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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

前世主従夫婦

私の為に死ね

作者: とど


 ああ、人生終わった。


 荘厳な神前式執り行われる中、白無垢を身に纏った主役の片割れは祝福する周囲の面々をよそに絶望していた。どうしてこうなってしまったのだろうか。

 新婦はげっそりとした顔を隠しながら密かに隣に座る男を見上げる。自分――紗桐さきりよりも十も年上のこの男と、彼女は今日結婚するのだ。


 体格は良く中年太りとは無縁そうな体つき、ぴくりとも動くことのない表情筋、そして思わずひれ伏したくなるような鋭い眼光。何度見てもあの男にそっくりで、紗桐は「ああ、またこの人生もこの男の所為で終わるんだ」とお先真っ暗な将来を憂えて遠い目になった。



「――ひっ」



 そんなことを考えていると不意に男のナイフのような鋭い視線が紗桐に突き刺さり、思わず彼女は口の中で小さな悲鳴を上げた。











 誰にも言ったことはないが、紗桐は昔から自分以外の人間の記憶を薄ぼんやりと持っていた。時折夢に見るそれは大昔の戦国時代のような場面ばかりで、彼女はきっとそれが自分の前世なのではないかと漠然と感じていた。

 その人物――桐という、紗桐と近い名前を持つ彼女はどこかの古めかしい――と言っても今から見ればだが――屋敷で寝泊まりしていた。とはいえ桐はその家の娘だった訳ではなく、その家の主人に仕えていた奉公人のようなものだった。


 思い出した記憶はそう多くはないが、夢の中で女中の仕事をしていたかと思うと、次に過ぎった光景では戦場らしき場所で全身血塗れになりながら刀を持って戦っていた。この夢を見た時は起きた瞬間に吐きそうになったのは余談だ。

 普通女は戦場に出ないのではないかとも紗桐は思ったのだが、生憎彼女がそう思った所で夢は変わらない。


 桐の夢は何度か見たがその度に記憶に蓄積される訳ではなく、他の夢と同じように起きればすぐに忘れてしまうことも多かった。だからこそ、起きてもはっきりと覚えていたどころか何度も何度も繰り返し見ることになったその夢だけは、紗桐の中で嫌でも記憶に刻み込まれることになった。


 それは、桐の最期の夢だった。



『貴様は私の為にここで死ね』



 今にも倒れそうだった桐にそう言ったのは、彼女が仕える主だった。威圧感のある鋭い眼光、そして何の感情も浮かばない顔。血塗れの桐に淡々とそう言い切った男は、敵に囲まれる彼女を見捨て、囮にして一人馬で逃げた。

 その後は言うまでもない、一人取り残された桐はすぐに殺された。矢に射貫かれ、刀で斬られ、想像絶する激痛の中で死んでいった。

 自分と重ねた人間が何度も何度も殺される。痛みさえ再現されてしまいそうなリアルな夢を見る度に紗桐は恐ろしくて堪らなくなり、昔は包丁を持つことさえ怖かった。母に叱り飛ばされながら何とか克服するまでかなりの時間を要することとなった。


 そんなトラウマ級の記憶に苛まれながら大人になった紗桐は現在二十五歳だ。その筋ではそこそこ有名らしい花道の家元に生まれた彼女は、何の因果か前世と同じく屋敷住まいである。ただ勿論立場は異なるが。

 この家に生まれた者として紗桐も勿論幼い頃から母親に花道を習った。が、センスがずれているのか特に器用ではなかった所為か叱られるだけで全く伸びず、しまいには匙を投げられた。跡取りとして彼女の上に長男と次男がいたこともあり、紗桐は最低限の技術だけ習得させられるとすぐに花嫁修業へと教育を切り替えられたのだ。


 花嫁修業自体は以前からきっちりと仕込まれていた為特に問題なく終わった。というのも、紗桐は昔から母が求める良家のお嬢さん像からはかけ離れた落ち着きのない性格をしており、大人しく家の中で過ごすよりも外を走り回り泥だらけになる方が性に合っていた。

 そしてそれを見た家族はただでさえ家業も駄目なのに嫁の貰い手もなくなると危機感を抱き、昔から紗桐に徹底的に家事全般や礼儀作法を叩き込んでいたのだ。








「紗桐、あんたお見合いしなさい」

「は?」



 紗桐が仕事から帰って来た直後、不意に母がそんなことを言った。それが地獄行きへの全ての始まりだった。



「は、じゃないでしょ。二十五にもなってまだ結婚してないなんて完全に行き遅れよ」

「お母さん時代間違えてない?」



 二十五で結婚してないなんて今は珍しいことではない。桐の時代じゃあるまいし、と今でも時折夢見る彼女の時代背景を思い出していると、「とにかく相手はこの人だから」と見合い写真を差し出された。



