第17話 『知らぬが仏、見ぬが秘事』
轟音とともに唐突にこの場に現れたその女は、まさに燃えさかる炎を体現していた。
機能性を重視したのか、最小限を覆う形の装いは露出過多で、その少ない生地は血が染み込んだと見紛うほど赤い。
真紅に染まった髪は長く、動くのに邪魔なのか、左からゆるい曲線を描いて右後頭部に纏めて留められている。
怒りをたたえた紅唇はへの字に曲げられ、灼熱を連想させる真っ赤な瞳は爛々と輝き、瞳孔が完全に開いていた。
全身から発せられる怒気が、オーラとなって揺蕩う様に幻視できてしまうほど、彼女が怒り狂っているのが分かる。
美人が怒ると怖い、とは一般的によく言われるが、憤怒する美女は、一目散に逃げ出したくなるほど恐ろしいものなのかーーと、フュフテは身震いをした。
できれば、あんな怖いのとは関わり合いたくない。
他人の振りをしたいが、残念ながら彼女は知り合いどころか身内である。
我が母親、兼師匠、ニュクス=ベフライエンだ。
「おい、そこのバカ息子。何をしてる。さっさとこっちに来い」
急所を射抜かれ倒れ伏した幼馴染の少女ーーニーナを抱き上げて、ニュクスが乱暴に少年を呼ぶ。
その台詞を聞くやいなや、弾かれたようにフュフテは結界を飛び出し、全力で母親の元へと走った。
まずい。
彼女が自分をバカ息子呼ばわりするのは、相当に怒っている時だ。
対応を間違えれば半殺しにされる......いや、九割殺しだ。ほぼ死んでしまう。
変な汗を滲ませてニュクス目掛けて疾走しながら、「こんな時でも派手な格好なんだな」と何気なく思う。
袖の部分を首から脇の下まで排除した赤の生地はピタリと肌に張り付き、豊満な双丘が見事に強調されている。
腰骨に引っかけて着用された同色のスカートは、最小限を隠すのみで腰回りを露出させており、動きやすさを優先する彼女の性格をよく反映しているのだろう。
その下に伸びる二本の美脚は膝上までの長い靴下で黒く覆われているが、全体的に真っ赤だ。
魔法で本来の色と変えている髪や目に合わせているとはいえ、なぜそんなに赤色が好きなのか。
「この人、病気じゃないのか?」と、口にすれば地獄を味わうこと間違いなしなので決して言わないが、フュフテは常々そう思っている。
そんなどうでもいい事をふと頭によぎらせた後、母親の前に辿り着くと、彼女が両の手で抱く傷付いたニーナの容態が気にかかり、そちらを見てしまう。
ニュクスが処置を施したのか、無残に突き刺さった矢は取り去られており、血みどろだが傷口も塞がっている。
多くの血液を流したせいか、元々の白い肌はより一層血の気を失い青くなっているものの、一定のリズムで上下する胸元は、ニーナが死んでいないことを明確に伝えている。
幼馴染の生存に胸を撫で下ろして、母親の顔を見上げようとした矢先、
「ぐぇっ!」
目にも留まらぬ速さで鳩尾を蹴りつけられ、結界近くまで大きく吹き飛ばされた。
急展開に体が反応できず、あえなく結界に激突。べしゃり、と地面と強制的に口付けをさせられる。
結界を素通りしなかったということは、中の少女二人に被害がでるぐらいの勢いがあったということだ。
もちろんそんな蹴撃を受けてフュフテが無事であるはずもなく、みっともなく這い蹲り、死人同然の顔で胃の内容物を吐き出している。
自分の息子に容赦ない蹴りをくれたニュクスは、ニーナを抱えたまま無言で結界に近づき、四つん這いでえずくフュフテを見下ろす。
「ゔぇっ......なに、するん、だよ......母さ......ん......ひど、いよ」
「ひどいのはお前だ、フュフテ」
言われた意味がよく分からず、口から涎を垂らし、目尻に涙を浮かべ、フュフテは母親を見上げる。
彼女の赤い瞳はその色とは対称的に冷たく細められ、
「お前は、一体何をしていた?」
罪人に罪を問う冷酷な審判者のごとき詰問が、フュフテを襲う。
問われた内容を、何に対して母が怒りを覚えているかを朧げに理解したフュフテは、瞬時に体の奥底から込み上げた反抗心に体の痛みを忘れて、がばと起き上がる。
--自分にだって言い分はある。
何もしていなかった訳ではない。
やれるだけやった、努力した。
なのに、なにかを聞く前に蹴り飛ばすとはどういうことだ!
