冷血老人【15】
【28】
十五分間の仮眠を摂って腕時計の発光する文字盤を見ると、午前一時を回っていた。欠けた月明かりに戸外は静謐な夜気で満ち、街灯にでかい蛾が群がる。首都郊外のさびれた有料駐車場で、車内から人通りを確かめたが、浮浪者の一人も見当たらない。こんな地に自宅を構えるのは余程の人嫌いか、さもなくば隔離された自己に酔う勘違い野郎だけだ。
点眼液を眼球に落とし、目頭を揉む。すう、と醒めた思考が働く。そろそろ仕事の時間だ。後部座席で衣服を脱ぎ、何処にでも売っている青の作業服へ着替える。何の社章もない同色のキャップを目深に被れば、夜間の清掃作業員にしか見えない。違うのは腰から下げたナイフと、恋人特製のホルスター、そこに収まる銃だけだ。銃口にサプレッサーが捻じ込まれているので、ホルスターから長い筒が飛び出す格好を取っている。
装備を詰めた荷物と、狙撃銃のナイロンバッグとを抱えて車を降り、駐車場の監視カメラを避ける経路で眼前の山林に紛れる。事前に検めた地図によると、この雑木林を通ればアボット邸まで市内の監視カメラを避けつつ、人目にも付かず接近出来る。深い闇の垂れ込める林で夜目の完熟を待つのも惜しく、キャップを脱いでPVS-14(NVG、暗視ゴーグル)を装着したヘルメットを被る。スイッチを入れるや、ぶうんと羽虫の鳴く音と共に〈ハルク〉みたいな緑色の視界が開けた。単色のせいで距離感が掴み辛いが、夜の眼としては十分に機能する。少し五月蝿いのが欠点だが、文句も言っていられない。念を入れて拳銃を構えつつ、地図とコンパスの導きで山を登った。
山林は人の手入れが行き届いておらず、そこら中に太い根や深い叢が蔓延っていた。鬱陶しいNVGの駆動音を割いて、蟲の鳴き声が木々に反響する。もしこの山林がやつの所有地であれば、事前に兵隊を配備しておくのも不可能ではない。現状、蟲や鳥の動向を見る限りは、そういった動きがないのが幸いだ。
五十メーター歩く度に、冷たい地面に這って聞き耳を立てた。土を踏み締める音がしないか。草木が擦れ、枝葉が折れていないか。蟲の声が突然に途切れないか。過度なまでに気を配り、いつでも銃を撃てる様に視線を巡らす。やがて危険がないと判断すると、また息を殺して這い進む。姿勢を低く、自分が通った痕跡を残さない様に、硬い土だけを踏む。見通しはさほど悪くない。つまり、敵も侵入者を見付けるのは難くない。もし狙撃銃や機関銃で待ち構える斥候がいたら、一撃でお陀仏だ。そうならない為にも、肉眼以外の手段をフルに用いなければならない。
途中、ウサギと思われる小動物が草木を掻き分ける音に何度か肝を冷やしたが、それ以外で大きな接触はなかった。気付かなかっただけとも想像出来るが、言い出したところできりがない。ともあれ一時間ほどで、アボット邸が目視確認出来る地点にまで、俺は到達した。
NVGを跳ね上げて邸宅を見渡すと、西日を嫌ってか、向かって左の壁には窓がなかった。南を除く三方は土手の急斜面に囲われ、石の塀で防護されている。家屋は三つで、一番大きい二階建てはアボットの居住する母屋だろう。その隣に併設されている直方体・一階建ての似通った二つは、規模からして単なる物置とは捉え辛い。恐らく、一方は奴隷を収容するのに使われている筈だ。もう一方の施設の存在が謎だが、右半分がお高そうな車が収められているガレージとして使われているので、居住空間とは考え辛い。そうなると、警備員の詰め所か何かだろう。軍事作戦であればそれも明らかにするべきだが、如何せん時間がない。
金属製の正門には目立つ位置から見下ろす監視カメラが目を光らせ、訪問者にガンを飛ばしている。だが人力は割かれておらず、機械の目だけが空しく左右へ振られている。
不都合なのは門の内側で、母屋の玄関前で図体のでかい二人組が暇そうに警備に当たっている。片一方は煙草の火を夜闇にくっきり浮かばせ、相方は股を開いて地面すれすれに尻を浮かせている。勤労態度は最悪だが、存在そのものが当方として最低だ。心の内で舌打ちをやり、ナイロンバッグから狙撃銃を展開、高価な機械仕掛けの筒を覗き込む。通常のスコープとは価格が「だんち」な、熱探知スコープだ。倍率の掛かった低解像度の暗黒に、ぼんやりと警備員の白い影が浮かぶ。母屋で薄い明かりが点いているのは、玄関ポーチと二階の一室だけだ。大方、書斎か寝室だろう。二階に台所がある確率は低いし、この時間に主人の居住区を掃除する奴隷はいまい。そうなると、アボットが明かりがないと眠れないお子ちゃまなら別として、やつが起きている事実が判明した。面倒事が、少なくとも二つに増えた。
母屋の窓は全て、カーテンで遮られて内状を窺えない。対して警備員の詰め所と思しき建造物だが、こちらは明々と白色の光がブラインドから漏れており、内側に緩慢な動きが見られる。奴隷の収容所らしき建造物は、完全に消灯されている。
本来なら偵察に十分な時間を割り当てるのが定石だが、作戦目標を考慮すると、現時刻と相談して三十分が限度だ。その間に必要な情報を掻き集めねばならない。普段の我々の訓練が、如何に実戦に即しているかを痛感する。こんな小規模な強襲でさえ、どうしたって一人ではマン・パワー(人員・労働力)が足りない。