「ひっ」



 面倒に思いながらもそれを受け取って視線を落とした紗桐は、その瞬間反射的に悲鳴を上げ、写真を床に落としそうになった。

 写真に写るのは三十代後半くらいの男だ。比較的整った顔立ちだが、威圧感のある無表情とそれだけで人も殺せそうな目がそれを見事にぶち壊している。

 しかし紗桐が真に驚いたのはそこではない。彼女はこの顔を何度も何度も見て来たのだ。死体が大量に転がる、あの戦場で。


 写真の男は桐の――前世の自分の主。かつて彼女を見殺しにした男だった。

 ぞわりと、鳥肌が立つ。



「い、いやああ! 無理! これは無理! 絶対に嫌だ!」

「何言ってるの、ちょっと年が離れてるかもしれないけど家柄も学歴も素晴らしい人よ。老舗呉服店の社長で経営手腕にも長けてるっていうし、何が不満だって言うの」

「人間性だよ! お母さん絶対私この人と結婚したら殺される! 何かいいように使い潰されて死ぬ! ほらそんな顔してるでしょ!?」

「人を見掛けで判断しないの。万が一すごく優しい人かもしれないでしょう」

「そんな確率に賭けたくないんだけど!?」



 無理無理、と抗議する紗桐に母親はさらっと「来週の土曜日だからちゃんと準備しておきなさいよ」とだけ言い残して彼女を置き去りにして去って行った。

 冗談ではない。何が悲しくてまたあの男と会わなければいけないのか。仮に他人の空似で全く無関係の別人だったとしても、彼女のトラウマを容赦なく刺激するあの顔の男と結婚なんて無理に決まっている。


 しかしいくら紗桐が嫌がっても時間は流れるし、そして見合いが取り消されることもない。気が付いたら当日になっていた紗桐は起きてすぐにまずいと逃亡しようとしたのだが、それすら見越していた家族によってあっさりと捕らえられてしまった。「お前はいつもぎりぎりになってからしか動かないな」と兄に呆れた顔をされながら母親に引き渡された彼女は、あっという間に身なりを整えられて見合い場所の料亭へ連れていかれたのだった。




「ああ……もうおしまいだ……」

「何ぶつぶつ言ってるの。ほら、しっかりしなさい」



 俯いて死にそうな顔になっている娘の背中を乱暴に引っ叩いた母親は「絶対に失礼のないように」と言い含めてから絶望が待ち構えているであろう部屋へと足を踏み入れた。



「すみませんお待たせいたしまして」

「いえいえ、本日はよろしくお願いいたします」



 恐る恐る母の後に着いて行った紗桐が最初に視界に入れたのはたおやかな雰囲気の女性だった。自分の母よりもいくらか年上だろうが、隙なく着こなしている着物や所作が非常に美しい。思わず見惚れかけた紗桐に「ほら、紗桐さんご挨拶を」と家にいる時よりも淑やかな母が促して彼女を前に出す。



「初めまし――」



 言い掛けた紗桐がぴしりと固まった。先ほどまで母に遮られて見えなかった奥に佇む和服の男を目に留めた所為だ。

 写真で見るよりもその衝撃は凄まじいものだった。もしかしたら似ているだけで本当にただの別人だと、ちょっと顔が怖いだけで本当はいい人かも一縷の希望を抱いていた。

 しかし対面してみれば一瞬で分かる。写真では感じることの出来なかった圧倒的な威圧感。鋭い目と視線が交わった瞬間に反射的に平伏しそうになる体。完全に覚えている訳ではないのに紗桐は本能でこの男が“主”だと確信してしまった。



「ちょっと、紗桐さん!」

「ごめんなさいね。うちの息子強面だから驚かれたでしょう?」

「そんなことありませんよ、きっと紗桐さんは見惚れてしまったんだと思います」

「ちょっ」



 「ね、紗桐さん?」と母が圧力を掛けて来る。それに彼女は全力で猫を被って引きつった顔で曖昧に笑みを浮かべることしか出来なかった。

 見惚れたなんてとんでもない。言わば蛇に睨まれた蛙だ。怖すぎる。きっとまた殺されると内心でぶるぶると震えながら、それでも日頃さんざん母に扱かれた猫を必死で被る。


 正直な所、紗桐はその後のことをほぼ覚えていなかった。特に二人にされてからは殆ど意識が飛んでいたと言っていい。鹿威しがカコーンと音を立てた所でようやく我に返り、その時にはすでに元主はちょうど立ち上がった所で、紗桐も慌ててそれに続いた。



