冷血老人【14】
【27】
決意を固めた翌日、俺は勤務の後で基地の武器庫に立ち寄った。現状で時間外の射撃などと、お遊びにかまけている余裕はない。余裕のない身でこのおどろおどろしい施設を訪れたのは、表沙汰に出来ない別の目的がある。
「やあジム、基地外へ持ち出したい装備があるんだけど」
武器庫の受付で雑多な書類を整理している火器管理係――連隊の人間ではなく、陸軍から期限付きで派遣されている――へ、にこやかに語り掛ける。神経の擦り減った素振りを覗かせてはならない。連隊の外部の人間が相手なら尚更だ。ペンの尻を噛む管理係がけだるげに首をもたげ、にべもなく火器の借用に関する記入用紙を寄越した。我々は通常部隊より遙かに秘匿性の高い情報を扱うから、彼らは過度に連隊の人間と睦まじくならない様に達しを受けている。淡泊な記入用紙の要項――必要品目・借用理由・拝借期間等を書き込み、氏名と認識番号を確認して管理係へ提出する。頭をスキンヘッドに丸めた彼は無言で用紙を検分していたが、にわかに薄い眉をひそめて訝しげな視線を差し向けてきた。
「熱探知スコープ、九ミリと三〇八口径のサプレッサー……それにPVS-14も?おい、夜盗でもやらかす気か。しかもこの装置は……」
警戒を通り越して焦燥を露わにする管理係は、語を最後まで結ばずに口許を覆う。連隊の職務への不干渉を命じられているとはいえ、個人が借り出すには不審な品目群に警鐘を黙らせてはいられなかったらしい。一般市民はサプレッサー(減音器)の所持を認められていないし、PVS-14はアメリカ製のNVG(暗視ゴーグル)だ。我々は特別に輸出を受けているが、本来なら外界への流出は禁忌である。おまけに、品目には更に犯罪じみた装備が書き加えられていた。余程の間抜けでない限り、疑念を抱かない方がおかしい。無論、これに対策を講じないクラプトンの血筋ではない。
「問題です、これは何?」
足下の紙袋から、小型の砲弾ほどの紙筒を受付のカウンターに乗せる。褐色の光沢を放つ円筒に、ジムの双眸が釘付けになった。アイリッシュ・ウィスキー、〈ジェイムスン〉の十二年だ。
「申請を受理してくれるね?」
ジムの表情から、葛藤が手に取って窺えた。軍人としての責務と自らの欲望とが、瞳の中で殴り合っている。結果、彼は人間として正しい選択を為した。
「……幾ら何でも、こいつを貸し出すのはまずい。こいつはシュレッダーに掛けるから、新しく書き直してくれ。こいつを除いてな」
指で危険極まりない装置の項を叩き、ジムは荷の用意に姿を消した。やはり頭というやつは、頭突きだけに用いるのには勿体ない。数分後にカウンター上へ並べられた装備には、先のリストから除かれた件の装置も含まれていた。
「ご協力に感謝するよ、軍曹」
心苦しげな面持ちを引っ提げるジムであったが、差し出されたウィスキーへは躊躇いなく手を伸ばした。
「分かってるだろうな、少尉。俺はここで一つでもとちったら、下士官の立場どころか即軍法会議ものなんだぞ……」
お前はさんはそれを秤に掛けて、結果ウィスキーを選択した。全く、人間というのは面白い。
武器庫で受け取った荷物を愛車へ積み、親父宅でブリジットを拾って帰ると、作業部屋でノートを前に知の格闘を開始した。マーティン・アボットは自身の要求を曲げる気は元より、こちらからの逆交渉に応じる可能性も皆無だろう。だとすれば、拒絶を前提とした俺の取り得る選択肢は少ない。第一には、やつを政界から追放しての無力化が挙げられる。が、こいつは事実上不可能だ。一つ二つ汚職の証拠をメディアへ送ったところで大した害にならないし、それを掻き集める時間も残されていない。仮にやつの名に打撃を及ぼせたとしても、効果が出るには時間差があり過ぎる。失脚を味わう前に、やつはブリジットを毒牙に掛ける。ウィルスで細胞が崩壊するのを待つのでは遅い。
可及的迅速に、かつ独力で実現可能な行動は、一つだけだ。平和ボケした常人であれば、否定するであろう究極の手管。ロシアやイスラエル、時として我らが大英帝国が好んで行使する、最も効率高い非道徳的制裁。それこそが他ならぬ、暗殺だ。いい歳こいて聞き分けのない、力ある馬鹿へは身体に教え込むしかない。
何かの拍子にブリジットが記憶を取り戻したり、何者かが彼女の出生の真相を告げたところで、あの娘がアボットの人生を潰そうなどと無意味を起こす子ではない。その点は、俺がよく分かっている。それをあの野郎は、わざわざ彼女の男に喧嘩を売ったのだ。黙ってちょっとした金をエプロンのポケットへ捻じ込んでやれば「お小遣いが増えましたね」で済んだ話を、あいつは最悪の形で自らの退路を絶った。誰がやつを赦そうと、あの子の旦那が逃がしはしない。
