冷血老人【13】
【24】
八月末のぬるい陽光が雲間を抜ける、ヘリフォードにおける休日の午後。先日にやっとで一線を越えたブリジットと俺は、新しい拳銃を見繕いに知り合いのガンスミス(銃器技師)の店を訪れていた。他ならぬ、可愛いメイドの嫁さんの銃をだ。
平服姿、つまりは給仕服ではないブリジットを連れて店に入ると、頭頂部の寂しい主人は肝を潰した。「銃以外と交際なんか出来たのか!」客に随分と失敬な物言いである。第一、俺の銃は艦船と違って男性形だ。ともかくその可愛い恋人の銃を選びに来た旨を伝えると、店主は快く協力の手を差し伸べてくれた。
店主は初めに、煩雑な機構や撃鉄の露出がない、オーストリアの傑作拳銃たるグロック19を薦めた。本銃の利点は銃の知識を囓った者であれば明快で、部品の大部分が樹脂で構成される故に軽く、比較的小型なので女性の手でも扱い易い。しかも撃鉄や突出した部品がないので、ホルスターから抜く途中で引っ掛ける危険性も小さい。PSC(民間軍事企業)の現場でも人気で、国内でも陸軍の次期制式採用拳銃にグロック17の最新型が推されているとの噂だ。まあ、我々は好き勝手に自分の拳銃を選ぶだろうが。
そういう訳で、その道のプロフェッショナルを自負する男ふたりは、初心者向けかつ実用性に溢れた本品を提示した次第であったが、ブリジットはすげなく「ノーゥ!」と両腕を交差させる。我々も食い下がってグロックの商品価値を例示してみるが、当人は一向に首を縦に振ってくれない。曰く、軽過ぎて気に入らないとの弁である。それが女の台詞か。付け加えて、マニュアル操作のセイフティに準ずる装置の欠如、撃鉄という古来から生き延びた、ある意味では実戦証明の為された装備の欠落は、ブリジットさんとしては看過出来ぬらしい。実戦経験もないくせにと苦笑しかけたが、成る程、現実に基づく拘りがあるのは評価に値する。素人にここまで否定される、設計者ガストン・グロックに一抹の同情を覚えたのは事実だが。グロックおじさん可哀想!
次にガンスミスが持ち出したのは、これまた格式高い〈ヘッケラー&コッホ〉のUSP、そのコンパクトモデルである。グロック同様にポリマーフレームを採用しているが、向こうがスカしたキアヌ・リーヴスなら、こちらは山脈よろしく血管浮き出るシュワちゃんだ。ロングセラーなだけあって信頼性は折り紙付きで、極限の状況下でも正常に作動する。惜しむらくは価格とグリップの太さで、如何せん少女には扱い辛い仕様である。ブリジットはしげしげとこれを眺め、手に取って使用感を吟味していたが、やがて目尻を下げてブツをカウンターへ戻した。何が不満なのか問うと、どうもポリマーフレームの手触りがそぐわないらしい。変な部分でステレオタイプなやつだ。この分だと、ジョン・ブローニングの傑作が一つたるMM1911、いわゆるコルト・ガバメント要求するのではと危惧したが、次がそれに歯止めを掛けた。
USPの隣に店主が提示したのは、〈シグ・ザウアー〉のP228であった。我々の連隊も装備する、P226の縮小モデルだ。このP226といえば、かつて米軍がM1911に代わる次期制式拳銃のトライアル――装備品のコンペで、かのジェロームを生んだイタリアお抱え企業〈ピエトロ・ベレッタ〉のM9に敗れた、汚泥にまみれた経歴がある。事実、高価格という軍隊のロジスティクスに反する面や、マニュアル式セイフティの排除といった不便は見られたが、そもそも万人に適合する銃など存在し得ない。M9は価格こそ安価であったが、特殊部隊向けの性能ではなく、無駄な突起のせいで抜き打ちがし辛い。何より、個人的に形状が憎悪を催した。数多くのハリウッド映画が主人公に銀色のM92を持たせる理由だが、十年以上を要しても見当付かない。映画界から駆逐されてしまえ。
それに比べてP226はどうだ。高山地帯の極寒は元より、淀みきった泥水に浸けても難なく動作。ステンレス削り出しのフレームは強靭で、塗装が落ちても錆が浮かない。肝要なのはその姿形で、戦闘目的に特化した造形からは究極の機能美が醸し出される。長らく親しんだブローニング・ハイパワーから持ち替えた時に、価値観が共鳴に打ち震えたものだ。
と、歴史の一部のみを見れば付け入る隙のないシグ・ザウアーだが、重大な欠点が一つ存在する。とかく「重い」のだ。総削り出しのフレームは堅牢に違いないが、プレス鋼板より遙かに重量がかさむ。おまけに、グリップが男の手をしてもでかい。社外で展開されているグリップを装備すれば幾らかましにはなるが、それでも焼け石に水だ。
にもかかわらず、ブリジットは嬉々とこの銃の選択を申し出た。店主と俺とで説得を試みるも頑として意志を曲げず、平然と「旦那様とお揃いが良いです」と言ってのける肝に気圧され、俺は折れた。だって、悪い気はしない。数枚の書類に俺の名義で署名し、ナイロン製のホルスターと替えの弾倉数本を購入して、日の浅いアベックは店を去った。銃規制の厳しいこの島国にて、何故にこうも円滑に購入処理を済ませられるか?文民は時として鋭い。が、そこは軍人の一角のみが知り得る機密としか、我々に公表する権限はない。
真新しい拳銃を携え、その足で付近の屋外射撃場へ赴く。受付で気だるそうにしている男性に、利用時間と使用するレーンを申告して代金を支払うと、サービスで数発の弾薬を貰えた。意図せぬ色仕掛けが働いているとはいえ、ありがたい計らいである。