「ほ、本日はありがとうございました……」



 ちっとも思ってもないことを言いながら紗桐が頭を下げると、背を向けていた男がちらりと彼女の方を振り返った。先ほどよりも至近距離でその顔を見てぴしりと固まった紗桐に彼は暫しじろりと彼女を見てから「ああ」と短く返事を口にした。

 その声を聞いて、再び彼女の中で最期に告げられた呪いのような言葉が蘇る。そのまま部屋を出て行った男に、紗桐はややあって全身の力が抜けたように崩れ落ちた。


 ……しかしながら、これはあくまでお見合いだ。そして碌に話すことも出来なかった紗桐をわざわざ妻に迎えたいと思うはずもない。当然断られるだろうと後になって気付いた彼女は数日の怯えからようやく復活を遂げ、上機嫌で仕事に出かけた。










「紗桐、式の日取りのことだけど」

「……は?」



 それから更に数日後、仕事から帰って来た紗桐にあっさりと母が告げた言葉は、再び彼女を絶望へと叩き落した。



「な、なんの話……?」

「何ってあんたの結婚式に決まってるでしょうが」

「う、嘘おおおおっ!?」

「先方が是非にと仰って下さってね。良かったじゃないの、気に入られたみたいで」



 一体どこをどうすれば気に入るというのだ。何も言わなかったのが逆に良かったのか、大人しくて逆らわない女だと思われたのか。向こうの思惑は分からないが、本当に冗談ではない。



「こっちからお断りするのは……」

「無理に決まってるでしょうが。というか顔以外優良物件なんだからさっさと慣れて結婚した方があんたの為よ」

「お母さんも結構酷いこと言ってるよね!?」



 どれだけ無理だと主張しても紗桐の意見はまるで通らなかった。家業の花道も碌にせず、好きな仕事に就かせてもらっているなど普段から割と好き勝手させてもらっている自覚があった彼女は「たまには言うことを聞きなさい!」と言われればそれに従う他ない。


 そしてあれよあれよといううちに、とうとう紗桐は元主に嫁ぐ羽目になってしまったのである。式まで数回顔を合わせたものの紗桐が固まるだけで碌な会話にならなかった。彼女にとって唯一の救いだったのは、仕事はそのまま続けて良いと許可が出たことだけである。あの男が帰って来るのを家で待つだけの生活など考えるだけで気が滅入ってしまいそうだったのだから。







 □ □ □ □ □






「あ、主様、お茶を……」

「……」



 桐はカタカタと盆を揺らし緊張しながら自身の主の元へと湯飲みを運ぶ。何とか溢さずに主の目の前に置けたことにほっとした彼女だったが、男が無言で湯飲み手にした瞬間、またすぐに緊張が走った。



「……まずい」



 地を這うような低い声に桐は大きく肩を揺らした。そして氷柱のような冷たく鋭い視線に貫かれた彼女は途端に畳に平伏す。



「も、申し訳ありません!」

「なんだこれは、毒でも入れているのか」

「いえ、そんなことは……!」

「さっさと入れ直せ」

「た、只今!」



 どん、と勢いよく叩きつけるように湯飲みが盆に置かれ、桐は生きた心地がしないまま慌てて退出した。






 □ □ □ □ □





「……」



 最悪な目覚めだと、紗桐は大きく溜息を吐いた。



「毒でも入ってるのかって……そんな訳ないでしょうが」



 布団を叩きながら苛立たしげにそう言った紗桐は部屋を見回して再度溜息を吐いた。見慣れた自宅の部屋ではない。不本意にも結婚してしまった彼女は以前から夫が一人暮らしをしていたこの家へ引っ越すことになったのだ。

 二人暮らしには十分な広さの日本家屋。しかしお手伝いさんの手を借りるほど広い訳でもなく、元々一人暮らしの時から誰も雇ってはいなかったという。必然的に全ての家事は紗桐が行うことになったのだが、正直な所勘弁して欲しかった。

 仕事との両立ということよりも何より、誰かが他に家に居れば少しでも気が紛れただろうに。


 布団から出た彼女は寝間着を着替えようとして、少し考えて洋服ではなく和服を選んだ。何せ相手は老舗呉服店の社長である。洋服なんて着たら喧嘩を売っていると思われても仕方がないような気がする。……実際どうかは分からないが、下手に刺激しない方がいいだろうという結論に至った。



