第20話 『お尻のお医者さま』
--ふと気が付くと、意識は深い深い、闇の中をさまよっていた。
(あれ......? 私、死んだんじゃないの?)
暗闇の狭間を漂う意識は、切っ掛けを探してふらふらと泳ぎ揺蕩う。
不意に、彼方から音が差し込んだ。
最初は聞き取れないほど小さく、徐々に徐々にそれは大きさを増してゆき、光となって少女を照らす。
ああ、目覚めるのか--と、夢の終わりを迎えたように。
感覚が体に帰ってくる。
背中には固い土の感触、腕に触れる小さな指の温かさ、鼻先に感じる汗の匂い。それらを頼りに、ニーナの意識はゆるやかに浮かび上がり、重たい瞼が開くと、
--視界一面が、肌色の世界で覆われていた。
「う、うえぇぇ?」
未だかつて見たことのない光景に、戸惑いが喉の奥から生まれる。
何事かと、反射的に体を動かそうとして、ずきりと胸から激痛が走り、息が詰まる。
「ニーナ姉! 動いちゃだめ!」
「あ、気が付いた? すぐ良くなるから、安心して」
右から妹のサシャの声が、なぜか真上のとても近い位置からフュフテの声が聞こえたが、徐々にはっきりしてきた視界の大半を埋め尽くす肌色の物体が邪魔で、顔を見ることができない。
そもそも、これはなんなのだろう?
ほんの鼻先に浮いているそれは、接していないにも関わらず熱を感じさせ、動物的な脂っぽく野性味ある香りが嗅覚を刺激し、詰まる所、若干臭い。
なぜか湧き上がる生理的な嫌悪感に、本能が拒絶の意思を表明し、口を開こうとした瞬間ーー、
「んむぐぅぅぅっ!!」
肌色が少女の顔面に押し付けられ、鼻と口を盛大に塞ぐ。
密着した物体の、ちょうど溝にあたる部分に嵌った鼻腔が空気を遮断され、息苦しさが急速に加速する。
中途半端に開いてしまった口には、熱いものが押し当てられ、声を出そうと突き出していた舌先がコリコリとした何かに触れてしまい、苦味が口先にじわりと広がる。
(っ! ......く、くるしいっ! 息がっ!)
何がなんだか分からないながらも、命の危機を感じたニーナは、呼吸を阻害する褐色を引き剥がすため両手で掴み、その弾力を指で感じつつ押し上げようとするが、女の細腕では持ち上がらないほどに重くのしかかってくる。
それならばと、ただならぬ事態に錯乱する少女は、
「ぎゃあああぁぁっ!!」
ーー全力で歯を剥き出しにして、肌色に噛み付いた。
瞬く間に圧迫感は遠ざかり、代わりに新鮮な空気と森の匂いが肺を満たす。
「ぷはぁっ! なにこれ.......なんなのよ......!」
「動かないでって言ったでしょニーナ姉! 我慢して!」
「刺さった! 切れたよコレ! 絶対っ!! うっ......痛すぎる......泣きそうなんだけど。ちょっとミシャ、切れてないか、見てくれない?」
「絶対、いや。......それを、こっちに向けないで欲しい。変態」
荒い呼吸で恐慌状態に陥り動けないニーナは、聞き分けのない子供にするようにサシャに叱りつけられている。
その足元では、手足を地面につけてズボンを尻だけ露出しているフュフテが、尻先を向けられ嫌悪感をあらわにするミシャによって、変態呼ばわりされていた。
ーーそう、お尻だ。
あの肌色は、お尻であるとしか考えられない。
となると、自分はあれに噛み付いてしまった訳だ。
あれ? じゃあ先程、舌先に触れた苦味はーーとそこまで考えて、ニーナは思考を放棄した。
これ以上は、いけない。
自分は、何も舐めてなどいない。
もしはっきりと意識してしまったら、ニーナは乙女として、フュフテを殺さなくてはならなくなる。
落ち着いてきたニーナは少し頭を起こし、足先を見やる。
お尻の状態を確認するためか、フュフテが恐る恐る自分の股の間に手を入れてごそごそしている。
取り出した指を拡げ、そこに血が付着しているのを発見して泣きそうになっていた。
泣きたいのは私のほうよ!ーーと、ニーナは心中でご立腹だ。
なにせ、乙女の唇をとんでもないものに奪われたのだ。