敷地を取り囲む石塀の高さは約三メーター。頂に有刺鉄線やセンサーの類は設置されていない。少々高いが、持参したワイヤー製の梯子を使えば難なく越えられる。仮にセンサー類に掛かったとしても、基地から強引に借りた機材――作動停止音波発生装置――で無力化出来る。まさかアボットの私兵も、こうまで装備の整った敵を相手取るとは夢にも思うまい。そもそも、そいつが暗殺を企てている現実さえ知らないのだから。
玄関前で退屈する二人はスーツこそ着ているものの、肩に吊るした火器は民間企業に属しているとは信じ難い風体だ。一人はAR-15系列と見られるライフル、もう一人は判別不可能なサブマシンガンと、装備の統一が図られていない。警察関係でもなげで、どうやら傭兵云々の噂は真実らしい。実戦経験のある人間は厄介だが、これは同時に好都合でもあった。民間の大組織に属していないのであれば、殺害しても事は小さくて済む。性質の悪いごろつき連中であれば、こちらも良心の呵責を受けずに済むというものだ。
レーザー測距機で母屋までの距離を計ると、ここから七十メーター。高低差は十五メーターといったところだ。現時点で確認されている警衛は二人だけ。偵察の制限時間を設定してから、既に十分近くが経過していた。事を急くな。ゆっくりはスムーズ、スムーズは速い。一旦スコープから眼を離し、視神経を弛緩させる。頭を使え。あの邸宅の警備に、何人の人員が必要だろう?警備コンサルタントの正式なノウハウはないが、恐らく八人は余計だろう。表のやつらと交代要員とで、多くて六人。ひょっとすると、もっと少ないかもしれない。監視カメラは、人力より安く済ませられる。正門以外にも設置されていると考えて、まず間違いない。警備を強化がブラフか如何で状況は変わるが、この際構ってもいられない。
再びスコープの電源を入れると、母屋に動きがあった。電子ロック付きの金属製であろうドアが開き、真っ暗な奥から人影が現れる。くすんだ白一色で表される世界では何者か判別が利かず、スコープから眼を外した。玄関ポーチの電球の下、その人影は強かに白い輝きを反射している。――アボットの奴隷だ。黒いの髪が少し乱れている辺り、今晩の相手でもさせていたのだろう。彼女は警衛に会釈しつつ、奥の方の離れへ向かった。裾の短いエプロンドレスを纏った彼女を目では負っても、警衛は一言も掛けなかった。手でも出そうものなら、社会的に憂き目を見るのだろう。
これで、離れの一つは奴隷の居住区画と判明した。残る手前側の離れだが、こいつの正体を調べる猶予は残されていない。バックパックから梯子のロールを取り出し、侵入経路の探索に視線を巡らせた。玄関ドアには、電子ロックが掛けられている。警備員の助力で開けない事もないが、手間取る結果しか見えない。ドアを壊すのもありだが、強襲作戦でもないのに不用な音は立てたくない。アボットのみならず、奴隷連中にも悟られず侵入するのが望ましい。第一、金属製のドアをぶち破るのに、何分掛かるか分かったもんじゃない。だったらハリウッドみたいに頭から窓へ突っ込む方が、まだ迅速性はある。無論、それも却下だ。一般家屋なら地下室からの侵入も容易だが、警備を雇っておいて無策な道理もない。そうなると……。
「――ビンゴ」
スコープを向けた先に、目当ての構造物が見付かった。緩やかな傾斜を描く屋根の中程、手付かずで砂埃に覆われた天窓だ。流石のアボット様も、数いる警備員をいなして屋根へ這い登る物盗りの存在は想定外であった。御丁寧に、地上まで雨どいのパイプも伸びている。あれが俺の体重に耐えられなかった場合は、山岳小隊から教わった登攀技術を用いる必要に迫られるが、これで母屋への侵入手段は確保した。警備員さえ処理すれば、アボットは手中も同然だ。
狙撃銃へ、フルに装弾した弾倉をはめ込む。長大な銃身に太いサプレッサーをねじ込み、ボルト(遊底)を前後して初弾を送る。金属が滑らかに擦れる音を皮切りに、濃厚なアドレナリンの分泌が始まった。仕事の第二段階だ。
時刻は二時三七分。夜明けまでに余裕を持って首都を発つには、アボットの殺害まで二時間も掛けていられない。一つの失敗も許されない、難易度の極めて高い犯罪になる。高倍率のスコープを覗いたまま数分を過ごし、呼吸を整えて拍動をなだめる。万全の態勢で臨むのであれば、警備の交代を待つべきだが、どうしようもない。唯一幸運なのは、大企業が相手でないので、敵の増援は考慮から外せる。母屋の二階の一室は変わらず薄明かりが灯り、主人が眠ってくれている様子はない。敵の人数は、多くて八人。やつらを含め、戦闘能力のない奴隷に気付かれても、俺の身は破滅だ。それでも、やるしかない。
リラックスした姿勢から、肩に銃床を引き付ける。機関銃と違って、余計な力は要らない。自分の身体さえも、銃を支える部品として鉄塊と一体化する。スコープのクロスヘア(十字の照準線)を立っている方の警備に重ね、動向を監視する。風向きは微弱な向かい風。七・六二ミリ弾なら、屁でもない。この距離なら、弾丸自体の回転による偏流も度外視出来る。自分に合わせて調整した引き鉄を、撃発の限界まで絞った。
肺の古い空気を吐き出し、新鮮な酸素を少しだけ補給する。脳の温まった血が抜け、冷却水が流れ込む錯覚を抱く。蟲の求愛が、酷く遠くに感じられる。あらゆる感情が欠落する感触、己が冷たい無機物と化す。母屋の壁に寄り掛かって座る男が、吸い殻を携帯灰皿に押し込んでいる。照準を重ねた方は、銃を壁に立て掛けて欠伸をかいた。頼むから、恨むなよ。