「……よし」



 鏡の前で身なりを整える。これでも花道の家元出身なので着付けくらいは余裕である。



「余計なことは言わない。なるべく怒らせない。命の危険を感じたら何が何でも逃げる」



 鏡の中の自分に言い聞かせるように紗桐は呟いた。

 自分を見殺しにしたあの男と結婚してしまった。しかししてしまったものはもうどうしようもない。ならば彼女に出来ることは、前世の二の舞にだけはならないようにすることである。

 気合を入れるように頬を軽く叩いた彼女は立ち上がると、あの男が起きる前にさっさと朝食の準備をしなければ、と急いで廊下へと足を踏み出した。



「……」



 やばい、と紗桐は全身から冷や汗が出そうになった。

 居間の扉を開けた先には、既に起床済みの元主が静かに新聞を読んでいる所だったのである。早すぎる。紗桐の父親ならばまだまだ夢の中の時刻である。

 困惑する紗桐に、不意のその存在に気が付いた男が顔を上げて彼女に視線をやり、睨むようにその目を細めた。



「起きたか」

「申し訳ありません! すぐに朝食の準備を……」



 そっちが早すぎるだけだ! と叫びそうになった紗桐はそれを必死に堪えて逃げるように台所へと駆け込む。相変わらずの鉄面皮と冷たい視線、そしてトラウマを呼び起こす男の声に、紗桐は「怖すぎる……」と聞こえないように本当に小さな声で呟いた。夢でも現実でもあの表情が動いた所を見たことがない。表情筋が死んでいるとしか思えなかった。



「だ、旦那様。遅くなって申し訳ありません」

「……」



 慌てて準備をして朝食を男の前に差し出す。とはいえまさかトーストと目玉焼きなんて紗桐のいつもの朝食を出す訳にはいかなくて、しっかりとした和食を作るとなると多少時間が掛かってしまう。……その時間も加味して起きて来たというのに本当に早起き過ぎる。

 「もっと寝ててよお願いだから!」と紗桐は本人には言えない言葉を心の中で嘆いた。


 男は無言で手を合わせて紗桐の作った朝食を食べ始める。耳鳴りがしそうな静寂に居心地の悪さを感じた彼女はそそくさと台所へ下がり一息つくと、次に洗い物と食後の茶の準備を始める。



「おい、茶を」

「は、はい!」



 しばらくして男の声が掛かると、紗桐は緊張しながら準備した茶を手にして居間に戻った。しかしその瞬間、先ほど見た夢が彼女の頭の中に過ぎり湯飲みを差し出す手が思わず震えてしまう。



「どうぞ……」

「……」



 一体今度は何を言われるだろうか。湯飲みを傾ける姿を彼女がそっと窺っていると、男は無言で茶を飲み続け、そして飲み干して湯飲みを置いた。



「……まずい」



 何も言われなかったことに安心し掛けた紗桐が直後その言葉で固まる。



「次はもう少しマシなものにしろ」

「……も、申し訳、ありません」



 せっかく淹れたのにまずいって何様のつもりだ!

 沸々と沸いている怒りが恐怖を上回るが、それでも紗桐は必死に自制して引きつった顔を見られないように頭を下げる。それでも全てを隠すことは出来なくて、手にした盆が苛立ちで震えるのを感じながら急ぎ台所へ戻って怒りを吐き出すように大きく息を吐いた。



「冷静になれ……」



 ぶつぶつと何度もそう唱えて鎮静化を図る。その間に薄っすらと思い出したのは、あの男は昔からやたらと茶の味に煩かったということだ。朝食に関しては特に何も言われなかったので、やはり茶だけに厳しいのだろう。

 毒入りだと言われたのは流石にそうそうなかったが、覚えている限り桐が出した茶を褒められたことは一度さえなかったような気がする。その癖いつも呼びつけるものだから、あまり覚えていないがきっと桐も紗桐と同じようにブチ切れていたのではないだろうか。文句を言うくらいならば他のもっと美味しく淹れられる人間に頼めばいいものを。