風土に似つかわしからぬ乾燥した気候の下、射撃に勤しむ先客はまばらであった。受付で指定したレーンに荷物を広げ、弾倉に錆の浮いた弾薬を込める。慣れたもので、ブリジットはローダー(弾倉に弾薬を込める器具)でばちばちと鉄塊を流し込んでいった。装弾の終わった弾倉を何本か用意して、小さな弟子は十メーター先に置かれた、人の上半身を模した鋼鉄の標的へ視線を据える。日除けに被る〈トリジコン〉のキャップから延びる髪が、西からの微風になびく。何の指示も要らない。彼女は箱出しのP228を弄くり、軽く分解して部品の噛み合わせを確かめると、スライドなど数箇所にオイルを吹き付けた。跳ねた余分なオイルが、外装でぎらついている。確認事項を全て済ませると、いよいよイヤーマフを装備して実射に臨む。旦那は、手持ち無沙汰に様子を見守るのみだ。イヤーマフ越しに鉄の擦れ合う金切り声、初弾が薬室へ押し込められる。両足を肩幅に開き、小さな兵士は真正面から標的に向き合う。落ち着いて狙いを定め、引き鉄に指が添えられる。足許の芝が、涼風にざわめいた。一拍置いて、炸裂と金属の嬌声。一度ならず、三つ連続してそれが発せられる。波打つ木霊が過ぎ去るのも待たず、ブリジットはP228のデコッキング・レバー(撃鉄を安全に落とす装置)を下ろして仮のセイフティを掛け、腰に装着したホルスターへと銃を収めた。緊張の瞬間である。二人して標的に近付いて結果を見ると、三発の弾丸その全てが、標的の胸部分に凹みを穿っていた。彼女がクラプトンのホテルで射撃を教わったが七月の末、今日が八月の最終週であるから、一箇月と経たない内に近距離の敵を一瞬で、しかも確実に無力化する術を修得した事になる。……こいつは危険だ。ひょっとすると、いつかロシアだかイスラエルに工作員としてヘッドハントが掛かるやもしれない。それ程に有用で難儀な技術を、彼女はこの色情を誘うか弱げな身に備えたのである。
「凄いですねこの銃!狙った通りに弾が飛びます!」
興奮に尻尾を振るのは可愛いが、狙った箇所に弾丸が命中するのは即ち、正確な照準を置き、その上で狙いがずれない様に引き鉄を扱う前提が必須である。言うは易しで、これを拳銃で連続してやるのは相当にハードルが高い。熟練警官の御業を無自覚にやってのける恋人に、内心ちびりそうだった。この先、この子はどこまで伸びるか。末恐ろしさと共に、その発展を見届けたい衝動が背反しながらも萌芽する。恋人が聞き分けの良い門弟というのは、中々どうして気分がいい。
ブリジットは貪欲に新たな射撃技術を吸収し、単なる雑用女中に収まらぬ戦闘技能を備えてゆく。基本のダブルタップは言わずもがな、五十メーターの距離で拳銃弾を命中させ、迅速な弾倉の交換や、動作不良への対応もそつなくこなした。合図を出せば、二秒を要さずににホルスターから銃を抜き、敵の心臓へ鉛の雨を喰らわせる。その狙いは限りなく精確で、人間大の標的であれば仕損じはない。このままいけば、あの冷血ニーナさえ打倒し得るお手伝いさんが降誕するのでは。腹の奥底でほくそ笑みつつ、俺は未熟な門下生の育成に努めた。欲を言えば、こんな民間のお遊戯会場でなく、我々の基地の設備を用いてやりたかった。
昼時も仕舞いに差し掛かる頃。その矮躯に過剰な殺人術を会得したメイドと、彼女の射撃中ずっとローダーを弄っていた所為で指を腫らした俺は帰路に就いた。車中でもブリジットは弾を抜いた銃を弄くり回し、その意匠を眺めては嘆息を発した。ちくしょう、無機質な鉄塊が妬ましい。
自分の銃を手に入れてからというもの、ブリジットは俺が仕事に家を空ける間に、地下室で眠らせていたミシンで作業に没頭した。軍需品ブランドから分厚いナイロン生地やバックルを取り寄せ、個人の体型に合うホルスターを自作しているのだ。製作開始から一日で内腿に装着するタイプ――こりゃあ、男は使えん――が完成した。どうやら、日常的に銃を携行する腹づもりらしい。出来上がりは剛性に富んでおり、使用感も快適性が損なわれない創意工夫が施されていた。装着位置がずり落ちない様、固定に腰から吊り下げる為のベルトが付属している。贔屓目も入っているが、このまま量産してひと稼ぎ出来る品質だ。たかが一個人のメイドにしておくには勿体ない。俺の分も作ろうかと提案を受けたので、時間があればお願いしたいと返したところ、翌日には出来たてのヒップホルスターが、ダイニングテーブルに鎮座していた。なあんて仕事が早いんだ。オリーブドラブ色のそれを早速パンツベルトに通してみると、良い具合に腰後ろへ収まってくれる。愛用のP226を突っ込んでみると、相当に凝った作りであるのが窺えた。生地の内に板バネが仕込まれており、ナイロンでありながら強力に銃を保持してくれるのだ。脱落防止のストラップは磁石で留まっているので、銃を抜く際は単にグリップを引き上げればいい。趣味の範疇とは思えぬ、実戦に即した設計だ。主人の感嘆に、可愛い職人が小さな胸を張っていた。
それからも暖かな気候が続き、基地から緊急の召集もない、平和な日々が送られていた。朝方に恋人の油断しきった寝顔を素っ裸で拝み、職場で自分と観点を一にする同僚と克己に励む。手入れの行き届いた家へ帰れば、優しいメイドさんが色々とよくしてくれる。時として兄弟や同僚に自宅を襲撃され、ビールをやりながらくっちゃべる。全てが終わってベッドに潜る頃には、眠っていた本能が情欲のままに互いを貪り、そしてまた心地よい朝が訪れる。これこそ、物言わぬ心が待ち望んだ暮らしであった。