真夜中のしじまを裂いて、鋼鉄の矢が射られた。サプレッサーで音質が変わったものの、超音速で飛翔するホローポイント弾は特徴的な衝撃波を伴って銃身を飛び出した。反動で震えるスコープ越しに、目標の右胸への着弾を確認した。欠伸に両腕を上げたままの格好で、後ろへ倒れていく。鞭で地面を叩く様な音と相方の転倒に、煙草の男が呆気に取られる。既に冷めた空薬莢を薬室から弾き飛ばし、銃を持ち直して立ち上がらんとする男へ照準を定める。全てが機械的に為された。胸の中心を狙って射出された第二射は敵の鎖骨に命中し、胎児の如くぐにゃりと丸まった体勢で土へと倒れ込んだ。
息をつく間もなく、スコープから集中を解いて広域へ気を配る。発砲音に気付いた者はいないか。家屋で動きはないか。一番まずいのは、今いる林に実は警備が配置されていて、そいつらが音の主を捜索に来る事態だ。だが耳を澄ませても、鳥のざわめきと木々の囁きの他には窺えない。幸い、最悪の筋書きは避けられたらしい。それでも油断の余地はない。スコープを覗き、今しがた攻撃を加えた敵へ焦点を合わせる。ライフル弾をその身に喰らった男らは、最後に見たのと同じ姿で横たわっていた。大男らが指先ひとつ動かなくなったのを見届け、それからようやく胸の空気を排出した。一瞬とはいえヒトを辞めていた身から、粘ついた汗が滲む。門番は片付けた。だが、まだ障害は残っている。
作動停止音波発生装置を起動し、滑り止めの付いた軍手をはめ、かさばる狙撃銃を土手に放置して斜面を下りる。外壁までの数十メーターを駆け、梯子を伸縮棒で石塀へ引っ掛ける。ボストンバッグを肩に、軋む梯子に苦心しつつ塀の縁に乗り上げる。梯子を回収して慎重に地上に着地すると、敷地内は何事もなかった風に静まり返っていた。数分前と変化があったのは、玄関前に転がる死体だけだ。爆弾のバッグをその場に捨て置き、拳銃を抜いて死体へとにじり寄る。最初に撃った男の胸には大口径弾による風穴が空き、黒色のスーツにべっとりと染みが広がっていた。ブーツの踵で蹴っても反応がないので、もう片方の死体へ銃口を向ける。こちらも頸の辺りから血液を流したまま、しっかり絶命していた。手にしていたサブマシンガンは、どうやらUMPの九ミリモデルであったらしい。紛争地であれば持って帰れたかもしれないが、この銃は個人で名義登録されている可能性が高い。口惜しいが、本旨の為に物欲を殺した。それどころじゃないんだ。
死体ふたつをそのままに、ガレージを兼ねた離れへと歩みを進める。銃を両手で構えつつ、何処から敵が現れても殺せる様に、撃鉄は既に起こされている。太い筒が銃口から延びているせいで狙いが付け辛いが、これでやるしかない。低速の拳銃弾であれば、亜音速弾でなくとも銃声は抑え込める。離れに監視カメラやセンサーの類は見当たらない。一枚しかない白色のドア脇に張り付いて耳を澄ませると、どうやら内部で動きが窺える。窓から人数を確認したいのは山々だが、如何せんブラインドが邪魔をするだろう。首筋を伝う汗が、作業服に染み込む。こいつは賭けになりそうだ。
サプレッサーの固定を確かめ、左手で〈シュアファイア〉の大光量ライトを握る。遠方から一方的に仕掛ける狙撃よっか、ずっと神経に悪い。悪態を喉で押し止め、余剰な力を排気する。軍手の甲で額を拭い、そっとドアを小突いた。金属の一枚板が鈍い反響を寄越し、内側で硬い靴底が床を叩く。銃を握り直して耐え忍んでいると、ドア枠に生じた隙間から白光が夜気へ割り込む。
準備は整っていた。隙間が三十センチに達すると同時に室内へ突撃、入り口の人物を押し倒す。昔の様な小回りが利かない代わりに、有り余る力に物を言わせる。どうと組み敷いた相手を直視すると、自分より小さな中年の男だった。眼下の男は腹上の重石を除けようと抵抗するが、胸に三発の九ミリ弾を見舞うと、四肢を投げ出して絶命した。だが、こいつは厄介事を残して逝った。壁際のベッドで仮眠を取っていた警備ふたりが、今の騒動で目を覚ました。闖入者を認識した片方が、壁に立て掛けた小銃へ手を伸ばす。そうは問屋が卸さない。ライトの光芒をガイドに銃口を向け、腹と胸へ五発を叩き込む。取り落とされた小銃が、リノリウムの床を叩く。
――あと一人。残りの標的へ射線を巡らせるも、汚れたベッドに敵の姿はない。突如、下腹部に走る衝撃に足首がもつれ宙を舞う。背中を床へ打ち付け、狭まった視界に星が弾けた。マウントポジションを取った男の腕力は凄まじく、勢い右手から抜けた拳銃が床を滑る。ライトでこめかみを殴り付けても男はひるまず、汗ばんだ手が頸に巻き付いた。節くれ立った指が喉を潰し、脳への酸素供給が滞る。反利き手の殴打に依然と効果はなく、呼吸器の圧迫で威力が落ちた。――ふざけるな。英国最強が、聞いて呆れる。アボットの人でなしどころか、こんな雑兵連中に阻まれるなど、まかり通ってなるものか。
ライトを放って敵の髪を掴み、右の眼窩へ親指を突き入れる。どんな大男でも神経が生きている限り、眼球は絶対的な急所に他ならない。許容域を振り切った激痛に巨漢は仰け反り喘ぎ、拘束が弱まった。退路の断絶に脚を絡み付かせ、右手のいましめを振り解く。肉弾戦に持ち込まず、銃を持ち出せばよかったものを。腰のナイフを抜き、直上、敵の下腹部――肋骨の下、その奥にある横隔膜へ突き刺す。