「……今に黙らせてやる」



 本人が居ない所では強気な紗桐は、いつか見返してやると小さな声で意気込んだ。











「もう息苦しくてやってられない!」



 土曜日、最近新生活でどたばたしていた紗桐はようやく落ち着いた休日に高校時代の友人と会い、認めたくない旦那の愚痴を溢していた。

 現在家では食べられないパスタをくるくるとフォークに巻き付けながら紗桐が不満を爆発させていると、友人は「うわー、紗桐も大変そうだね」と苦笑した。



「私の方は夫の母親が嫌味ばっかり言ってくるよ。もう一々煩いのなんの」

「うちはそれはないけど……」

「気に入られてるんだ、よかったじゃん」

「いや、あれは気に入られてるっていうか……ようやく生贄が見つかったみたいな」

「生贄って……そんなに酷いことされてるの? 暴力とか大丈夫……?」

「暴力は振るわれないけど……例えるなら、いつ噛まれるか分からないライオンと檻の中で一緒に暮らしてるって感じ」

「ライオンってあんた」

「怖いし冷たいし言葉がきついし、やたらとお茶に文句付けるし、あと急に意味が分からないこと言うし」

「意味が分からないって、例えば?」



 首を傾げた友人に、紗桐は遠い目をして先月のことを思い出す。結婚して間もない頃、家にいる時に不意に話し掛けられたかと思うと突然「二週間後の土日、開けておけ」と理由も説明されずに唐突に夫に言われたのである。



「それでどっか行ったの?」

「どこに連れていかれたと思う? 一泊二日で人間ドックだよ!」



 結婚して最初に二人で出掛けたのが病院である。別に紗桐はあの男と遊園地やら映画館やらに行きたかった訳ではないが、何故人間ドックなのか。



「あー……なんかすごく亭主関白な人みたいだし、妻の体調まで把握しないと気がすまない人だとか?」

「止めてよそれ怖いから! ……あー、離婚したい……家のことがなければすぐにするのに……」



 紗桐はアイスティーを飲みながら大きく嘆息し、そして不意に疑問が過ぎった。そもそもどうしてあの男は自分と結婚しようと思ったのだろうか。

 適当に見合い相手を選んで、たまたま紗桐が当たったのか。それともやはり以前の記憶があって、またこき使える道具が見つかったと思われたのか。


 彼が前世を覚えているのか、紗桐は知らない。そして勿論冗談でもそんなことを聞ける間柄ではない。ただ夢で見る主と今の夫は、顔は当然ながら性格も変わっているように思えない。だからこそ覚えていようがいまいが以前と同じような仕打ち――使い潰されて見捨てられる――をしても可笑しくはないと思っていた。



「なんか悪寒がして来た……」

「大丈夫?」



 そんなことを考えていると紗桐は何だか気分が悪くなってきた。今回も桐と同じようにあの男に酷い目に遭わされるのだろうか。



「……いや、今度こそ、長生きしたいなあ」



 おばあさんになってのんびり縁側でお茶なんかを……とまで考えたところで隣にあの男がいるのを想像してしまった紗桐は、再び寒気を感じて自分の体を抱きしめるようにした。












「……げ」



 友人と別れて家に戻った紗桐は自宅のガレージに車が停まっているのを見て思わず引きつった声を上げた。今日も仕事だといつもと同じように朝早く出て行った夫だったが、まだ午後五時前だというのにもう帰って来ているらしい。

 ばたばたと彼女が慌てて家に入ると、居間で何やら仕事をしていたらしい男が紗桐に気付きパソコンから顔を上げた。



「た、只今戻りました……」

「……お前」



 ぎろりと紗桐を見上げた男の眉間に皺が寄る。それと同時に立ち上がり彼女の方へと一歩近づいた男に、いつも以上に剣呑な雰囲気を感じた彼女は思わず悲鳴を上げそうになりながら距離を取るように後ずさった。

 何だか分からないがすごく怒っている。いつもの無表情は怒っているうちに入らなかったのだと今更理解してしまうほど、今の男は酷く苛立ちを露わにしていた。

 無断で外出したからか、それとも洋服を着ているからか。理由は分からないが盛大にびびった紗桐はもう一歩下がろうとして、その瞬間僅かに体をよろめかせた。



「っ!?」



 後ろに倒れる。そう思った彼女だったが、その前に距離を詰めた男が紗桐の腕を掴んだ。そして驚いて息を呑んだ彼女に構わず彼はおもむろに彼女の顔に向かって手を伸ばした。

 叩かれるのかと怖くなった紗桐が強く目を閉じると、やって来たのは衝撃ではなく冷たさだけだった。



「熱い」

「……え?」

「熱がある。貴様自覚症状もないのか」



 額に当てられた手に恐る恐る目を開けた紗桐は、至近距離で怒りのオーラをまき散らす男の顔を見て一瞬卒倒しかけた。

 しかし冷静になって男の言葉を理解すると、そういえば先ほどから悪寒がしていたり少々気分が悪くなったりしていたなと思い出す。体調不良の所為だったのか。

 自覚すると途端に体が怠くなる。



「来い」



 掴まれていた腕が引かれ、紗桐は抵抗も出来ずに大人しく男に着いていく。のったりとした動きで向かった先は彼女の私室で、彼は腕を離すとさっさと押入れから布団を取り出して敷き、紗桐を強引に寝かせた。