――だからであろうか。九月の来訪と時を同じく忍び寄る陰の存在を、俺は看過してしまった。
【25】
ブリジットが我が家に来て、二箇月が経つ頃だった。それまで続いた、なだらかな天候は何処へやら。この休日はイギリス上空を死にたくなるくらいの暗雲が垂れ込め、湾岸戦争の『砂漠の剣』作戦における砲撃もかくやという豪雨に襲われた。ランニングへも行けず、湿った自宅でげんなり食後の紅茶を啜っていると、ブリジットが郵便受けから便りを持ってきてくれる。殆ど読まない新聞やビラの束を選別していると、見慣れぬクリーム色の封筒が紛れていた。請求書の時期ではないと訝りつつ宛名を見やると、確かにヒルバート・クラプトンの名義が愛想ない印刷で証明されている。古めかしく深紅の蝋で厳重に封が施されているが、そこに家紋や社章はおろか、送り主の名さえも見受けられない。うわあ、嫌だなあ。ブリジットはキッチンで、朝食の後始末に背を向けている。こんな不気味な書簡をわざわざ見せる必要もないと踏み、〈ガーバー〉のナイフで封を破った。――爆発なんてしてくれるなよ?今日の爆薬は著しく高性能だ。板ガムみたいに薄く加工出来るし、ごく少量でも人を火星まで吹き飛ばす威力がある。顔を封筒から遠ざけつつ中身をテーブルにぶちまけると、A4のコピー用紙が一枚、角を揃えて折り畳まれているのみであった。空の封筒の覗き込むと結構な厚みがあり、内側には透視防止に経典の如く意味不明な文字列が並ぶ。
不快できな臭い封筒を放り、畳まれた漂白紙を取り上げる。もう爆発の危険はないと書面を広げれば、手書きの文字の一つも見られない、味気のない文章が印字されている。ちいとも可愛げのない書体だ。だが、内心でごちていた苦言も、えらく格式張った文を読み進める内になりを潜め、顔面が凍り付く心地を味わった。
画像の一枚も添付されていない、四段落から成る文書。その送り主は依然として知れないが、少なくとも連隊に関わる組織でないのは確かだ。堅苦しい挨拶の定型文から入る文面は、段落を越える毎に筆者の性根の腐り様が垣間見える。そして三段落目から綴られる内容に、忘れかけていた戦慄が蘇った。
さて、此の頃は購入なされた奴隷と如何お過ごしでございましょうか。さぞ蜜を啜るが如き、甘やかなる日々を享受している事と存じます。如何せん完全なる性奴隷は現在では此処、英国のみが維持し得る、誠に理解を得難き文化。此の地を置いては堪能し得ぬ愉悦でございます。私めも一紳士として其の悦楽に一抹の造詣は有するが為、貴殿の放蕩が目蓋の裏に浮かびます。
――気味が悪い。己が見識を超えた独白に、不屈の心臓が総毛立つ。ともかくこれで、相手が奴隷繋がりの人物という点は汲み取れる。だからどうしたと、忌避の衝動のままにゴミ屑を燃してやろうとライターを手に取る。フリンジに指を掛けた瞬間、視界の隅で捉えた文面に、二度目の悪寒が脊髄を逆撫でる。
本題へ移らせて戴きましょう。貴殿の所有致します奴隷・ブリジットを、私に御譲り戴きたいのです。無論、当方も其れに見合う以上の条件を御受け致します。つきましては交渉を円滑に進行させるが為に、直接の謁見を望む所存でございます。
この直後に、正体不明の主は首都外れのホテルと「九月十日 一三〇〇時」という記書きを残して文は締められる。――何だこいつは。先程の不気味さと打って変わり、燃え盛る憤怒が生される。主旨に関しては後で触れるとして、まずは表面上だけ取り繕う慇懃無礼な物言いに臓物が煮えくり返る。こちらの情報を軒並み調べ上げておきながら、自分の尻尾は僅かばかりも見せぬ不平等な立ち位置に陣取り、明らかに見下した態度を隠そうともしない。自分と根本から相容れぬ存在に、反吐を催す思いだ。おまけに手紙という媒体を鑑みても異常に高圧的な調子と、それに追随する傲慢な要求。こちらが眼前にいないのをいい事に、勝手に話を進行させるお役所みたいな姿勢。面倒に拍車を掛けているのが、口の良く回るだけの中年主婦とは違い、深い知見をも備えているであろう事実だ。心理学者でも分析官でもないが、オクスフォードとかケンブリッジ、或いはイートン、ヴァージニア辺りの法・経済部門の出身と見て間違いないだろう。理系のやつは、こんなに結論を先延ばしはしない。そうなると、職場も自ずとそういった場所に行き着く。つまり、地方知事とか政治屋だ。それも、格別に曲者の。
首を巡らせて、ブリジットを見やった。大丈夫、まだ昼食の仕込みをしている。書面に目線を戻し、握ったままのライターを置く。由々しき事態だ。額にあてがった手に、並みならぬ熱が移る。幾ばくかの根拠があるとはいえ、相手は殆ど霞の様な存在だ。そいつが理由はどうあれ、俺の大事なブリジットをかっ攫おうとしている。彼女に関して思い当たる節は皆無だ。では、俺はどうだろう。北アイルランド時代、サンドハーストでの暮らし、連隊での作戦……。ひょっとすると、記憶のない幼少期か。いや、それだとブリジットも産まれていない。では、何故?手掛かりのない臆説は、暗礁に乗り上げた。
