第19話 『示された決意』
「その前にだ、フュフテ。お前はニーナを治療しろ」
真打登場、いざ--という段になって、こちらに視線をよこさず、敵と相対しながら命令するニュクスの背中を見て、フュフテは首を傾げる。
「え? 治したんじゃないの?」
「いや、傷口を塞いだだけで魔臓は傷ついたままだ。死にはしないが、放置はできない。
私はあまり治癒が得意ではないからな。お前がやれ、できるな?」
有無を言わさぬ強めの口調は、師からの絶対命令だ。
そのことをよく理解している弟子のフュフテは、結界内で姉妹に心配そうに寄り添われて横たわるニーナを振り返り、視線を戻して、
「......ニーナにやるの? 知ってると思うけど、僕の治癒魔法ってかなりアレなんだけど」
「仕方なかろう。貫かれた傷は深刻だ。このままだと後遺症が残る。お前の考えていることなど、些末なことだ」
顔をひきつらせてやんわりと抗弁するが、ニュクスに淡々と切って捨てられる。
実利を優先する師に、全然些細なことじゃないんだけどーー、と思いながらも、緊急時だから仕方がないことだと自分に言い聞かせ、フュフテは怪我人の元へと向かった。
無色ではあるが、分厚い硝子にも似た壁で空間を隔てる結界をすんなり通ると、姉の両隣にしゃがみ込んで手を握っているサシャとミシャが顔を上げる。
「あ、フュー兄......ニーナ姉が......」
「うん、分かってる。大丈夫だ、僕がやるよ。ニーナを治療する」
よほど辛いのだろう。
意識がないとはいえ、体内から響く痛みに顔を歪めて横たわるニーナの額には、大粒の汗が浮かんでいた。
それを僅かでも和らげるためか、左右の姉妹は握った手から拙い治癒魔法を流し込んでいる。
「助けて、くれるの?」
「フュー......姉を、助けて......」
不安そうに、姉の痛みがそのまま自分の苦しみだと、雄弁に語る二人の面持ちはあまりにも悲痛で。
泣きすぎて赤く充血した目をしばたかせて、涙を零して助けを求めている。
「......っ!!」
強く噛み締めすぎて、奥歯からギリギリと音が漏れる。
ーーさっきと同じだ。
自分は、こんなにも必死に助けを求める少女の言葉を、一度は拒絶したのだ。
自分への怒りで拳が震え、食い込んだ爪が手のひらに血を滲ませる。
落ち着いた今だからこそ 、どれだけ自分のことしか考えていなかったかがよく分かる。
あの時の自分を、殴り飛ばしてやりたい。
彼女たちの信頼を裏切ってしまった。
得ることは難しく、失うことは容易い。
言葉では変えられない。取り戻すには、行動で示していくしかないのだ。
この光景を、目に刻み込んでおく。
忘れないように。
二度と、繰り返さないように。
何が変わったわけでもない、未だ欠陥だらけの自分だけれど。
ただ悔やみ、嘆いて、憐れみ、恨みながら下を向いて生きるのを止めよう。そう決めてーー、
「任せて。絶対に、ニーナを助けるから」
強く言い切った少年は、幼いながらもまるで物語の英雄のように頼もしく、二人の少女の目にはそう映った--。
仰向けに寝かされたニーナの側に寄り、宣言通りに癒しを行使しようとしたフュフテだが、どうしても気にかかる事が一つだけあった。
何度か意識から排除しようと試みるが、そう簡単にはいかない。
このままでは集中できず、治療に支障をきたすと判断したフュフテは、一つ咳払いをすると、
「ごめん、さっきからずっと気になってたんだけど、あれは大丈夫なの?」
結界の隅に置かれたボロ屑を指差して、二人に確認する。
そこには、果敢にもアダムトに挑むが惜しくも敗れ去り、ニーナの魔法でどこかに飛ばされたはずの鼠が一匹、無残にも転がっていた。
実は、ニュクスと話している最中からチラチラ視界には入ってきていた。
ただ、誰もがその存在に触れようとせず、当たり前のように放置されているのを見て、なんとなく言い出せなかったのだ。
たまに軽く痙攣して体を跳ねさせる姿は、長時間陸にあがった魚が今にも死に絶える様子を連想させて、なんとも言えない気分にさせられる。
「あー、あれはちょっと前にミシャが拾ってきたやつだよ。ね?」
「そう......。近くにいたから......一応、中に入れた」
そんな、捨てられた動物を拾ってきたぐらいの感覚で扱われている鼠男ーーアレクサンドロスに悲しげな視線を向けて、フュフテは憐憫の情を抱く。
確かに扱いに困る男ではあるが、一応は姉ニーナの命の恩人でもあるし、ひとまずは味方として見ても良いと考えてミシャは行動したのだろう。
先ほど危険臭漂う薬瓶らしきものを摂取しており、それを知るアダムトが命に関わる的な事を零していたようにも思えたが、見る限りでは直ぐにどうこうという訳ではなさそうだ。
「初級だけど何回か治癒魔法かけといたから、たぶん大丈夫だと思うよ?」
「本当に? なんか白眼剥いて泡吹いてて、今にも死にそうなんだけど......」
例え敵か味方か分からない、ほぼ赤の他人だったとしても、勝手に死なれてはあまり気分が良いものではない。
一度様子を見ておいたほうがいいかもしれないと、男に近づいた途端、あらぬ方向を向いていた眼球がぐるりと回転し、虚ろな瞳孔が焦点を探して運動を始めた。
横向きに背を丸めて気を失っていた男は、起き上がろうと四肢に力を入れるが叶わず、再びぐったりとして、
「いててっ! はぁ......まだ生きてんのか......。尻の坊主が、あっしを助けてくれたんで?」
「僕じゃなくて、あっちの女の子がね。......大丈夫なの? 死なない?」
「いま生きてんなら、一先ずは大丈夫でさぁ......。できれば、動けるようにしてくれると、ありがてぇんだが」
「ちょっと急ぎで治さないといけない子がいるから、その後になっちゃうけど。ちゃんと治すから、待ってて。ごめんね?」
自分がまだこの世に別れを告げていなかったことに安堵し、正面に立つ見覚えのある少年に助けを願い出る。
鼠っぽい印象によく似合うやや灰色に近い黒髪は泥でパサつき、アダムトとの戦いで切り裂かれ、あちらこちらに破れが目立つ黒い装束は血と汗で萎びてはいるが、本人はいたって元気そうだ。
その様子に、急を要する状態では無いと判断したフュフテは、軽く謝罪してから、苦しむニーナの元にとって返す。
己のなすべきことに、全力を注ぐために。