通常、ナイフによる攻撃は出血こそ起こせど、致命的な破壊はもたらさない。だが、専門技術に精通した者が扱えば、相手の抵抗なくして死体をこさえる御業を実現する。肝臓や太い血管をあやまたず切り裂けば、対象は遠からず死に至る。では、横隔膜を一突きされたらどうなるか――。
ナイフをこじって切創を拡げつつ巨体を蹴り飛ばすと、先の攻勢は何処やら、物も言わず地へ墜ちた。開ききった白目は充血して天井を向き、いびつに開口した腹部から赤黒い血がだばあと零れる。確かめる必要もなく、死んでいた。人間は横隔膜を破壊されると、外傷性のショックで即死する。おまけに、この筋肉の麻痺は発声機能を奪う。文字通り、音もなく命を奪う訳だ。まさか、職務時間外で行使する羽目になるとは思わなかったが。
濃厚な血に濡れた刃を、死体の衣服で拭う。防腐処理の施された黒いブレードが、厭な輝きを帯びている。水分を払ったナイフをシース(鞘)に収め、拳銃を回収して耳をそばだてる。先程の揉み合いは、静かとはいかなかっただろう。最初に斃した男の脈を取りつつ、三分ほどじっと動静を見守った。殺害した五人で警備は全部か、隣の離れで眠っている奴隷が感付かないか。軽くなった弾倉を交換しつつ、瞬きもせずに息を潜めた。
やがて奇襲を悟られていないと確信すると、張った肩の力をようやく抜けた。頭皮からおびただしい量の焦燥が液体で現れ、喉が酷く渇いた。土気色に変じた死体を跨いで室内を検分し、壁際に設置された複数のモニターとデスクトップへ目を付ける。画素の乏しいモニターの一つに、両脇を山林に挟まれた正門が映っている。奴隷の離れを監視している映像もあった。あとのモニターには定期的に文字列が流れていたり、陰部がつるつるの男女がまぐわう〈XVIDEOS〉が表示されている。机の脇を見れば、黄ばんだティッシュがゴミ箱で山盛りになっている。死体の一つを振り返ってみれば、脱力した股間の辺りが濡れ始めていた。可哀想に、最後の相手が金髪美人ではなくSASとは。
モニターと筐体の電源プラグを引き抜き、警備システムを無力化する。それから筐体をこじ開けてハードディスクを抜き、バックパックへ突っ込んだ。ここまでやれば十分という声もあるだろうが、こちとら憤怒に狂っていた。ペットボトル焼夷弾を三つを、何もかも残さない位置取りで仕掛ける。返り血の付いた腕時計へ目を落とすと、三時を少し過ぎた辺りだった。時限発火装置をボトルに埋め込み、発火タイミングを二時間後にセットする。この建物はこれでお終いだ。
くそ重い身体で死体みっつを引きずって、母屋の玄関前に積む。地面に横たわる、五つの亡骸。苦戦はしたが、こいつらは単なる前座だ。眼前の母屋に、元来の暗殺目標がいる。大切なブリジットをくすねようとする野郎が、独りよがりな古城でふんぞり返っている。この数十分で、砂上の安寧はとうに崩れ去っているのに。血液が乾かない軍手をはめ直し、錆の浮かぶ雨どいに手を掛けた。
「さあて、お祈りの時間だ」
【29】
オーク製の掛け時計が、午前の三時を告げる。正方形の文字盤で秒針が飽く事なく働き、こつこつと瞬間を刻む。マーティン・アボット上院議員は性奴隷を収容施設へ返し、書斎で独りスコッチを飲み直していた。平生であれば、奴隷に二回ほど濁った欲望を吐き散らせば安眠に落ちる彼だが、この晩は違った。産み落ちて五十年を経た身でさえ形容し難い、定形を作らぬ不安が彼の襟首を掴んでいた。ダブル(六十ミリリットル)を軽く超えたスコッチを注ぎ足し、冷たい氷の緩衝が入る前に喉へ流し込む。老いた粘膜に過ぎた熱と刺激が、咳の形で返ってくる。――馬鹿な、何を怖れている。アボットは口許をバスローブの袖で拭い、生え際の後退しかけた頭を抱えた。この掴みどころのない焦燥は何か。方々のコネクションを駆使し、障害を完膚なく捻じ伏せてきた上院議員の自分に、恐るるものなどありはしない。書斎机に散った唾液もそのままに、アボットは癇癪に打ち震えた。
間接照明の薄明でも見て取れる程に、アボットは赤面していた。が、アルコールで満ちた胃は尚も凍えていた。強迫神経症患者もかくやと手がふやけ、瞬きが止まらない。胸の至る箇所で痒みが暴れ、起毛のルームシューズが熱帯雨林と化した。気配を感じる。長年を人の世で生きたアボットには、ある種の確信があった。物事の転機、その兆しを察してきたからこそ、手練手管で現ポストに上り詰めた。そんな大御所が目下、霞の如き存在に怯えていた。
何かがいる。アボットに分かるのはそれだけであった。スコッチをラッパ飲みで喉に叩き込み、机の抽斗から銀色に輝くリボルバーを探り当てる。〈スミス&ウェッソン〉のM66。信頼性は抜群の一品だが、貴族様はこれをまともに撃ったためしがない。同じ場所に仕舞い込んでいた弾薬を――安全上の理由から御法度である――何度も取り落としながら装弾した。金属同士をがちがちぶつけつつ、ようやくでアボットは六発の弾薬を装填し、おぼつかない手付きでシリンダー(回転弾倉)をフレームに押し戻した。撃鉄を指で起こす音を聴くと、上院議員は幾らか気の休まる心地を味わった。