奇怪な脅迫にようやく平静を取り戻した頃、冷め切った紅茶で糖分を補給する。何にせよ、陳腐な悪戯にしては手が込み過ぎている。この文面を見る限り送り主は――このくそ野郎は、俺の職場や身辺状況をも手中に収めているだろう。広範に渡る部署を使役可能なポストに居座る、顔も見当付かぬ敵に奥歯を噛み締めた。
要らぬ不安を抱かせまいと、平静を装って日々を送る内に、その日はやってきた。臨時で休みを取り、サスペンションのへたれた愛車で首都へ繋がるM4自動車道を辿る。件の手紙を警察や軍に提出しようかとも考えた。だが徒労に終わる結果が見えていたし、こいつは他者を巻き込むには複雑な事態だ。俺が首都へ行く間だが、ブリジットには休暇中の隊員の許へ遊びに行かせた。ヒステリックな思い過ごしで済めばいいが、あの子を失う事だけは避けたい。仮に大概の厄介が訪れたとしても、連隊なら人知を超えた力で蹴散らしてくれる筈だ。都合の悪い詮索もせずに自宅まで迎えに来てくれた同胞を送り出した後、半ば狂気と自覚しながらも、爆弾の類がないか自車の車体下を鏡で覗き、ヘリフォードを発った次第である。くそったれ、何だって俺がこんな目に。
三時間半後、車載ナビの男声に従って到着したホテルは、見るからに場末の雰囲気を醸し出していた。外壁に枯れたツタ植物が絡み、諸所にヒビと剥がれた塗装が見受けられる。怪文書によれば、そこの駐車場へ迎えが寄越されるとの事だ。無駄と知りつつも、収まらない緊張を殺す為に抗不安剤をラムで飲み下した。
アルコールを煽って、三分ほど経った頃だ。さびれたホテルの玄関口から、二人組の背広――肩幅を見るに、本物のホワイトカラーではないだろう――が仰々しくBMWまでやってきて、サイドウインドウを叩いた。警戒しつつウインドウを下ろすと、背広の片一方が腰を屈めて車内へ首を突っ込んでくる。
「近くの駐車場へ駐めてくれませんかね。我々の車で案内しますので」
口振りから想像するに、手紙の送り主本人ではない。誘導されるままに付近の有料駐車場に車を移動して降車すると、有無を言わさず入念なボディチェックを受ける。二人組はボイスレコーダーはおろか、ボールペンの一本さえも奪うと、区画の隅に駐まる黒塗りのメルセデス――見てくれがベンツというより、メルセデスだ――の後部座席へ乗せられた。勿体振りやがって。現時点でこの雑兵をぶっ飛ばして親玉の情報を吐かせ、その足で凶弾をお見舞いして帰りたかった。そうすれば万事が片付くのに。
十分ほど、スモークの貼られた暗い車内で揺られ、ぶっきらぼうなブレーキに車体が前後する。辿り着いたのは、英国が誇る某一流ホテルであった。背広ふたりは、一言もなしにフロントを素通りする。居心地悪さを味わいつつ着いていくと、装飾にまみれた巨大な扉が現れる。一般利用者がお目に掛からない、特別なエレベーターだ。無意味に金の臭いがするゴンドラで最上階の一室まで揺られ、降りた先で毛足の立ったカーペットを踏み荒らす。何故に敷物に金糸を織り込む必要があるのか、諸々の怒りで奥歯がすり減る。前方で唐突に出現した派手な彫り込みのドアを、黒服の片一方がを叩く。内側から想定通りの、怠惰で不遜な低声が返される。強面のボディガードが、顎をしゃくってドアを指す。むかつく野郎だ。金メッキのドアノブを捻って室内へ踏み込むと、豪奢な応接スペースの上座に、その人物は横に大きい躯を据えていた。
「御会い出来て光栄だよ、クラプトン君。自己紹介は不要かな?」
そいつは尻を具合の良いソファから浮かそうともせず、対面のソファへ座る様に促す。瞬間的に生した不服を露ほども隠さず、俺は上質な低反発性素材へと腰を沈めた。
「……議員の大先生に睨まれる悪事を、やらかした憶えはないんですがね」
一緒に入室した黒服により、部屋のドアが閉じられた。退路が断たれた焦りを気取られぬ様、三メーター先の下卑た笑みを冷ややかに見据える。保守党議員が一人――マーティン・アボット。我が国でさえ見直しを推し進める働きがある奴隷制度を、自己の損益目的で継続に血眼な、下衆の親玉だ。メディアが声高に囁く噂によれば、奴隷関連の組織を幾つも傘下に抱えており、それが資産の大半だというタレ込みもある。加えて脱税疑惑で何箇月もパパラッチのワゴンに追われ、深夜帯に特番が組まれる槍玉具合だ。この男の非公式フォーラムにアクセスすると、巨人と化したアボットが年端もいかぬ少女を股間にいっぱい侍らせる低俗な風刺画――一部は『素敵なファンアート』と呼ぶ――が、決まってヘッダーに現れる。そいつが直々に片田舎の軍人を呼び付けるとは何事か。
不敵な嘲笑を張り付けるアボットが、用心棒に命じて冷めたコーヒーを用意させた。茶黒い沼に、俺は砂糖を沈めただけで放置した。甚だ不快だ。さっさと目的を聞き出して帰りたい。
「今日は『彼女』をお連れでない風ですが……そちらのご趣味もお持ちで?」
リードパンチ代わりに、ドアの前で守衛を務める黒服へ親指を突き出す。一向に口火を切らないアボットも、これには卑猥な口許を歪ませた。
「私も暇ではないのでね。どうだい、我々はビジネスの話をしに来た。違うかな?」
奇遇だな、同感だよ。今すぐ守衛ふたりをぶちのめしてから、こいつの喉笛を引き裂いて帰りたかった。他人を不快せしめるのも一種の才能で、こいつはそういう星の下に産まれたのだ。如何に甘い看護婦だって、担当になったら尿瓶で脳天をかち割る。
