第2話 『美しすぎる原始人』
「んっ......ここは......」
ぼんやりと思考に靄がかかったまま、フュフテは小さな呟きと共に瞼を開く。
寝起き特有のショボショボする目の感覚に不快を感じ、幾度か瞬きを繰り返すと、眦から一筋の涙が目元から左耳へと伝っていった。
懐かしい夢を見た。
夢の中の、今よりもずっと幼い頃の自分に同調していたのか。どうやら寝てる間に泣いていたらしい。
そのことに若干の気恥ずかしさを感じながら、頭を起こそうとして身体の自由がきかず勢いよく地面に頬を打ち付けた。
「いった!......ごほっ、なんか、埃っぽいな......」
じんじんと主張する頬の痛みを堪えて舞い上がる灰色の微粒子の煙と木目調の床板を視認しつつ、周囲を確認する。
そろりと頭を上げて視線を巡らすと、薄暗く狭い空間にある様々なものが目に入ってきた。
真四角の間取りの部屋は、年季を感じさせる木造りの壁に囲まれており、日当たりが悪いのか一つだけある小さな窓からやや暗めの光が差し込んでいる。
部屋の隅には小振りな円卓と椅子が一つずつ備え付けてあり、薄く積もる埃が長年使われた形跡がない事を示しているようで。
中でも一際目を引くのは、一面の壁を占領する巨大な本棚だ。
隙間なくびしりと詰められ整頓された本の群からは、所有者の知識欲と几帳面な性格を伺い知ることができる。
埃臭い床から顔を上げたことで微かな古い紙の匂いが鼻をくすぐり、それが不思議と気持ちを落ち着かせるようだ。
視線の低さと少ない光量のため表紙をはっきりと見ることは叶わないが、全て製本された書物はそれだけで貴重品であるため、これだけの量を売り払えば相当な金額になるだろうなーーと、俗物的な考えがふと頭に浮かんだ。
寝具などは特になく、書斎というにはややみすぼらしい部屋の中央に寝転がる自分の身体は、何かで四肢を拘束されている。
横向きに寝そべったまま両足を延ばすと、足首には荒縄が巻きついているのが見えた。
後ろ手に縛られているため手元を確認できないが、こちらも似たようなものだろう。
そこまで確認してふと、「自分はなぜこんな所にいるのか?」と疑問を抱く。
徐々にはっきりと覚醒してきた頭で状況を思い起こすと、必死の形相で自分に駆け寄ろうとする母親の顔が目に浮かんだ。
「ーー!!」
思い出した。
自分は攫われたのだ。
しかも、今度は一人で。
母親のニュクスと狂信者(変態)のアダムト。
二人の決着を見届けようと息巻いていた所に、降って湧いたように現れた黒衣の女。
後ろから密着されたので顔は見えなかったのだが、艶っぽい声と女性特有の甘い香り、押し付けられた柔らかさが、漆黒の乱入者の性別を雄弁に物語っていた。
うん、とても柔らかかった。
大事なことなので、二度確認する。
母親も立派なものだが、彼女の方がさらに一回り上手であろう。
ニーナなんかとは比べものにならない。あれは胸じゃない、板だ。
(あれ? おかしいな。なんかニーナに優しくなれない、なんでだろう?)