気配は頭上。否、今となっては家中を練り歩いていた。自身も音を立てない様にと摺り足を繰り出すも、素人の酔っ払いが出来る業ではない。余計に乾いた摩擦が喘ぎ、その音に竦み上がる。そうこうしていると、不穏な気配が邸宅全体を包囲してゆく。――あの傭兵共は?アボットはカーテンを僅かにずらし、真下の玄関を窺った。荒くれ者の姿はなかった。二人が同時に小便へ行く筈はない。机に向き直って警備詰め所へ内線を飛ばすも、空虚なコールばかりで誰も出ない。怒気も露に受話器を机に叩き付け、今度は〈ブラックベリー〉の携帯電話へと手を伸ばす。政界のブラックボックスたる自宅に警察を迎えるのは癪だが、この期に及んで贅沢も言っていられない。わななく指で九を三回押すだけの操作を何度も失敗し、やっとで端末を耳に押し当てる。――繋がらない。充電は足りている、だが繋がらないのだ。まるで、飛ばした電波が丸ごと死霊に食らわれる様に。無機質に明るい液晶表示が、その答を教えてくれる。そう、圏外だから。スピーカーからは、発信場所の変更を推奨する音声ガイダンスが無機質に流れるのみであった。
アボットの濡れた手から、携帯電話が取り落とされる。自分の両脇を固めていた厳つい番犬が、ここへは来てくれない。脂肪に覆われた顔面を崩壊させて動転しながらも、奴隷の収容施設へ内線を飛ばそうと、床に落ちたままの受話器を取り上げる。今度こそ、今度こそ通じる筈だ……。血の気の失われた指先が、樹脂のキーパッドに触れた。
時を同じく、書斎の証明がふっと落ちた。意図せぬ事態に、アボットは受話器を放り出して尻餅をついた。僅かな光源の中で、リボルバーの銀色だけが生気なく存在を主張していた。数秒前まで机に鎮座していた固定電話は、持ち主の動転で何処かへ飛んでいった。矢継ぎ早に襲い来る異変と精神の圧迫に理解が及ばず、アボットは寂しい髪を掻き乱し、床を這って固定電話を手探りした。バスローブの紐が乱れるのも構わず必死で受話器を探り当て、カールコードを辿って本体のキーを叩く。だが、操作を終える前に彼は異常を察知した。いつも秘書や同業者が五月蝿い受話器が、今や何の音も発していない。――通電していない。心臓が暴れ、アボットは口から腸が飛び出るストレスを感じた。
打ちのめされた上院議員の脳味噌でも、ブレーカーの落下へ理解が及ぶ余地はあった。当のブレーカーボックスは、一階キッチンの壁に設置されている。だが、そこへ辿り着くには孤高の優越が瓦解した書斎を出て、数ある部屋が枝分かれする廊下を経て軋む階段を下り、バスルームの脇を抜ける必要があった。それも、自己に敵意を向ける者がいる中で。
常識的に考えれば、アボットは書斎で銃を抱いてうずくまっているのが最も安全である。骨の一本を犠牲にする肝があれば、窓から飛び降りるのも不可能ではない。第一、ブレーカーを復活させれば光は戻ってくるが、根本の脅威は去らないのだ。が、こんな緊急を要する事態に対処出来る人材は、腐敗の跋扈する政界にそう籍を置いている訳もない。ぬめる手で銃を身に引き付け、アボットは御身を守るドアを開いた。
及び腰に木製のドアを抜けると、月明かりなき廊下が粘ついた闇を広げていた。壁の化粧板を手探りに階段へと歩みを進め、前後に絶えず銃口を向ける。衆目があれば、間違いなく気が触れていると判を押される光景である。一歩を踏み出す毎に、カーペットの毛足が囁く。顎を伝う液体が異臭を放ち、遠近感の掴めない視界は正誤を狂わせる。害敵の気配は一層強まり、周囲三六〇度から監視のプレッシャーが心を蝕む。壁を濡らしつつ階段の一段目を踏み、闇の奥深くまで沈んでゆく。冷たい殺気は尚も付きまとうが、直接に危害を及ぼす知らせはない。リクガメの歩度で階段の終点を踏み、キッチンに繋がる廊下へ向く。採光窓から差し込む青白い光が、カーペットの幾何学模様を不気味に演出していた。
ここでアボットは失態を犯す。汗でぬめる右手から、銃を取り落としたのだ。一キロを超える質量が、ごとりと大層な物音を立てる。自ら位置を晒した議員はその場でうずくまり、頭を抱えて神の名を連呼した。矮小な姿を晒して死を否定する言葉を連ねるも、一分経って何者も接近もないので、呼気荒く銃を手探りした。薄明を反射する銃身を見付けると、再びキッチンへ向けて踵を擦った。
厭世家アボットは広大な自宅を呪った。全身の水分を五割も失ったのではないかという発汗の果てに、彼はキッチンへと到達した。意味もなくだだっ広い調理部屋を、銃を前に歩を進める。てんでなっていないフォームで、突き当たりの壁に設置されたブレーカーボックスへの、最後の道程を踏みなぞる。目標を前に余裕が生じたアボットは、数メーターを辿る最中に思案を巡らせた。一体、何処の誰が何の目的に自分を脅かしているのか。確かに、職務において他者を破滅に追い込んだ前例は、両の指を以てしても計れない。であるが、それらは彼に言わせれば些事の域を逸さない。過去に踏み越えた者に、警備付きの邸宅へ突撃を敢行する度胸があるとは考え難かったのだ。何より彼の精神を平安に導いたのは、独力で目標地点に至った快挙であった。子供の遣いで勝ち誇った笑みを浮かべた。
奴隷の働きに毒づきつつ、アボットは埃を被ったメインの配電スイッチを押し上げる。途端、家の方々で電子機器が動作を再開し、人家が息を吹き返す。初めから何事もなかったのだ。書斎で抱いた懸念は単なる悪寒で、体調不良からもたらされるものであった。齢は実に五一、人生の折り返しを過ぎたアボットは、キッチンの明かりを点けた。ほうら、やっぱり何もなかったじゃないか――。
「やあ」