目下の状況を整理した。目の前におはすのは、否定のしようなく現役議員様のマーティン・アボットだ。人嫌いが周知の事実で、住宅地から離れた閑静な自然の中に家を構えている。批評家やアナリスト曰く、自己以外を甚だ信用せず、エゴイスティックに公約を掲げる姿勢は同業者からも倦厭され、水面下で暗殺案が構築されつつあるとも目されている。ボディガードに民間企業を雇わない事も著名で、元軍人やならず者を大金で抱き込み、自分に刃向かう人間を始末させているとさえ噂が飛び交う。小耳に挟んだところによると、地元の麻薬密売業者とも接点があるというから、悪餓鬼だらけのヘリフォード民も呆れる。屑もここまで腐れば、一種の神と化ける。
郵送されたくそ紙が言うには、やつが用があるのはブリジットであり、彼女の掃き溜めへの譲渡を所望されている。馬鹿も行き過ぎると清々しいとか誰かがのたまったが、そんな事は全然ない。いよいよ以て募る厭悪に痙攣する目尻を目ざとく察知し、アボットはセラミックの歯を覗かせて目を三日月に崩す。ぶよぶよの手で守衛に退室する様に促し、肘掛けに頬杖を突いた。
「さて、邪魔者も去った。そろそろ有益な話をしよう、クラプトン君?」
名を呼ばれる度に、我が家の表札がタールで汚れる気分だ。体型で台無しなスーツのポケットから〈ダンヒル〉を一本取り、アボットの脂肪に覆われた指が火を点ける。室内にたちまち紫煙の渦がくゆり、やつの呼気と混じった忌々しい煙が吐かれる。ちくしょう、さっさと始めろよ。痺れを切らして踵でカーペットを叩きたがっているのを見透かしてか、アボットはあくまで延引を続けた。
「ご存じかな、クラプトン君。かの『ウィキペディア』の記載だが、私の保有する奴隷の数に誤りがある。素人が編集するあの下らぬ百科事典は、二〇〇九年四月時点で私が二五人を所有していると豪語しているが、実際は二七人だ。どうだ、二も違うのだよ」
これだけでも市井から袋叩きに遭うべき蒙昧振りだが、更にこう付け加える。「――そして、間もなく二八人になる」意図せずして毛が逆立った。こんなのは人間ではない。まともに相手していい存在ではない。この場から一秒でも早く離脱しなければ、こちらの精神が冒されてしまう。
「なあ、先生。俺はあんたの奴隷がどうとか聞きに来たんじゃない。あんたが名乗りもせずに送りつけた、こいつについてだ」
応接テーブルに忌々しい紙切れを放る。この書簡さえなければ、誰がこんなくそったれと口など利くものか。アボットは憤慨した風に鼻息を吹き出すと、背を椅子に預けた。
「どうやら、君とは馬が合わないらしい」
「ビジネスとやらを急かしたのはおたくだ。さっさと本題に入って戴きたい」
肩をすくめつつ、アボットは指先で葉巻を弄ぶ。つくづく回りくどいのがお好きらしい。それとも、他人の苛立ちを煽るのが愉楽なのか。何れにしても悪趣味が過ぎる。息をつく間に、持てる徒手空拳の全てを用いて殺してやりたい。アボットはダンヒルの灰をガラスの灰皿に落とすと、膝を組んでようやく本題に移る。あれを武器に使うのもありだ。重そうな灰皿は丁度、手の届く距離にある。
「君に宛てた書面の通りだ。単刀直入に申し上げて、私は君のブリジットが欲しい。相応の額を用意するし、希望するなら純金という形でも応じよう」
この野郎、本旨を出しやがったな。回答は元より定まっているが、どうにも気味が悪い。この胸くそ悪いもやを欠片ばかりでも晴らさねば、気が狂いそうだ。
「あんた程の男なら、新品の性奴隷なんか幾らでも手に入るだろ。わざわざブリジットを指名する道理は何だ」
「理由などない。君のブリジットを手許に置きたい、それだけだよ」
やつは表情を毛ほども動かさない。その腹の脂肪の下に、何を隠していやがる。無意識に盗聴器が隠匿されていそうな場所へ目線を巡らせていると、にわかにアボットはソファの後ろへ手を伸ばし、鈍色のアタッシュケースがテーブルに叩き付けられる。――おいおい、冗談だろう。ダイヤルロックがちきちきと音を立てて回り、ジュラルミンの硬い殻が持ち上げられる。気持ち程度の緩衝材が敷かれた空間に、皺のない女王の師団がすし詰めされていた。
「前金で六万ポンド。奴隷の引き渡しに応じた暁には、更に三倍を払おう。これで不満かね?」
現実離れした実弾を差し向けられて、嫌忌しか抱かなかった。このケースには、追跡装置が仕掛けられているだろう。札の内の何割が偽造なのか。そして確実に、一枚残らず特殊インクでマーキングされているであろう危険に、悪寒が駆け抜ける。受け取ったところで、まともに扱える代物ではない。わざわざ自ら身に余る爆弾を背負うものか。
「質問に答えろ。大金を出してまでブリジットに拘る理由が知れない。何を企んでる」
「君が奴隷を引き渡す、私は金を君に与える。そこに何の支障がある?極めて単純な取引だ。君は何も考えず、私の商談に従えばいい」
ああくそ、こいつを殺したい。本能の雄叫びからカップを鷲掴みしそうな拳を抑えつつ、傷ひとつ見られないケースを突き返した。
「いいかいアボットさんよ。こいつは交渉だ。あんたの下らねえ要求は分かったが、俺が条件を呑むかは別問題だ。あんたが名指しでブリジットを欲しがる意味が分からないし、彼女を渡すつもりは毛頭ない。時間を割いて貰ったところ悪いが、帰らせて戴く」
そう吐き捨ててソファから腰を上げたところであった。