少々気の強い言動が目立つが、彼女とて一人の女の子だ。
それなりに夢見る部分も、当然持っている。
将来的に、初めての口付けは、きっと素敵な相手と交わしたいと願っていた。
が、現実は非情だ。
ニーナの初めての相手は、明言したくもないが、フュフテのお尻の『蕾』であった。
それを怒るなとは、きっと誰にも言えないに違いない。
「ニーナ。一刻を争うんだ! 早く魔法で治療しないと魔臓に後遺症が残る。お願いだから大人しくして。あと、もう二度と噛まないで、死んじゃう」
「だったら、胸に治癒魔法かけなさいよ! なんで顔で、尻なのよ!」
「母さんが傷口塞いじゃったから、体の外からだと内臓まで届きにくいんだ。口から流し込んで魔臓に送るのが一番なんだよ。
あと......僕は、尻からしか魔法が使えない。言ってなかったけどね」
叫ぶ内に胸の痛みがぶり返してきたのか、小さく呻きを上げて起こした頭部を地に着けるニーナ。
フュフテは治療の緊急性を挙げ連ねたのち、申し訳なさそうに眉を下げて、普通ではない方法を取る理由を告げる。
「フュー兄......」
サシャの、フュフテを慮る眼差しに、「大丈夫」と頷きかけて、フュフテは揺るぎない足取りでニーナの元へ。
仰向けになったニーナの左右の脇の下に両足を滑り込ませ、彼女に背を向けて直立したまま、顔だけで振り返り、視線を合わせてーー。
「僕は、一度ニーナを見殺しにしようとした。......ごめん。僕は弱いから、ずっと逃げてたんだ。
魔法で誰かを救うのなんて、無理だって決めつけてた。みっともない魔法も、人に見せたくなかったんだと思う」
伝えたかったのは、誰にだろうか。
横たわる少女か。見上げる姉妹か。それともーー。
「強くなんてないし、まだ自分を信じることは難しいけど......。それでも、苦しむ誰かを、何もしないでただ眺めてるのは、もう嫌なんだ。
だから、僕は。僕が! ニーナを、救う! 救ってみせる! 必ず!」
決意に満ちた眼差しは熱く、煌煌と眩い輝きを放つ。
語調は激しく、想いがフュフテを一回り大きく見せ、闘志をみなぎらせた顔つきは男らしさ満載だ。
双方の尻たぶが、ぶるりと揺れた。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ! そんなの知らないわよ! なに頼もしい顔してんの!? 覚醒してんじゃないわよ!
だ、だから、近づけないでって............いっ、いやああぁぁ、助けてーー!!」
「暴れないでって! 二人とも、ニーナを抑えて!」
徐々に高度を下げて、顔面にお尻が迫ってくる。
このままでは、二度目の口付けが再開されてしまうと、いやいやと首を振り四肢をバタつかせて抵抗するニーナ。
まるで用を足すかのような体制で静止したフュフテは、双子の姉妹に指示を飛ばし、
「はい! これでもう動けないよね、観念して!」
「......気持ちは分かる。けど......諦めて」
「あ、あんたたち......お姉ちゃんの、味方じゃないの......?」
ニーナの両腕に体ごと組み付いて拘束させて、彼女の動きを封じる。
妹達の発言と行動に、わなわなと唇を慄かせ双眸を目一杯に見開くニーナは、まるでこの世の終わりを見たかのように。
そうこうする内に、お尻は容赦なく距離を縮め、追い詰められたニーナの目尻がじわりと濡れた。
吐息が触れそうなほどに接近した淡い薄桃色の『蕾』が、ヒクヒクと脈打っている。
ようやっと体制が整ったことに満足して、「......んっ!」と下半身に力を込めてイキむフュフテの下で、
「う、裏切りものーーーー!!」
ニーナの雄叫びが、虚しく辺りにこだました。
それを離れた所で眺めていた鼠顔の男は、
「あっしは、何を見せられてるんでぇ......。尻の坊主に、治療なんか頼むんじゃなかったぜ......」
次は自分の番であることに恐怖し、激しく後悔していた。