フュー兄、大丈夫かなぁ......」
その中でも一際小さな黒い影ーーサシャが俯きながら漏らした呟きに、反応を返すものはひとりもいない。
左隣で並び歩く双子の片割れのミシャは普段の重い口をさらに固く結び、その反対側で悔しげに歯を食いしばる姉のニーナは、無言ながらも手のひらに爪を立てて拳を握っている。
師匠のニュクスは集団を先頭で黙々と率いているため、その表情を窺い知ることはできないが、夕日に照らされる長身の背中には暗い影が映し出されていた。
「尻の坊主なら、大丈夫じゃねぇかい? 小さい嬢ちゃん。
あれでなかなか、やるときゃやる男だ。ちょっとぐれぇの危ねぇことなんざ、サクッと切り抜けちまうと思うぜ?」
唯一呟きを拾い上げたのは、よれよれの弊衣ながらも五体無事な出っ歯の鼠顔ーーアレクサンドロスだ。
本当の所はアレクサンドロスを含めて、攫われた本人以外誰も分からないことなのだが、悲観的なサシャを励ますよう敢えて楽観的に告げる。
「なぁに、心配しなくても自力で逃げ出してくんじゃねぇか? あの太々しい面引っさげてその内帰っ」
「いい加減なこと言わないでよッ!! なんの根拠があるのよ! もしフュフテになんかあったら、あんたが責任とるんでしょうね!?」
わざとおどけた調子でサシャに慰めをかけるアレクサンドロスに、怒り心頭に語尾を遮って食ってかかるニーナは、その瞳を吊り上げて憎々しげに言い放つ。
不意に噛み付かれたことにびっくりして、頬をぴくりと引攣らせる男は、
「いや......すまねぇ。そういう積もりじゃあ、なかったんだが......」
「じゃあどういう積もりよッ! 大体あんたねーー」
焦った表情で弁明に勤しむが、激昂する少女はまともに聞く耳を持たず、更に畳み掛けようとしてーー、
「落ち着け、ニーナ。お前のそれは、八つ当たりだ」
歩みを止めて立ち止まり、背後の諍いに振り向いたニュクスの鋭い言葉に、その動きを制された。
弾かれたように一度肩を震わせたニーナは、ニュクスに図星を言い当てられたせいか、先程までの勢いを急激に霧散させて沈黙。
ふるふると体を小刻みに振動させ、俯き地面を睨みつけて、抑えきれない感情に耐えていた。
なぜならばーー、
(わかってるわよっ!......でも、許せない! 私は、私が許せないっ!!)
言われなくても、そんなことは自分が一番良く知っていたからだ。
ニーナが本当に怒りをぶつけたい相手は、ドロスなんかではない。
ニーナ自身、だった。
あの時、フュフテが連れ去られた、あの瞬間。
最も近くにいたのは、他でもない。ニーナだった。
手を伸ばせば優に届くほど近く、ほんの目と鼻の先に隣り合っていたのだ。
にも関わらず、ニーナは動けなかった。
(なんの言い訳にもならないっ! 私は、フュフテを助けられなかった。あの子は、私を助けてくれたのにっ......!)
経験不足による判断の遅さ。疲労による万全ではなかった体調。未知に対する無意識の恐れ。
それらを加味しても、せめてなりふり構わず摑みかかるくらいはできたはずなのだ。
しかし、結果は言うまでもない。
ただ案山子のように棒立ちに、黒の女を見送ることしか出来なかった。
(何回情け無い姿を晒したら気がすむのよっ! 弱い......自分が、こんなに弱かったなんて......)
狂気の襲撃者ーーアダムトとの戦いの時もそうであった。
巨大な大剣を初めて目にした瞬間、恐怖で心が折れた。
フュフテに助けられて、なんとか気持ちを奮い立たせたものの、あっさりと屈してしまった事実は変えられない。
勇ましい気性と強気な態度の裏には、脆弱な心が隠されていたことに、ニーナは気付いてしまった。
後悔に苛まれつつも、起こってしまった事実は最早どうすることもできない。
か弱いお姫様よろしく攫われたフュフテの無事を祈るしか、方法がない。
それこそドロスが言ったように、フュフテ自身がなんとかして状況を打開することを信じるしかないのだ。
(どうか、無事に帰ってきなさいよ、フュフテ......)
あの気弱な少年は、今一体どんな目に合っているのだろうか。
最悪な想像を頭から振り払い、せめて信じる気持ちだけは強く保とうと考え、ニーナは顔を上げて周囲を見渡す。
オロオロと視線を彷徨わせるサシャと、困り顔で眉を下げるミシャ。
手のかかる弟子に苦笑するニュクスと、バツの悪そうなドロス。
皆が、自分を見つめていた。
そのことに申し訳なく思いつつ、まず最初にしなくてはいけない事を行動に移すため、ニーナはドロスの名を呼ぶ。
意気消沈して一度気持ちが落ち込んだことにより、皮肉にも取り戻した冷静な思考を持ってして、
「......悪かったわ。ニュクス師匠の言う通り、ただの八つ当たりだったわね。......ごめんなさい、ドロス」
珍しくしおらしい姿で眦を下げ、弱々しくドロスに非礼を詫びる。
そんな少女を見て居心地が悪いのか、右の手を後頭部に持っていき、ぽりぽりと頭をかきながら、
「あー、気にすんな、嬢ちゃん。そういうのは、誰にでもあるってもんだ。
ま、本当に悪りぃと思ってんなら、今度飯でも奢ってくれてもいいぜ?」
「......なにあんた。こんな年下の女の子にたかるつもり? 折半に決まってるでしょ?