不意に発せられた男声に、アボットは振り返る。再来した恐怖にぎらつく銃口を向けるも、その手からリボルバーが弾き飛ばされる。議員の身が、壁に押し付けられる。アボットは物音なく現れた脅威に抵抗を示すも、哀れ後頭部を殴打されて崩れ落ちた。薄れゆく意識の中、重力に引かれる視界に青い衣服を収めたのを最後に、マーティン・アボットは絶入した。
【30】
卑小な政治家の目覚めは、冷たく尖った感触で始まった。無理矢理に覚醒させられるや、アボットは正面に立つ男を視界に捉える。清掃作業員らしき上下とキャップ、気絶する寸前に見た青い生地。そして、大きな傷跡の走る顔。アボットは侵入者の氏名と生年月日に止まらず、所属組織や家族形態、あまつさえその者の所有する奴隷の出生についても知り得ていた。男の名は、ヒルバート・クラプトン。現役で陸軍特殊部隊に籍を置く、生粋の兵士であった。
「おはよう、議員先生。氷水のモーニングコールは如何でした?」
ヒルバートは手にした樹脂バケツを脇へと放り、冷笑を浮かべる。――どうなっている。アボットは歯をうち震わせた。そこは、彼が停電までスコッチを煽っていた書斎であった。書斎机は部屋の隅へと寄せられ、アボットは部屋の中央に置かれた椅子に、麻縄で拘束されていた。
「私をどうするつもりかね」
気丈に振る舞ってみせるも、アボットの黒目は震度七で飛び回っていた。
「どうするかは、御自身が一番お分かりではなくって?なあ、アボットさん」
藪から棒に、アボットの頬へ軍手の打擲が飛ぶ。鈍い殴打が脂肪を揺らし、切れた唇から悲痛な呻きが零れた。
「初々しい反応だ。だがまあ、豚の面を殴ったって面白くないな」
「一体どうやって入ってきた……。警備は……!」
顎に鮮血を伝わせるアボットへ鼻息を漏らし、ヒルバートはにべもなく書斎の一角を顎で指す。その先へと視線をなぞり、アボットは薄闇に目を凝らす。暗がりに沈んだそれの全貌を理解するや、議員は自分の股間へ胃液を嘔吐した。部屋の隅に、警備員だった骸が乱雑に積まれていた。その何れもが腹を無残に引き裂かれ、ねじくれた腸を床に零している。
「おいおい、ひでえな。こちとら、こいつらの体内で砕けた弾の摘出に必死だったんだぜ。他人の努力は表面上だけでも労って貰いたいね」
ヒルバートは解体に用いたナイフと手斧を指先で弄び、口を尖らせる。作業着の袖に黒ずんだ染みがこびり付き、作業の非人道性を物語っていた。彼のはめるピンクのゴム手袋にも、乾いた脂肪が斑点となって残っている。
せり上がる消化液を吐き散らすアボットの頭髪を鷲掴み、ヒルバートはナイフを頬に押し付けた。
「何が望みだ……。私を殺したところで、貴様には何の利得もない……」
「無駄口を利くなよ。お前なんかと一緒の部屋にいるだけで、肺が腐りそうなんだ。さっさと済ませようじゃないか」
頬に生じた小さな切り傷に、アボットは目尻を痙攣させた。
「ようし、それじゃあ手始めに金庫の暗証番号をゲロって貰いましょうかねえ」
ヒルバートはナイフを頬から離し、切っ先で壁際に鎮座する黒塗りの金庫を指した。扉にテンキーが埋め込まれ、如何にも大金が詰まっていそうな風体である。爆弾で鍵を壊すには、眠っている街ひとつを叩き起こす必要があった。
「こんな脅しで、私が屈するとでも思っているのか」
腐臭を放ちながらも憮然と振る舞うアボットの右目に、鋭い拳が突き刺さった。兵器と称するに相応しい正拳で、豪奢な椅子ごとアボットの身が宙を舞う。大打撃で内出血した左手を庇いつつ、ヒルバートは見当識障害に呻く仰向けの捕虜を見下ろした。
「今の台詞、映画みたいだったよ」
ポリバケツの水にタオルを浸し、清掃員は酸欠の魚の様相を示すアボットの顔面を覆う。本能的に危険を察したアボットが何か喚くが、弛んだ皮膚に麻縄が噛み付くだけであった。バケツを抱えたヒルバートが、肥えた腹部を踏み付ける。
「第一ラウンドだ」
酷薄な呟きの直後に、バケツが傾けられる。落水の勢いは大したものではない。が、水が布越しにアボットの口に触れるが早いか、おぞましい咆哮が書斎を満たす。アボットと一体化した椅子が床を叩き、タオルを地に落とそうと躍起になる。議員が一瞬で正気を投げ出したこの行為、その名を水板責め(ウォーター・ボーディング)という。殴る蹴るといった直接的な暴行ではないが、精神への負担は桁違いだ。対象は視界を遮られた環境下、絶えず浴びせられる水に溺死する未来を脳に叩き込まれ、呼吸もままならずに失神する。意識を失えば無理くり覚醒させられ、間髪入れず人間性を水底に沈められる。『9.11』の後、アルカイダ幹部の所在を求めてアメリカが多用した訊問だが、温室育ちの世論からバッシングを受けた手法である。その外法が、丸腰の文民に施されていた。
水流を顔面に受けるアボットの手が、爪まで真っ赤に染まる。脚まで椅子に緊縛されている所為で、身をよじる事さえ叶わない。水の四割を浴びると椅子を起こされ、ぴったり貼り付いたタオルを引き剥がされる。
「どんな気分だ?」
片目を腫らしたアボットが、顔の穴全てから水を垂れ流して毒づく。
「……法廷で罰してやる、ただで済むと思うなよ」
「そうかい!」
ふくよかな胸部を足裏で蹴り飛ばされ、アボットはまたも天井を仰ぎ見た。潰れた鼻がずぶ濡れのタオルと再会し、合図もなしにバケツの残りが注がれる。ごぼごぼとタオルが泡立ち、口と鼻がくっきりと浮き出る。バケツが空になるまで、実に六リッター以上の水を被って、アボットは髪を引き千切られながら身を起こされる。