「彼女の出生を知りたいとは思わないか?」
冷酷な半眼が、不気味な視線を絡みつけてくる。何をとち狂っていやがる。こちらの興味を惹く為のブラフか?尻を浮かせたまま、脂の乗った面を盗み見る。駆け引きを試みている様子は窺えない。気に食わない。この腐れ文民くんだりが、はったりでこうも強く出られるだろうか。暗く淀んだグリーンの光彩からは、その意図を汲み取れない。ひょっとすると、既にやつの手中に落ちているのでは?敵意も露わに、俺は再びソファへ浅く腰掛けていた。
「それでいい。全く、君は予想通りの行動を見せてくれる」
「御託は結構、何を知っている」
アボットの瞳が、遺骸を見付けたハイエナよろしく爛々とぎらつく。駄目だ、殺すな。殺してしまったら、このくそとブリジットの関係を知れなくなる。咥えていたダンヒルを灰皿へ放り、やつは俺に葉巻を勧めてきた。手振りでそれを振り払ったにもかかわらず、やつは満足げであった。
「クラプトン君、この記事をご存じかな?」
傍らに置く鞄からiPadを取り出して操作すると、こちらへ差し向ける。不承不承受け取れば、〈アドビ〉のスプラッシュ・ウィンドウがPDFの読み込みを案内していた。数秒後に画面が切り替わり、周辺視野で警戒しつつ端末を操作する。液晶画面に、指で塩の軌道が引かれる。内容は五日前の〈デイリー・テレグラフ〉で、首都近郊のスラム街で腹部を切り開かれた女性遺体の発見が報じられていた。添付された現場近影には、ヘドロと血とで形容し難い色に染められた側溝が、多くの警官に囲まれる画が展開されている。
「……で、これが何だ」
アボットはすこぶる上機嫌に眉を上げた。
「私は妻を持たぬ主義でね、恥ずかしながら奴隷を持つまでは、こうした貧民のねぐらで夜の女を買ったものだ。はした金を放れば、後腐れなく自らの処理を済ませられる。こんなに気楽な生活は類を見ない」
スラム街のゴミ溜めも、売女のミズダコみたいなまんこも、てめえの肝に比べれば可愛いだろうよ。基地にいる時みたいに「おえーっ!」と身振りが示せたら、どれだけ気が安らいだだろうか。
「正に十九年前だよ、私がこの恥知らずと関係を持ったのは。彼女はロンドンの娼婦の枠では上物でね、あれの具合も悪くなかった。当時まだ名の売れない地方議員だった私は、あの女のフラットに通っていた。気立ての悪い性悪だったが、何しろ手頃な上玉には違いなかった」
その独白はいつ終わらせて戴けるのでしょうか?退屈を明言する目的で鼻をほじったが、やつは目蓋を閉じて自己陶酔に浸っていた。
「……だが、事情が変わった」
アボットは片目だけ開き、両手を胸の前で組む。うわあ、完全に自分にのめり込んでるよ。頭痛の始まるこめかみを拳でぐりぐり解し、欠伸を噛み殺す。
「彼女――セルマ・コーウェンと関係を持って、一年が過ぎた。丁度その頃だ。それまで以上のポストを得て、名声を高める機会が私に巡ってきた。以降の身の振り方を、考慮する時宜だった訳だよ。高名な組織の重鎮に求められるのは、その人物の確固たる地盤だ。無恥低俗な社会的責任も果たさぬ輩とつるんでいるなどと、根も葉もない噂をマスコミに声高に囁かれる訳にはいかんのだよ。お分かりかな?」
数多の人間を殺してきたが、これ程まで自己の欲求だけで人を惨殺したく思ったのは、クラプトン性を名乗ってこの方初めてだ。我慢に奥歯を噛み締めるのも限界だった。自律を振り切った拳がテーブルへ急降下し、コーヒーが床に染みを作る。。
「なあ、そろそろ満足したろう?俺はあんたのご高名で、爛れた色情沙汰を聞く為に来たんじゃない」
わななく拳に青筋が浮いていたが、アボットは意に介さなかった。むしろ愉しげに口角を吊り上げ、その尊大な眼をおっぴろげた。
「他人の話は最後まで聞くものだ。幸い、私にはまだ時間が残っている」
こっちは一時でも早くお前を亡き者にしたいよ。まずはその如何にも高価であろう紅のネクタイを掴み寄せて、でかい鼻を噛み砕いてやる。
「セルマ・コーウェンに関係の途絶を切り出した時、彼女は酷く反発した。向こうからすれば当然だろう。実入りの良い顧客を失えば、まともな学歴ひとつ持ち得ぬ売女は死に失せる。やがてコーウェンは私の子を身籠もっていると脅しを掛けてきたが……。言うまでもなく、私はまともに取り合わなかった。それでも、念を入れて相応の手切れ金だけは送っておいた」
俺は片目をしかめて眉毛を弄っていた。ストレス下に置かれた鳥や獣が、自身の体毛をむしる行為に似ていると思った。
「それから十八年だ。保守党議員へと生業を変じていた私の許に、生前のコーウェンが連絡を取ってきたのが一週間前だ」
にわかに、アボットの眉に憤懣やるかたない感情が宿った様に見えた。
「秘書が迷惑電話として処理する間際だったが、コーウェンの連絡というのは、彼女が産み落とした娘についてだった。彼女と肉体関係を持っている間、私は避妊具の使用を欠かしたためしなどなかったのだが……どうやらその避妊具の残渣を回収して、子を成したらしい」
アボットといい、故コーウェンといい、ろくなやつが出てこない。神がこういった輩を、餓鬼の内に疾病で殺さない理由が見当たらない。
「子を産んだ理由は働き手にする為だとの言だが、出てきてみれば女だ。落胆したコーウェンは子供を路地裏で皿洗いに出し、そこで得た金と私の手切れ金で十五年間を食い繋いだ。