「あの」

「寝ろ」



 熱の所為もあって状況に思考が追いつかない。混乱し放題の彼女に、彼は有無を言わせず命令し紗桐の目元を大きな手で覆い隠した。

 視界が暗くなると途端に頭が重くなり意識が遠のいていく。目の前に置かれた手の気配だけを感じながら、紗桐はあっという間に意識を沈めていった。







 □ □ □ □ □







「はあっはあ」



 息が切れる。血が流れる。走る、走る、走る。


 桐は今にも爆発してしまいそうな心臓を押さえながら、それでも戦場を駆けていた。馬は途中で矢に射貫かれて走れなくなってしまった。今にも倒れてしまいそうになる体を引き摺り、襲い掛かる敵を薙ぎ払い――そして、ようやく彼女はその背中を見つけた。



「主様!」



 ずっと探していたその人は馬上で敵兵を斬り倒して彼女を振り返る。血に塗れた主の前に跪いた彼女を、男は相変わらずの無表情のままほんの少しだけ眉を顰めて見下ろした。



「貴様、何をしに来た」

「主様をお助けに……っ」

「助けだと? その体でか」



 げほっ、と咳き込んだ桐に、男は温度のない声でそう言った。

 数か月前、桐は病に倒れもう長くはないと医者に宣告を受けた。もういつ死んでも可笑しくない体だ。だからこそ今回の戦にも連れていかれることはなかった。

 だが同盟国に寝返られ孤立無援になったと病床で耳にした桐は、居ても経っても居られず飛び出して来てしまった。こんなことなら初めから無理して着いて行けばよかったと思っても後の祭りだ。彼女はいつも、ぎりぎりになってようやく決断するのである。



「お前のような死に損ないに期待などしていない。まだ命があるうちに帰れ」

「嫌、です」

「なんだと」

「こんな体でも、矢避けくらいには、なります。……どうせすぐに無くなる命。ならば残り全て、主様の為に使いとうございます」

「押しつけがましいことを」

「分かっております。しかし私は……病の所為で無意味に死ぬくらいなら、ほんの少しでも主様に使われて死にたいのです」

「……」



 主にとって、桐はただの道具に過ぎない。彼女はそれを分かっているし、それでいいと思っている。


『生きたいと思うのなら、勝手に着いてこい』


 幼い時、捨てられていた彼女をそう言って拾ったのは主だった。桐という名前を与えてくれたのはこの男だった。

 それから死に物狂いで様々なことを覚えさせられた。女中としての仕事、戦場での戦い方、密偵としての動き方。元々器用だった訳でも要領がよかった訳でもない桐は多くの失敗をして、それらを習得するのも遅かった。数えきれないほどの冷たい視線と言葉を吐き捨てられて来た。


 だがそれでも、主は一度として彼女を捨てようとはしなかった。茶に煩くこだわりが強い彼が、しかしどんなに不味い茶を出そうが怒りはしたが必ず飲み干してくれた。

 善人な男とは言えないだろう。しかし、一度も動いた所を見たことがない表情の裏で、主がただ非情なことばかり考えている訳ではないことを彼女は知っている。だから桐はどんなことを言われようと少しでも、主に拾ってもらってから今までのことを報いたかった。



「この先で味方が戦っております。早く合流して撤退を」

「……」

「敵が迫っております! ここは私が食い止めますのでどうか!」

「貴様一人でどうにか出来るとでも?」



 背後から再び馬の足音が聞こえ、敵兵の姿が薄っすらと見えて来る。それを霞み始めた目で確認した桐は立ち上がると「恐らく、無理でしょう」と咳き込みながら言い、刀を抜いた。