「お望みとあらば、次は一杯丸ごとぶっ掛けてやる」
ヒルバートは控えのポリバケツを、更に二つ用意していた。しかも一方にはマットプレイ用のローションが混ぜられ、呼吸器を殺す粘性で濁っている。顔のタオルを剥がすと気付けに頬を一発張り、ヒルバートは片手でアボットの頬を挟み込んだ。
「どうだ、少しはお口が軽くなったかな?」
「分かった、言う!もう水は嫌だ!」
訊問官が次のバケツを抱えたのを見ると、アボットは涙を流して懇願した。
「金庫の番号だな!言う、言うからもう止めてくれ!」
ヒルバートがバケツを床に下ろすと、アボットは気管に侵入した水分をむせ吐き、しわがれた嗚咽を発した。金庫の鍵を伝えると、アボットはぐったりとうな垂れた。
「その六桁で金庫は開く。もう勘弁してくれ……」
殺人清掃員は顎に手をやって逡巡し、椅子の周囲を巡り始めた。屍肉類が獲物の絶命を待つ様に、ゆうっくりと議員の様子を窺う。焦れったく一周して正面に戻り、指で頭を掻くと、肩をすくめて嘆きの吐息を漏らす。やにわにナイフを握ると、事前動作もなしにアボットの首を掴み上げた。
「何をする!番号は言った、乱暴は止せ!」
「眼がね、泳いでるんだよ」
まだ抵抗の残る訴えに聞く耳持たず、ヒルバートはアボットの左の耳を切り落とした。血管がずさんに断ち切られ、目を背けたくなる深紅が深緑色のカーペットに滴る。薄闇を狂気の叫びが跳ね回り、息をつく間に地獄絵図が繰り広げられた。持ち主を失った耳を床に放り、ヒルバートはアボットの胸ぐらを掴んで唾が飛ぶ距離まで詰め寄る。
「出任せこいてるんじゃねえぞくそ野郎!あの御大層な金庫は特注品で、見当違いな数字を入れると通報が行く特別仕様だ!てめえのちゃちな脳味噌で思い付く悪知恵なんざ把握し切ってる!もう片っぽの耳が惜しけりゃ、大人しく番号を答えろ!それとも部下みたいに臓器をもぎ取るか!」
どくどくと流血する耳を庇う事も出来ず、アボットは涎と鼻水を垂らしてすすり泣く。
「やれ反骨精神剥き出しだ、番号は言わねえ、水は止めてくれだの……お耳とさよならすりゃあ、今度は赤んぼみたいに喚きやがる。お次は何が宜しくて?」
「言う、言うよ!頼むからこれ以上乱暴しないでくれ……!」
すっかり文明人らしさを欠いたアボットの嘆願に露ほども同情を見せず、ヒルバートは人質の眼球へナイフの切っ先を差し向けた。
「端っからお利口にしていれば、大切なお耳ともずっといられたんだ」
彼の本気を感受したアボットは、心の奥底に秘めていた宝物庫を明け渡した。
「……成る程。今度のは本当らしい」
ヒルバートが鼻を鳴らし、金庫の前に膝を折る。そして手に入れた番号を入力すると、電子音の後に鉄扉の奥でかんぬきが外れた。分厚い扉の向こうには十万ポンドを凌駕する現金の束と、土地の権利書や政界の暗部が記された書物群が収められていた。彼は機密文書には目もくれず、現金だけ取って金庫を離れた。アボットの目の前でボストンバッグに札束を仕舞うと、書斎机の〈ダンヒル〉の葉巻をアボットに咥えさせる。先端を切り落として火を点けてやると、苦痛にもだえるアボットの表情が幾ばくか和らぐ。飴を与えた殺人者は、銃を手に語を発した。
「さて、次の質問といこうか。『あの子』とあんたの関係を知る人間は、この世界にどれだけいる?」
「私と君だけだ、他には誰もいない……」」
大股に距離を詰め、ヒルバートはアボットの喉に冷たいサプレッサーを押し付ける。
「嘘が御身の為にならないのは教えた筈だ。本当の事を言え」
「誓って本当だ!嘘じゃない!」
「お前ひとりで調べ物が出来る訳ないだろう。探偵か?それともお抱えの駒かな?」
幼子が否定の意志を表す様に、アボットは首をぶんぶん振った。
「確かに部下に命じて君達を調べさせた!だが、それだけだ!私とあの娘の相関は誰も知らない!信じてくれ!」
それを聞くなり、ヒルバートは破顔した。
「そうか、安心したよ!」
闇に歯を輝かせて、銃をアボットの額へ突き付ける。
「何を……?」
自分の伝え得る情報を残らず手放したアボットには、彼の行動に至った論理が読めなかった。
「あの世があるなら、数日前に殺した奴隷に詫びるんだな」
「待て、金は渡したじゃないか……。どうして……!」
未だ状況が掴めない愚者に、特殊部隊の男は声高に噴き出した。
「どうして?あんた、それでよく議員様になれたな!決まってるじゃないか。俺の女に手を出したからだよ!」
勘の悪い男の額をサプレッサーで小突き、裏社会の英国紳士は語を継いだ。
「俺は隊の中じゃあ、かなり甘い方だ。訓練で失敗しても無闇に責めないし、後続の連中を可愛く思ってる。その分、敵に対しての引き鉄は特別に軽い。お前みたいな屑野郎が相手なら、ことさらにな」
「待ってくれ、金なら幾らでも出す!今日の事も不問にしよう!警察には強盗が侵入したと言っておく!だから……!」
正しく映画じみた命乞いに、アボットより余程悪役然とした男の口角が歪む。
「だから何だ?警備を殺した、不法侵入を見られた、顔を見られた、銃を見られた、血を見せた……。ここまで来て、思い止まる理由があるか?そもそも、あんたが悪いんだぜ?ちょっと金を包んで示談に持ち込めば、万事すんなり済んだのにさ」
「嫌だ……欲しい物があるなら何でもやる……!命だけは……死ぬのは嫌だ……!」