しかし、だ。今日の人間という生物は、適切な衛生の許でなければ生命活動に支障が出る。老いも重なっていた所為で、コーウェンは病を患った。大方、性病の類だろう。度重なる通院で日銭に困窮し、とうとうその子供も三年前に奴隷企業に売り渡したと言う」
――三年前。まさかと口許を覆いたくなったが、アボットの発する狂気に身体が自由を失っていた。
「三年後、再び金に困窮したコーウェンは子供のDNAデータを元に、私に強請を掛けてきた。君も軍人なら知っているだろうが、こうした不届き者は一度要求が受け入れられるとエスカレートする。外交と同じで、譲った側の不利は決まっている」
澱んだ藻の浮く瞳に、冒涜的な輝きが戻る。
「そろそろ気付いているのではないかね?そうだ、今は亡きセルマ・コーウェンの子供……三年前に人の世から抹殺されたその娘こそ、クラプトン君。――君の買った奴隷だ」
心臓から喉の粘膜まで、液体窒素の固まりが張り付いた心地だった。ブリジットが、この男の遺伝子を受け継いだ娘。受け入れ難い状況に、呼吸もままならなくなる。だが、否定する要素も持ち得ない。確かなのは、こいつがブリジットの過去を、少なくとも俺よりは多く握っている現実だ。
「これで理解したろう、クラプトン君。たかだか娼婦の証言など幾らでも揉み消せるが、それを端緒に今の地位を失うのは御免でね。ただでさえ報道機関の鬱陶しい蝿の対処に追われる身なのだ。これ以上の些事には辟易している。幸い、君はコーウェンより賢そうだ。どうかね。今一度、君のブリジットを私に譲り渡す意志というのは……」
「帰る」
口の減らないアボットを遮り、衝撃でアボットのカップまでひっくり返して立ち上がり、足早にドアへ向けて大股に歩いた。こんなところにいたら、脳髄がスポンジになってしまう。後ろ髪を引くつもりの感じられない、抑揚のない声が背中にぶつけられる。
「君が望むのであれば、政界にポストも用意出来る。オクスフォードを出ておらずとも、市井に名を響かせるのも難くない」
「俺は今の暮らしが気に入っている。金も要らん。心配せずとも、あんたの汚名をタレ込むつもりはないし、厄介事にも巻き込まれたくない。分かったら放っておいてくれ」
ドアの向こうで待機していた黒服から、没収されていた荷物の入ったビニール袋をひったくり、足音高く部屋を逃げ去った。不快な液体でねばつく首筋に、不気味な宣告が巻き付く。
「君の荷に、私の連絡先を添えておいた。期限は一週間だ、その間に決めたまえ」
この時は単なる単語の羅列が、子供じみたこけおどしにしか聞こえなかった。
こうまで酷い悪寒を負ったのは初めてだ。マーティン・アボットは、並の政治屋と同じカテゴリーに入れて構わぬ怪物ではない。地下鉄で自車の駐まるホテルへ戻り、エンジンを吹かしてM4自動車道を戻る最中も、背中に濡れた鳥肌が張り付いて離れなかった。あいつは……アボットは人ではない。やつの支配下から物理的に逃れたいが為に、俺は首都へ一度として振り返らなかった。脳裏では、ブリジットを虚空に失う妄想が延々繰り返される。冗談じゃない。ハンドルを荒っぽく切りつつ、俺は明日からの勤務中にブリジットを預かってくれそうな連中へ電話を掛けまくった。――冗談じゃない。
【26】
首都で巨悪から逃げて、ろくに眠れぬ夜を二つ過ごした。ブリジットは夜伽を持たない事に疑問を抱いていたが、不出来な旦那の苦悩を汲み取り、俺が眠りに落ちるま熱した額に手を置いてくれた。
基地での勤務中、ブリジットには親父の家でニーナの厄介になって貰った。秘書が基地にいないので親父の職務能率は落ちるが、そうも言っていられない。流石に姉貴は状況を問いただしてきたが、こんな相談が出来る道理もなく、茶を濁して逃げた。そうやって事態の悪化を恐れていた矢先、勤務終わりにブリジットを引き取って我が家へ戻り、拳銃を片手に部屋の安全を確保しつつ、テレビの電源を入れた時であった。
栗色の髪を生やすBBCの女性キャスターが、急場凌ぎの原稿を手に舌を回している。内容を掴めないままに画面が中継先へ移ると、首都の近郊だと分かった。夜闇の中で、複数のパトカーがランプを煌めかせている。どう見ても穏やかな報せではない。自身の何処に由来するのものか、他人事とは思えなかった。音量を上げて、眼鏡を掛けた長身の報道官の言葉に傾注する。要約すれば貧民街の側溝から、腹を切り刻まれた女の遺体が発見されたという。腹部の切開と、側溝への死体遺棄。その手口には憶えがあった。一般市民であれば、近代の切り裂きジャックを騙った連続猟奇的殺人、或いは複数の模倣犯による蛮行と聞き流していたであろう。そうすれば、さっさと衣服を脱いで疲労を湯に流せた筈だ。報道官が語を継ぐ。
〈この女性の遺体は、昨日より警察に捜索願が出されている、保守党議員マーティン・アボット氏の所有する奴隷と身体的特徴に類似点が多く見られており、現在真偽を確認して――〉
感情が、鉄鎖で縛られた様だった。その先はもう、眼鏡ののっぽが何を言っていたか把握していない。単語が幾つか耳に入ったが、前頭葉がある一点へ集中していた。無心に二階へ駆け上がるところに、ブリジットの懸念が籠もる声が掛かる。
「ご入浴とお食事は如何なさいますか?」
「風呂は後だ。夕飯が出来たら呼んでくれ。ちょっと集中しなきゃならない」