と、勢い啖呵を切ったはいいが、本暗殺案は見過ごせぬ障害を内包している。通常、我々が敵拠点を攻撃する際には、事前に入念な偵察を行う。敵の規模や施設構造を確認せずに見切り発車した突入は十中八九、部隊史の汚点となる。ところがどっこい、そいつをやろうというのだから、我ながらきちがいじみている。映画かぶれの痴れ者ならともかく、現実を知る特殊部隊員としては落第点も避けられない。
幸い、アボットは現在も自宅を寝床に使っているとの報せが入っている。それが本人である確証もないが、であれば本物の居場所を吐かせるまでだ。嬉しい事に、あのでぶは政界のみならず民間にも敵が多いので、首都郊外の住所が方々へばら撒かれている。標的の座標は、端から割れていた。
巨大なナイロンバッグに〈アキュラシー・インターナショナル〉の七・六二ミリ狙撃銃を収め、基地より授かった物騒な機器や、必要になる衣服を車へ積み込む。その後、〈グーグル・アース〉で目標近辺の地形情報を収集し、数枚の地図を印刷した。古い石造りのアボット邸は周辺を山林に囲まれており、出入り口は鉄格子の正門のみだ。無論、そこまで俺も馬鹿ではないし、軟弱な職場にも籍を置いていない。印刷した地図で山の縁――麓を捜し当てると、邸宅から一キロも離れない地点に、人気なげな箇所を確認した。念を入れて第二・第三の候補も絞ったが、最初の地点が最も侵入に適していた。
チョコレートバーで脳の糖分を補給しつつ、暗号めいた文字の羅列されたノートへとペンを放る。これから取り掛かるのは、事が済んだ後の仕上げの準備だ。革手袋をはめ、地下室から空のペットボトルを十本ほど物色し、作業台へぶちまける。
「まさか、またこいつに頼るとはな……」
工具箱からニッパーと導線を引き出し、ペットボトルのキャップに繋ぐ。ガレージからガソリンのポリタンクを運び、漏斗で慎重にペットボトルへと移す。脱衣所から固形石鹸を幾つか拝借し、ナイフで薄く削ってガソリンに沈める……。アボットさん、あんたは知らないだろう。爆弾ってやつは、吹き飛ばすだけが能じゃない。ボトルのキャップを締め、玩具めいた小さな機械を括り付けると、樹脂の歪んだ曲面におぞましい笑みが映り込んでいた。――このツケは高くつくぞ。
意識が、深く沈み込んでいた。身体が、酷く冷たい。ぼやけた遠景を眺める様に、過去の追憶が焼けたフィルムを回す。北での親父との接触、母子への過ち、爆弾作りの日々、ロビーの小間使いとしての暮らし……。コマ送りの走馬灯が、逆行して呼び起こされる。灰色の記憶に、特別な感動は覚えなかった。味気なく、生の充足を得られないままに過ぎた年月。その始点である地下室に場面が移った途端、解像度の低い画面が乱れた。白色のノイズが縦横を走り、薄暗い地下室が塗り潰されてゆく。何事もなく現実世界に意識が戻ると予期していた矢先、そいつは予期された世界を割いてフェードインした。
そこかしこが暗い灰色で埋め尽くされた部屋。そこで幼児学級にも通わぬ背丈の子供らが、腕を後ろに拘束されて転げられている。天井の隅に、赤いランプを灯す監視カメラが吊られている。異様な光景だが、吐き気を催す現実味が横たわっていた。窓一つと存在しない精神病棟じみた室内に、一枚だけ存在する鋼鉄のドアが軋みを上げる。踏み込んできた足は艶の乗った黒革に包まれ、並みならぬ仕上げの黒い布地に覆われている。革靴の男が部屋に進入するや、子供らの失意に満ちた眼が、束の間の生を取り戻す。弾かれた様に各々が部屋の隅へ芋虫よろしく這って逃げ、数人は他を踏み台に丸まって、壁に団子を成した。子供らを狂気に陥れた男の顔は、薄明かりの所為か、黒い靄に遮られて窺えない。まるで、メディアに掲載された特殊部隊みたいだ。そいつの腕を辿っていくと、暗所でも鈍く輝く一筋の光が右手に収まっていた。一見してそれと分かる、ナイフであった。直感が囁いている――早く起きなきゃ駄目だ。男の影が視界を満たす割合が大きくなる。冗談じゃない、止めてくれ。スーツの男が、目と鼻の先に屈み込んだ。くそったれ、いかれたサイコ野郎が!仮想現実にもかかわらず、息が苦しくなる。鋭利な刃が近付く。少しだけ刃こぼれを起こしているのが見て取れる。背筋が、感覚を失う。