理不尽な暴力と暴言に腹立たしさと怒りを覚え、眦を裂き、ニュクスに言い返そうと大きく口を開いて--、
その胸に抱かれたニーナの顔を見た途端、急激に心がしぼんでいった。
過程の話ではない。
フュフテが何をしようとしたとかは、関係ないのだ。
『結果』、ニーナが死にかけた。
ニュクスがここにいなければ、彼女は確実に死んでいた。
そして、自分はそれを防ぐことができなかった。
それを、母は責めているのだ。
何をしていたのだ、と。
お前が救うべきではなかったのか、と。
(でも、仕方ないじゃないか.....)
自分は英雄でもなんでもない。
それどころか、魔法使いとして欠陥品だ。
こんな自分に、何もすることができない無様な自分に、誰かを救える力なんてあるはずもなくて--。
サシャとミシャに当たり散らした時と同様に、自己嫌悪と無力感に苛まれるフュフテは、何も言えずに首を垂れて。
それだけで察せられたのだろうか。
空気をそっと押し出す音が吐息となって聞こえ、フュフテは身体を震わせ身じろぎする。
続けて訪れるであろう罵声を覚悟しながら、ぎゅっと目を瞑っていると、
「......私がなぜ、お前に魔法を教えるのをやめなかったのか。わかるか?」
少しばかりの沈黙の後、先ほどとは違う熱の籠った、諭すようにかけられた声に、そっと面を上げる。
ニュクスの深紅の目はすでに怒りをたたえておらず、力強くも穏やかな光がフュフテに注がれていた。
二度首を左右に振って、否定の意を示すと、
「フュフテ。お前が自分の魔法に悩んでるのは知っている。これでも師匠だ。
正直、私も最初はお前が魔法士に向かないと思った。だから、私流にお前を試すことにした」
「......?」
--なんの話だろうか。
試すってなんだ? 特別な試験的なものか?
しばし、これまでの訓練をざっと思い返してみたが、特にそれらしいものがあった記憶はない。
怪訝気に眉をひそめる弟子に向かって、
「五歳から七年間、私がお前に教えてきた魔法に関する訓練は、通常のものとは大きく異なる。
だから、ニーナ達と一緒に訓練させた事はないはずだ。おかしいとは思わなかったか?」
違和感を抱かなかったのかと、不思議そうに師は問いかける。
--言われてみれば、確かに、そうだ。
あまり深くは考えてなかったが、なんとは無しにニーナ達から遠ざけられている感じはあった。
でも、それはきっと自分の魔法に欠陥があるから、人に見せるわけにはいかない訳で--、
「お前にやらせた訓練量は、通常の十倍だ」
「............はい?」
全くの想定外の答えに、フュフテの思考は完全に停止する。
片側の耳から入ってきた情報が、何の処理もされずに、反対側へ素通りしてゆく。
人は、今まで当たり前に享受していたものが、実は当たり前ではなかったと知った時、咄嗟に物事を正常に把握できない。端的に言えば、パニックだ。
例えるなら、「今まで母親だと思っていたのは、実は父親だった」とか。
あるいは、「清楚な淑女だと思っていた隣人が、実は淫乱な痴女だった」とか。
前者に関しては、容姿以外ほぼ女らしさのカケラもないことを良く知っているので、仮にニュクスがそう言ったとしても、「やっぱりな、そうじゃないかと思ってました」としか言いようがない。
後者に関しては、事実あったというか現在進行系の問題であるため、非常に頭が痛い。
密かに憧れていたお姉さんだっただけに、彼女を覚醒させた性犯罪者を八つ裂きにしてやりたい衝動に度々駆られる。
もっとも、すでに八つ裂きにされてこの世にいないが。
......話を戻そう。
「えっと、つまりどういうことでしょうか? 師匠」
「わからんか? 要するに振るいだ。敢えて過酷な訓練内容を課し、お前が魔法士になるのを諦めるように仕向けた。
十倍だぞ? はっきり言って地獄だったはずだ。あんなもの、まともにやる奴の気が知れん。
が、お前はそれを立派にこなしてきた。ただひたすらにな。
重い枷を持ちながらひたむきに努力する。そんな弟子を前に、どうして師が途中で投げ出すことが許される?