鼻に皺をよせて悩んで、「ああそうか」とその理由に思い当たる。
ケツを、噛まれたからだ。
それも、完全に歯が穴に突き刺さった。
歯というのは人体で最も硬いといわれる場所だ。爪よりも丈夫。
そんなもんで思いっきり噛み付かれる痛みを、想像してみて欲しい。
人生で最大の拷問だった。
正直、取れたと思った。
いや、取れるもんではないのだが、感覚的にそう感じるのも無理はないと思う程の激痛だった。
あの時は緊急だったためそれどころではなかったが、実は割と根に持っていたらしい。
しょうがない、今の失言とおあいこにしてもらおう。
話を戻すが、とにかく自分は再び拉致されてしまったようだ。
一日に二度も攫われるとは、物語のお姫様も真っ青である。
かなり情けない。
そうして微妙にフュフテが落ち込んでいると、ふいに遠くから硬い靴音が近づいてくるのが耳に届いた。
フュフテの身体が緊張で強張り、心臓が鼓動となって存在を主張し始める。
足音はこの部屋に一つしかない扉の前で立ち止まり、油の足りない軋みを上げてドアノブが回った。
立て付けが悪いせいか耳触りな音を立ててゆっくりと扉が開き、それに合わせて心音が大きくなる。
ついには扉が完全に開ききり、その人物の全貌が明らかとなった。
現れたのは、長身な男だ。
扉の入り口に頭が付きそうなほどの背丈に、伸び切った長い手足と引き締まった体躯。
筋骨隆々とまではいかないが、歴戦の勇士を感じさせる見事に鍛えられた肉体だ。
その上に乗っている頭部は、一面の美しい白銀に彩られている。
白刃のような雪峰を思わせる研ぎ澄まされた純銀の髪は、肩にかかるほどの長さで色白の面立ちを隠しながら荘厳に煌めく。
瞼の上に降り積もる雪を受け止めるに相応しい長睫毛は、透き通る程に繊細で華麗。その下からは、この世のどこにもないほどの深い青が覗いている。
青空よりもはるかに深く、紺青の硝子を透かして差し込む光に等しい青さ。
聳える鼻梁は真っ直ぐな線を描き、完成された道筋を締めくくるに値する口許は、非現実的なまでに精密な美で結ばれている。
フュフテは入り口を塞ぎ直立不動の男を目にして、あんぐりと大口を開けて放心していた。
しかしその理由は、男の容姿に驚いたからではなかった。
なぜなら、世界中探しても比肩するものはないであろう男の美貌を目にする前に、否が応でも視界に入るものがあったからだ。
ーー男はなぜか、全裸であった。
とはいえ、決して何も身につけていないという訳ではない。
足元には脛まで覆う鋼鉄のグリーブを着用しており、その防御力は正に鉄壁といって差し支えない。
そこ以外の防御力が、限りなくゼロなだけである。
「なんだ、貴様は」
重厚で深く響く低音域の声は平時であれば耳に心地よいのであろうが、男の鋭利な青の眼光と危険過ぎる格好の前には恐怖でしかない。
可哀想なほどに怯える少年に大股で詰め寄り、その辺の捨て猫にするように左手で摘まみ上げた男は、己の顔の高さまでフュフテを持ち上げ、
「どこから入った。答えろ」
一切の表情を変えずに、殺気を込めて睨め付ける。
完全に気圧されてしまい、「あ」と「う」しか発音出来なくなっている仔猫をしばらく眺めた後、男は詰まらなそうに一度鼻を鳴らし、
「死ね」
空いていた右手で、フュフテの首を絞め宙釣りにした。
男の長く広大な手の指がフュフテの細首を易々と捉え、尋常ではない握力でギリギリと呼吸器官を圧迫する。
逃れようにも四肢は拘束され、暴れれば暴れるほど深く食い込む指に抵抗が無意味であることを悟り、フュフテは死を覚悟した。
(こんな、訳も分からない所で、訳のわからない奴に、殺されるなんて......冗談じゃないっ!!)
薄れゆく意識の中、「どうせ死ぬなら自爆覚悟でぶっ放してやるッ!」と、ありったけの魔力を尻に集めた矢先、
「やめなさい! イアン、その子を放すのよ」
男の凶行を静止する気迫ある呼声が、小部屋に高々と響いた。
意外にもあっさりと男の指が首から放され、どしゃり、と少年が床に投げ出される。
酸欠状態の頭に急激に空気が送り込まれ、頭痛と吐き気を催しながら激しくむせるフュフテをよそに、声の主がイアンにつかつかと歩み寄る。
「なにをしてるのイアン。その子をここに運んだのはあなたでしょ? 相変わらず興味のない事は覚えないわね」
「そうだったか。すまぬ」
フュフテの耳をなぶる鈴を転がす響きに似た美声は、呆れの色を含んで裸の麗人に差し向けられる。
それを受ける男は、簡潔に謝罪の言葉を落としつつも悪びれる様子もなく堂々としている。
「大丈夫? ごめんなさいね。イアンは物覚えが、少し悪いの」
呼吸が整い始め、意識の混濁からようやく復帰したフュフテが顔を見上げて目に留めた女は、見覚えのある漆黒のローブを身に纏っていた。