「ですが、こんな死体同然の体でも、ほんの少しくらい足止めはできます」

「これ以上助けなど来ない、死ぬぞ」

「承知の上です。どうぞ捨て置いて下さい」

「貴様……」

「私はただの道具です。その辺に転がっている石同然です。その石がたまたま敵を転ばせる……それだけのことです」

「……」



 逡巡するように会話が途切れたのは、ほんの一瞬のことだった。



「早く!」



 敵が来る。主は馬上から桐を無表情で見下ろしながら一瞬で判断を下してその言葉を口にした。




「桐、最後の命だ。――貴様は私の為にここで死ね」

「本望で、ございます!」



 勢いよく主を乗せた馬が走り出す。そして同時に、桐も敵兵へと向かって走り出した。

 既に満身創痍の彼女を甘く見た敵を斬り、そしてすぐに斬り返される。それでも彼女は止まらない。


 自分の為に死ねと命じられた。この死が主の為になるのだと、桐の自己満足を満たす為に命令してくれた。彼女にとって、これ以上ない言葉だった。

 血と激痛に溺れながら、桐は最期の瞬間まで薄っすらと笑みを浮かべていた。








 □ □ □ □ □







「……う」



 額が冷たくて気持ちがいい。頭の中に靄が掛かっているような感覚を覚えながら僅かに目を開いた彼女は、薄暗い部屋の中ですぐ隣に気配を感じた。

 ぼんやりとした視界に、男の顔が映る。



「起きたか」

「……あ、るじ、さま」



 無意識に伸ばした手が男の手に触れた。



「私……しあわせ、でした。主様に拾われて……主様の為に死ぬことを、許されて……」

「……」

「何ひとつ、悔いは、ありません。例えもう一度、同じことがあっても……私は同じ、答えを……」

「……そうか」



 触れていた指先が握られる。それが分かった彼女は小さく微笑み、そして再びゆっくりと目を閉じた。













 雀の鳴き声が聞こえ、紗桐は自然と意識を浮上させた。



「……あれ」



 カーテン越しに感じる暖かい日差し、それを暫しぼうっと眺めていた彼女は無意識に時計に目をやると、その時刻に驚いて思わず飛び起きた。



「やばっ! ……って」



 もうあの男がとっくに起きている時間だと慌てて着替えようとした紗桐だったが、しかし目の前に落ちた濡れタオルに気付くと一瞬思考を巡らせて、それからようやく昨日のことを思い出した。

 熱を出して、そしてあの男に寝かしつけられたのだ。ちらりと枕元に視線を向けると、そこには盆に置かれた水の入ったグラスと体温計、そして薬が置かれている。



「あの人が……やってくれたんだよね」



 勿論濡れタオルを額に置いてくれたのも、だ。ぴたりと額に手を当てるともう熱くもなく、頭もすっきりとしている。しかも何かいい夢を見ていた気がして気分も良い。普段夢見が悪いことが多いのでいい夢だったのなら覚えておきたかったが残念だ。


 しかしあの男が紗桐の体調不良をすぐに見抜き、そしてこうして看病してくれたなど正直な所彼女は信じ難かった。何か裏があるのではとさえ思ってしまったが、流石にそれは失礼だろうと思い直す。



「真っ先に人間ドックにも連れていかれたし、単に健康マニアなのか……?」



 紗桐は首を傾げつつ、身なりを整えて部屋を出る。今日は日曜日だったが、案の定いつも通り早起きらしい男が新聞を読んでいるのを見て、紗桐は一度深呼吸をしてから声を掛けた。

 新聞の端からぎろりといつもの鋭い視線が彼女に向き、思わず肩に力が入った。



「お、おはようございます」

「……体調は」

「もう大丈夫です。あの、旦那様。看病して下さったようで……ありがとうございました」

「構わない。が、貴様自分の体調も碌に把握できないのか」

「……すみません」



 高圧的な口調で叱られた紗桐は少々癇に障ったが、看病してもらった手前――というよりも元々怖くて――反論せずに謝った。



「何かあってからでは遅い。留意しろ」

「はい……あ、朝食」

「もう終えている」

「え、すみません」



 確かにいつもならばもう食べ終えている時間だ。反射的に謝ると、男はそれには答えずに新聞に目を向けたまま当然のように言った。



「紗桐、茶を」

「……え?」

「茶だと言っている。二度も言わせるな」

「は……はい! 只今!」



 一瞬唖然として思考を止めていた彼女は慌てて動き出す。台所へ引っ込んだ紗桐は急いで茶を淹れる準備を始めながらも、たった今言われた言葉を何度も何度も頭の中で反芻する。

 紗桐と、名前を呼ばれた。



「聞き間違い、じゃないよね……」



 そもそも覚えられていたことが衝撃だ。思い出そうとした風でもなく当たり前のように呼ばれた。

 勿論初めてのことだ。今まではずっと「おい」か「お前」か「貴様」だったのだから、まさかあんなに自然と呼ばれるなんて予想外過ぎる。



「紗桐、かあ……って」



 感慨深く呟いた所で紗桐は妙に浮足立っている自分に気付いて、慌ててそれを振り払うように首を振った。



「たった一言で絆されてたまるか!」



 今まで、それこそ生まれる前から散々上から目線できつい言葉や冷たい視線を向けられて来たというのに、ちょっと名前を呼ばれたくらいで簡単に手のひらを返す訳にはいかない。