自分に自信を持て、フュフテ。お前は、私の誇りだ」
女性にしては長身であるニュクスは、己の胸元あたりの上背しか無い息子に視線を合わせるためか、少し前屈みに、誇らしげな表情で朱唇を笑みの形に変える。
両手が塞がっていなければ、頭の一つも撫でたのだろうか。
対する息子の顔からは、一切の表情が消え去っていた。
--驚愕の事実であった。
この女は一体、何を考えているのか。
どうりでいつもいつも、死にかけるのが当たり前だった筈だ。
まだ魔法を習う前は、魔法士になるのは簡単なことじゃない、大変な苦労をしてやっとなれるんだ、と周りの大人達は常々そう言っていた。
だから、死にそうになるぐらい大変なのが当然だと思っていた。
まさかその大変な苦労を、十倍の密度でやらされていたとは。
全く意味が分からない。殺す気か!
思い起こせば、普通じゃなかった気もする。
最初からおかしかったのかもしれない。
魔素の取り込みと魔力変換を丸三日不眠不休でやらされた。死にかけた。
魔力量を増やすため、魔臓が破裂寸前になるまで魔素を吸引させられた、ほぼ毎日。死にかけた。
全系統の基本魔法を習得するまで家に入れてもらえず、飯と気絶以外は野ざらしの一ヶ月だった。死にかけた。
一種の魔法を上級まで覚えるまで、半永久的に魔法を撃たされた、それを全種繰り返した。お尻の穴が死んだ。
ピンポイントでお尻目掛けて放たれ続ける魔法を、同じく魔法をぶつけて相殺する訓練を気合いと回復で乗り切ったが、穴に直撃しまくった。もちろんお尻は死んだ。
速度と威力のコントロールを極めるため、ひたすら魔法を使い続けた。調整に失敗すると雷撃で反撃する魔道具相手に。やっぱりお尻は死んでしまった。
やばい。
死にかけるか、お尻が死ぬかの訓練しかしていない。
それを七年間だ。
これが普通だと思っていたのだから、自分が信じられない。
もはや洗脳だ。純粋な子供相手になんてことをするのだーー。
目の前でいい笑顔で見つめてくる女を睨む。
なぜそんな、よくやった的な顔をしているのだ。
普通じゃない、完全にキチガイだ。
常識がないとは思っていたが、認識が甘かった。
振るいにかけたといったが、振るいの言葉の意味をちゃんと調べてから使って欲しい。
「基準を満たしたものを選別する」だ。
基準が異常な位置に設定されている時点で、それは振るいではない。
人はそれを『鬼畜』と呼ぶ。
鬼の所業だ。
山の民にそういう怖い種族がいると聞いたことがあったが、まさか身内にもいるとは知らなかった。
赤い鬼だ。母親は、赤鬼だった。