体裁も外面もなかった。アボットは見苦しく暴れ、地団太を踏む事さえ出来ずに椅子ごと倒れた。芋虫の様に地も這えず、自尊もかなぐり捨てて自らの存命を望んだ。
「考え直してくれ!そうだ、奴隷だ!好きなのを連れていっていい、何なら新しい性奴隷の購入金を出してもいい!それに、私を殺してどうする?死体が見付かれば、君とて無事では済まないぞ!早まるんじゃない!」
「残念ながら、我が家のお家芸は『殺し』なんでね。ご高説はあの子を狙った過去の自分にのたまうんだな。あんたを守る下らない法の楯は、この場に存在しない。俺が怖れるのは、あの子を失う事だけだ。もっとも、そうはさせないがね。……そろそろお喋りも過ぎる。五十年間楽しんだんだ、幕引きくらいは往生際良くしたらどうだい」
呆れた語調を伴い、ヒルバートはアボットの傍らに屈み込む。その間も尚、銃口は額へ向けられたままであった。
「お願いだ、何でもする……。頼むから命だけは……」
半ばうわ言で呟く上院議員に、最後のねんごろな言葉が掛けられる。
「惜しいなあ、こちとら神父じゃないんだ。あんたにやれる手向けは、これだけさ。しかしまあ、全く――」
幾度となく人命を奪った指が、引き鉄に掛けられる。災厄の根源に照準を重ねる彼の表情に、自嘲めいた色が浮かんでいた。
「マーティンって名前には、ろくなのがいないな――」
くぐもった破裂が一つ転がり、そして何も聞こえなくなった。
【エピローグ】
窓の外を木枯らしが吹き抜け、厚手のコートを纏う通行人が我が身を抱いて歩く。三十路を迎えて初めての十月。休日の午後を何処かへ出掛けもせず、自宅で尻の形に馴染んだソファへ腰を沈めていた。手にした推理小説は既に佳境の真っ只中で、残り十数ページで奥付に達してしまう。このペースだと、あと十分ほどで読み終えるだろう。
あの日、マーティン・アボットを殺害してから、ひと月の時が流れた。事件は炎上する邸宅に気付いた奴隷の通報で発覚し、即座に警察と消防が現地に出動した。しかし途方もなく回りの速い火の手に彼らは為す術なく、アボットの古城は石の基礎を残して全焼した。炎が仕事を終えた後で調査が入ると、母屋の中から男性と見られる遺体が六つ、殆ど炭化した状態で見付かった。その内の一つは歯の治療痕からマーティン・アボット本人と結論付けられ、数日前に密葬が行われたという。
上院議員の死はその日の内に各社新聞の第一面を飾り、首都をそれなりに震撼させた。恐怖に拍車を掛けたのは、焼け残った金庫から発見された一枚のポラロイドで、それには額を銃で撃ち抜かれ、腹部を八つ裂きに背骨が覗いたアボットの変わり果てた姿が写っていたという。いやはや、何とも肝の冷える話だ。しかも、彼の頭蓋骨は顎を残して砕かれ、弾丸は見付からないとか。いやあ、誰が犯人かは知った事ではないが、プロの仕業に違いない。
これ程に狂気を孕んだこの一件だが、警察が大挙して犯人捜しに駆け回るといった事態にはならず、極めて小規模な調査本部が設けられるのみに留められた。というのも、件の金庫からは元から入っていた現金や書類、きちがいポラロイドと一緒に、「復讐は完了した」と印刷された紙が入っていたからであった。金庫の内に大金が残されていた事からも、金目当ての犯行とは思われなかったのだろう。先に起こった奴隷の惨殺事件も相まって、本件は同一人物による犯行と断定された。狂乱に満ちた状況から、現場のPC全てからハードディスクが抜き取られていた事実も軽視された様子だ。第一、あの男に恨みがある容疑者を募ったらきりがない!
そして、人々は非情であった。何せ被害者は『あの』アボット様だ。市井から同情を誘う事はなく、政界でも喜びの声が上がったというくらいだから、その嫌われ様は推して知るべしである。死後も彼の後釜を巡る論争が起こり、本人の死を悼む者はいなかったとかであるから、ここまでくると笑えてくる。我々の住むヘリフォードでも、当日こそ街の女の噂はアボットの死で持ち切りであったが、翌日には連隊のピーターが性病を貰ったというものにすげ変わっていた。そう、この国の何処にも、アボットを愛していた人間はいなかったのだ。
著者の強引と妄想に満ちた密室の解明で締められた小説を閉じると同時、目の前へ紅茶のカップと形の良いマドレーヌが配される。
「そろそろ、小腹がお空きになるかと思いまして」
声の方には考えるまでもなく、俺が自分の意思で守り抜いたメイドさんが控えている。小説を脇へよけて礼を述べると、実に快い笑みを返してくれた。
アボット暗殺の直後、何処の誰とも知れない金持ちが小遣いをくれたお蔭で、俺はブリジットの購入金を一挙に支払えた。当の彼女はその事実を知る由もないが、主人の機嫌が芳しいので、何かあったという事は知り得ている様だ。彼女は隣に腰掛けると、硬い肩に小さな頭を預けてくる。ふわり、と柔らかな少女の香りが立ち上る。
「夕飯は何に致しますか?」
「そうねえ……米が余っているなら、カレーが食いたい」
「はい、かしこまりました」
恋人は屈託なく微笑むと、俺の手に自分の指を絡めてきた。失いたくなかった温もりが、まだここにある。
確かに、一般からかけ離れた部分は多い。現状の獲得に犯した過去の罪業は、これからの人生全てを費やしても贖えないだろう。それでも、ブリジットは俺を赦してくれた。そろそろ人生を謳歌すべき時だ。紅茶に映る緩み切った間抜け面を眼下に、それをすんなりと受け入れられた。俺はもう、孤独じゃない。