......しょうがないから、食事くらいは付き合ってあげるわ。感謝しなさい」
それすらも軽い感じで流そうとするドロスの隠された優しさに気付き、申し訳なさと気恥ずかしさも相まって、ついつい軽口でニーナは応じてしまう。
謝罪を受け入れる代わりに出した条件を一蹴された挙句、なぜかそれを別の条件に変えられた上、有り難く思えと言われる不可解な状況に陥り、
「なんか、納得がいかねぇんだが.....」
ボヤく男の姿に可笑しさが込み上げ、クスクスと温かい笑い声が周囲に響いていった。
※ ※ ※ ※
「そう言えばあんた、体大丈夫なの? 飲んだら死ぬとかいう薬、飲んだんじゃないの?」
里へと続く帰路を皆で進みながら、ニーナはふとドロスが戦闘の最中に口にした薬の事を思い出し、浮かび上がってきた疑問を問いかける。
「ああ、ありゃあ本物じゃねぇからな。本物だったら、間違いなくおっ死んじまわぁ。
あっしが飲んだのは、副作用を抑えた改造品ってやつでさぁ。
まぁその分効果は大分落ちるし、死なねぇけどかなりの副作用もあるし。
とんでもなく値が張るからあんま使いたくなかったんだが、仕方ねぇわなぁ......」
「ふーん、まあ、大丈夫ならそれでいいけど」
「おいおい、もうちょっと興味持ってくれてもいいんじゃねぇかぃ!?」
ちょっと気になった程度で掘り下げる積もりは特になしーーというあっさりとしたニーナの態度に、唾を飛ばしてドロスは異議を申し立てたが見事に放置される。が、
「おい、アレクサンドロス。お前、あれをどのくらい飲んだ?」
「え、いや、その......全部、飲んじまいやした......」
「バカが。......参ったな、しばらくは使いものにならんか。仕方ない」
眼前を真っ直ぐ歩いていたニュクスが唐突に顔だけを振り向かせ、二人の会話に割って入ってくる。
「ニュクス師匠、ドロスと知り合いなんですか?」
「? 当然だろう。言ってなかったか?」
「姐さん姐さん。残念ながら、一度も言ってませんぜ。
嬢ちゃん、確か前に依頼人の話をしたと思うんだが。あっしのもう一人の依頼人ってのが、何を隠そうこちらの姐さんってわけだ。
驚いたかぃ?」
不思議そうにパチリと瞬きをするニーナに、さも当然といった顔で頷くニュクス。
驚きに瞬きを停止して二人を交互に見やる少女に、言葉足らずの依頼人をフォローする形でドロスが説明を引き継いだ。
「なんつーか、姐さんには昔世話になった恩があるんで、逆らえねぇんでさぁ。
まぁ、姐さんの大事なお弟子さんの護衛って話なら、断る理由はさらさらなかったんですが、あんなやべぇのが相手たぁ聞いてませんでしたぜ?」
「それはすまなかったな。私もあのレベルの奴が来るとは、少々想定外だった。報酬は弾もう」
「そうしてくれると助かりやす。なんせ、今回は結構色々使っちまったもんで、ちょいと懐が厳しいんでさぁ......」
危うく死にかけたと、アダムトとの死闘を思い返してげっそりと憔悴するドロスに、苦笑いで謝罪したニュクスは、
「ついでと言ってはなんだが、もう少し私に付き合ってくれるか? もちろん報酬は別で出す」
「それは構いやせんが、戦闘関連は今はちょいと無理ですぜ?」
「分かっている。頼みたいのは、主に情報収集だ」
簡潔に次の依頼がある事を示した。
ニュクス一人で全てを行うことはもちろん不可能ではないのだが、荒事を得意とする彼女にとって、ちまちまと情報を集めるのはとてもストレスが溜まる。
その点、この男はちょこちょこと動き回るのを得意としており、容姿にぴったりのまさに鼠といった活躍が期待出来る人材なのだ。
適材適所、というやつだ。
目的は当然、息子フュフテの行方に関してである。
あの女の狙いは確定的に明らかだが、それでも想定外というものは起こりうる。
息子が連れ去られた事に動揺した一瞬の隙をついて、行先を知るであろうアダムトに、転移で逃げられてしまった事実も、かなりの痛手だ。
今回の失態と同じ轍を踏まぬよう、万全を期すべきだ。
また、息子の無事も心配といえば心配だが、ニュクスはある程度の信頼をフュフテに置いている。
アレはまだまだ未熟な子供だが、意外と肝が座っている上、一歩引いて客観的に冷静な判断を下せる才を持っている。
そうそうの事では、心を乱されて判断を誤ることは無いだろうーーそう、ニュクスは思っていた。
余談ではあるが、丁度同時刻、その息子は暴れ回る王様によって心を乱されまくっていたのだが、それをニュクスが予想する事は出来なかったと言っておこう。
何事にも想定外というのはあるものなのだ。
「里に着き次第、私とお前で、魔都へ向かう。頼むぞ」
夜の帳が下りようとする中、一行は足早に目的地へと突き進んでいった。