大量の銃を保管している作業部屋のドアを跳ね開け、ラップトップを立ち上げてディスプレイに食い入る。椅子に背を預ける余裕さえなかった。〈マイクロソフト〉のBIOSは、こちらの気分を少しも理解してはくれない。ようやく現れたログオン画面で叩き付ける様にパスワードを入力し、すぐさま〈グーグル〉を呼び出した。新聞社やニュースサイトを巡ると、一番ではないにしろ、それなりの規模の見出しに、件の猟奇殺人の記事が組まれている。何れも闇の垂れ込める裏路地の写真を掲載し、この残忍な犯行の原因究明に多くの人員が割かれていると述べている。――見付かる訳がない。画面上のマウスポインターが細動する。このふざけた事件の首謀者を知り得る者は、絨毯爆撃したって燻り出せない。だが、俺はその少数に入っている。あの野郎、狂ってやがる。マーティン・アボットは所有する奴隷を、ブリジットの所有者への見せしめに殺害したのだ。
胃の辺りが捻られる具合に痛みを訴え、ラップトップへ突っ伏す。落ち着け、ヒルバート・クラプトン。狼狽えている場合ではない。気付けに手許から一番近い、壁に掛かるG3A3ライフルを取り上げて、しばらく胸に抱いた。武器は良い。如何に困難な状況でも、打開策を打診してくれる。掻き乱された心拍が落ち着くのを見計らい、液晶画面へ向き直る。俺だってひとかどのSASだ、並み以上の観察眼は自負している。あの男が、こうも控えめな意志表示で済ませるものか。やつは他者の手が届かぬ天上から、敵が白旗と一緒に賠償を差し出すまで攻撃を繰り返す。それも、自分の手は汚さない卑劣漢だ。
熱を持った頬を銃の金属部分で冷やしつつ、グーグルの画像検索を開いた。俺の概算が正しければ――恐らく、そう大きく外れちゃいないだろうが、やつは俺がこの件を具に調査すると踏んでいる。そしてその通りに踊らされている。冗談じゃないくらい、でかい掌だ。抜け出すのは至難に思える。甚だ面白くないが、今は割り当てられた使命に沿って動くしかない。あの野郎を出し抜くには、ご自分の脚本に酔いしれた時分を見極める必要がある。
テキストボックスに例の事件に関する単語を三つほど放り込み、検索を掛ける。画面いっぱいに現れる、似通った市街の画像、画像、画像……。その中に、彩度の強い画像が点々と紛れ込む。点在する明るい画像の一つのリンク先を調べると、死体や損壊した人体といったゴア画像が投稿されるフォーラムに繋がっていた。最早趣味の枠に収まらない、精神病棟ものだ。まだ新鮮な肉の窺える切断面や、神経が繋がったままの眼球とか、直視に耐えない嗜好の数々に吐瀉物がこみ上げる。だが、本旨はこれではない。マウスホイールを転がしてようやく目当ての画像を発見すると、固まり切らない決意を握り締めて拡大した。新規のタブに引き延ばされる、高精細の写真。……ああ、くそ。下衆の意図的なリークに、内なるヒトが耐え切れなかった。
無修正の写真が網膜に像を焼き付けた時、不思議と嫌悪は抱かなかった。そんなものが些末に思える程に、彼女の小さな身体は惨い有様だった。滲む視界を袖で拭い、現実と対面する。カメラのストロボの中にくっきりと浮かび上がる、少女の骸。細く、すらりと延びる青白い四肢。あらぬ方向へ曲がり捻くれ、体躯が動物の様相を示していない。栗色の頭髪は黒い血液と汚泥で固まり、元は白色だったらしいヘッドドレスと同化して、下水に沈んでいる。覚醒したまま殺害されたのか目蓋が恐怖に見開かれ、変色して萎んだ眼球はマグロの様だ。特筆すべきはその腹部で、鋭利な刃物で八つ裂きに斬り開かれて、赤黒い臓物が淀んだ外気に晒されていた。涙と鼻水が止まらなかった。自分で言うのもおこがましいが、ブリジットは俺に買われた事で、新たな軌道に乗り換えられた。その一方、こうも非人道的な性倒錯者に全権を弄ばれ、光明を知らずに人の生を絶たれる子が存在する。これが非道と言わずして何であるか。事件現場の様相をパスワード付きのフォルダーに保存して、再び大衆向けのニュースサイトを訪れると、連続する猟奇殺人を警戒して、アボットが身辺に平時を超えた警備を付けたとの報せが追加されていた。馬鹿な。個人の重要なセキュリティ事情に関して、わざわざ本人の口から言及される筈がない。お粗末な自作自演に拳が震え、口内に鉄の味が広がった。我々特殊部隊は、下劣なテロには屈しない。こんなやつが、ようやくで人並みの救済を覚えたあの子を玩弄しようとしている。そんな不条理が、為されてなるものか。
だが一軍人に過ぎぬ俺に、司法の天上人たるアボットを打倒する選択肢など存在するだろうか。政治・法律的な問題から、周囲には相談が叶わない。渦中のブリジットに真実を打ち明けられない状況で、何が出来るのだろう。兵士としての動物的本能が、直感を研ぎ澄ます。――確かに、アボットの魔手からブリジットを逃がすのは困難だ。やつは彼女が如何に小さな障害であろうと、地の果てまで追ってくるだろう。小さな混沌が、頭の片隅で蠢く。……逃げられないなら、打ち負かすしかない。己が内の獰猛な獣が、鎌首をもたげる。傷ひとつないお上品な手に、研き抜かれた牙を突き刺せばいい。
幾らか不安の混じった呼び声が、下階より掛けられる。どうやら夕餉の用意が整ったらしい。大丈夫、お前はもう何も恐れなくていい。こいつは俺の戦いだ。誰も何も知らないままに、全てを終わらせる。