 紗桐は手早く、しかし丁寧に茶を淹れると急いで居間に戻ろうと踵を返す。



「旦那様、お待たせいたしました」

「……ああ」



 そう言い聞かせながらも、紗桐は無意識に先ほどの声を何度も思い出してしまっていた。








 □ □ □ □ □







 桐という女は、彼女の主である男にとってどこまでも理解しがたい存在だった。


 怯えながらも近づいて来る。どんなに厳しく当たっても泣き言も言わず、一度も逃げようとしない。優しく接したことなど欠片もないのにいつの間にか忠誠心を持ち始める。

 あろうことか――生きたいという意志を持って男に拾われたというのに、その少ない命を自ら投げ出す。矛盾ばかりの酔狂な女だった。

 男は彼女を使い勝手の良い道具として見ていた。自分の命じた通りに動く、ただの物同然に扱っていた。――そのはずだったのだ。


 道具が壊れれば捨てて新しいものを使う、それが普通だ。だが男は、あの戦場で自らを捨て置けと言った桐に僅かといえど躊躇った。そして彼女を見捨て、やはり死んだと知った時、心の片隅に言葉にならない空虚感を抱いた。それは、とてもじゃないがただの道具に対する感情とは言えなかった。

 桐が死んでからようやく、男は彼女に対して他の人間とは違う感情を抱いていたことを自覚した。ただ……彼はその感情が一体何なのかまで理解することはなかった。


 自分が死ぬまでその答えに辿り着かなかった男は――気が付いた時には既に別の人生を歩んでいた。別人として生を受け、以前とは違う暮らしをして、そして……再び、あの女と出会うことになったのだ。

 いい加減後継ぎを、と強制された見合いで出会ったその女――紗桐。彼女と結婚しようと思ったことに深い理由などなかった。ただ、どうせこの先誰かを伴侶にしなければならないのなら、残りの人生を再びこの女と共に生きるのも悪くないと、漠然と思ったのだ。

 あの時の答えを今度は見つけられるかもしれないと、そう考えた。


 彼にとって、彼女との結婚生活は思ったよりも悪くはなかった。怯えられるのは常だが慣れているし、実家から仕込まれたのか妻が作る食事にも不満はなかった。ただ茶にだけはつい文句を口にしてしまったが。



「だ、旦那様、いってらっしゃいませ……」



 引きつった顔をした妻に見送られながら仕事に行くのも慣れた。現在の彼女の健康状態は良好で医療技術も発達している今、以前と同じようにはならないであろうと男は当然のように思っていた。


 ――そんな矢先、妻が体調を崩した。

 様子が可笑しいと思って額に触れれば熱を出していた彼女を、男は問答無用で部屋へ連れて行き寝かせた。目を閉じるとすぐに眠ってしまった妻の寝顔を見下ろしながら、男は重たいため息を吐く。


 たかが発熱だ。吐血した訳でも突然意識を失った訳でもない。だというのに想像以上に動揺している自分に気付き、思わず片手で顔を覆った。昔も今も何故この女にここまで心を乱されるのか。

 だが、そんな動揺はまだ軽いもの過ぎなかったと知ったのは、次に彼女が目覚めた時だった。



「……あ、るじ、さま」



 それは酷く懐かしい呼び名だった。

 無意識に奥底に眠っていた記憶を呼び起こしたのか、その時の彼女はまさしく桐そのものだった。

 そして彼女は途切れ途切れにその胸の内を語る。死んでなお、悔いはないと言って再び眠りに着いた女をしばらく見下ろしていた男は、ため息交じりに疲れたように呟いた。



「本当に、理解しがたい女だ」



 うわ言で呟かれた言葉は、恐らく目覚めた彼女の記憶に残っていないだろう。だが、男は忘れるつもりはなかった。幸せだと微笑む顔を見て、ずっと探していた答えが何となく見つかったような気がしたのだから。

 悔いはないと、女は満足そうに言った。もう一度同じことがあっても、答えは変わらないと。

 だが――。



「もう貴様の思惑に乗るつもりはない」



 あんな命令、頼まれてももう二度と言うものか。同じ状況など、もう起こさせはしない。

 寝入った彼女の手を握ったまま、男は今までまるで動かなかった鉄面皮を少しばかり崩し、微かに口角を上げて呟いた。



「今度は簡単には死なせん。覚悟しろ」




もし最後の言葉を紗桐が聞いていたら、「楽に死ねると思うなよ」という意味で受け取られます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主の描写が非常によく表現されており、私までもが息を呑んでしまう 戦慄を味わえました。いつのまにか、自分が紗桐になっていました。 [気になる点] 作者さんは、 前世に強い拘りをお持ちなのでし…
[一言] 綺麗だなぁ
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