嫌だ。こんなのは人の扱いではない。排気ガスめいた靄で表情こそ見えないが、スーツの男は確かにほくそ笑んでいた。弱者は淘汰される。頭の隅の何処かで誰かが説いたのと時を同じく、冷たい刃の先端が頬の皮膚を突き破る。その場に似つかわしくない声が響いたのも、それとほぼ同時であった。
残酷な金属とは別の、乾いた感触が頬を滑る。重力の方を見やれば、覚醒時に相手取っていたノートが揉みくちゃになっている。自分でも驚愕の間抜け声を吐いて上半身を起こすと、黒のメイド服を纏うブリジットが不審を隠せずに控えていた。どうやら、護衛対象に救われたらしい。
「また、うなされていました」
「らしいな」
強張った筋肉を解しつつ、周囲へ視線を巡らした。物騒なペットボトルは既にボストンバッグに収められ、ノートの計画も乱れて解読不能に相成っている。いつの間に睡魔の奇襲を許したかは判断付かぬが、昔から小狡いところは変わっちゃいない。ともあれ、恋人に己の好んで晒したくない部分は見せずに済んだ。熱っぽい額を押さえてペンを持ち直し、皺だらけのページを破り捨てる。どうせメモ書き程度であるし、邸宅への攻撃案は既に脳内で構築済みだ。あとは焼いてしまえば、証拠は残らない。ペンの尻をノックして再び見取り図の予想に定規を滑らせる俺の手に、ブリジットのそれが待ったを掛ける。
「余り根詰めてはいけません。疲れがお顔に出ています」
「いや、しかしだな……」
ブリジットの人差し指が、ぴっと俺の口にあてがわれる。
「駄目です。もしお仕事が残っているなら、少しお休みになってから。ね?」
そうして脂にまみれた頭髪を、彼女は撫ぜる。全く、大馬鹿野郎だ。彼女の障害を取り除くべき俺が要らぬ気を遣わせているのでは、滑稽過ぎて目も当てられない。
「ところでヒルバート様、今晩は何処かへお出掛けで?」
唐突な鎌掛けに、心臓が握り潰される。驚嘆の面持ちで見返すと、ブリジットは口許に手の甲を置いてくっくと喉を鳴らす。
「だって、そういうお顔でしたもの。今日はお帰りにならないと考えて宜しいですね?」
度肝を抜く洞察に、俺は正真の阿呆面を晒して首肯するのみであった。一瞬、微笑を浮かべる彼女の背中に、黒く妖しいビロードの双翼が見えた気がした。
夕食を摂った後でシャワーを浴び、鏡の中の自分を相手取ってブリーフィングを開いた。やる事は決まっている。マーティン・アボットの牙城を密かに襲撃し、家主を殺す。字にしてみれば極めて簡単だ。だが、もし失敗したら?連隊の支援はなく、緊急時の逃走ルートも確保されていない。頼れるのは我が身だけ。遅れて訪れた懸念に、自律神経が機能を放棄する。たまらず、涙が頬を伝う。あの子を守れなかった未来に怯え、嗚咽にバスタブの中でうずくまった。惨めな悲哀の発露を悟られない様、窒息するくらい口を押さえた。脆弱な感情の奔流の切れ目を狙って立ち上がり、鏡に再度向き合う。兵士にもう迷いはなく、冷徹な双眸がこちらを射貫いていた。
「仕事が終わったら、ちゃんと帰ってきますよね?」
平服に着替えたところで掛けられたのが、そんな問いであった。彼女の訝しむ通り、下手を踏めば俺は明日の陽を拝めない身になる。敵勢力はそこらのホームレスや、若さを持て余した三流大学生ではない。ネット上の噂が正しければ、傭兵上がりのろくでなしだ。正規軍の手に負えなかった悪漢が相手なら、こちらを殺すのに如何なる手管の行使も辞さない。やり辛い相手には違いない。群れを成す野犬に真っ向から殴り掛かる我が身を、嘲笑したいくらいだ。
「大丈夫だよ、楽な仕事さ」
鏡で確認しなかったが、ブリジットに微笑みがなかった辺り、ひょっとすると全てを見透かされていたやもしれない。やはり、俺には過ぎた女だ。
あと数分もすれば、事前に連絡していた兄弟が揃ってやって来る。ブリジットには訪問警護を伝えていないが、やむを得ない。小さなパーティを開ける事態ではない。
警護対象玄関ドアに近付けさせるのも危険と考え、別れはリビングで済ませた。いつもは軽くキスでもするところを、彼女はひしと胸にしがみ付いてくる。衣服を通して、愛した女の体温が伝わる。涙腺が緩みかけた途端に彼女は固く結んだ腕を解き、「お気を付けての」一言で送り出してくれた。寂しげな瞳と憂いの籠もった声音が、頭にこびり付いて離れなかった。
イグニッションにキーを挿して大出力のエンジンを始動し、下唇を噛み締める。バックミラーに映る貌は、既に人の様相を呈していなかった。助手席のボストンバッグをシートベルトで固定し、首都へ向けてアクセルを踏み込む。この一夜で、片を付ける。




