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奴隷邂逅【改訂版】  作者: 紙谷米英
11/15

冷血老人【11】

【21】


 曇天がボイコットでも起こしたのか、最近のヘリフォードは青く澄んだ快晴に見舞われている。穏やかな陽光の下でのランニングを終え、シャワーで清めた身体をソファに沈めてテレビを点ける。数秒の遅延の後、でぶの中年男性が報道機関にマイクで四方から殴られる画が、液晶画面に映っていた。――ああ、こいつか。つい先日も奴隷制度にまつわる裏取引とやらで追及を受けていた、マーティン・アボット議員だ。どうやら決着がつかないらしく、未だメディアのちょっかいを受けている次第だ。特殊部隊としては煩わしいだけのマスコミ連中だが、叩かれているのがいけ好かない政治屋なのもあって、この時ばかりは彼らに賛辞を送るのもやぶさかではなかった。腐れ文民め、ざまあみろ!くそ野郎の苦悶に引きつる面で満足したので、幼児向けの教育番組にチャンネルを変えた。

「朝食が出来ましたよ」

 視界の隅を、ブラウンのメイド服が掠める。紅茶のカップを両手に持つブリジットの呼び掛けで、ソファから腰を上げる。ダイニングテーブルに並んだ食事から、まどろむ胃袋を揺り起こす芳香が漂う。席に着く直前に、壁に掛けた英陸軍のカレンダーへ目を向けた。――八月の十五日。日付の下に、赤のインクで追記がある。「ヒルバート様のお誕生日」と。この歳になってはめでたくもないが、仮とはいえど恋人に出生日を憶えていて貰うのは嬉しい。ハッピーバースデー、おめでとう三十路。逃れ得ぬ現実に悲壮感が駆け抜けたので、さっさと朝食の席に着いた。

 食事を口に運ぶ間、ブリジットは終始にこやかであった。こんな塩梅の彼女は、何かしら企みを孕んでいる。事案の中身に大方の予想は付くが、問うのは無粋と、自分から切り出しはしなかった。

 食事を終えて玄関先でブリジットから鞄を受け取り、彼女の方から優しいキスを貰い、玄関を抜ける。とうとう彼女の口から誕生日に関する情報は出なかったが、自らの内だけで温めておきたいのだろう。その分も期待して、愛車のペダルを踏み込んだ。


 毎度の検問を抜けた先、照り返しが激しい駐車場で車を降りる。平生なら同僚が集う本部ビルへ歩みを向けるが、今日は別の場所に用がある。クレデンヒルのSAS基地内に設けられた、医療センターだ。病院と称するには少々清潔感の欠けた施設のガラス戸を開き、受付のおばちゃんに挨拶を済ませる。取り立てて彼女に非はないが、ブリジットの顔が如何に素晴らしい造形かが分かる。遊び心が溢れる故、神は残酷である。

「おはようジェニー。先生に会いたいんだけど」

「アーリー先生なら空いてるわよ。診察かしら?」

「そんな感じだよ」

 恰幅の良い看護婦が、内線で何やら伝える。幸い、今日の医療センターは閑古鳥だ。ジェニーは背後の抽斗から、俺の診察履歴が記録された書類を肥えた指で探り当てた。

「いつもの診療室でお待ちよ。彼、貴方がまたここに来る様になってから機嫌がいいの」

「そいつは複雑だね」

 かねてより自分を悩ませた患者に快方の兆しがあるのだから、肩の荷も下りるだろう。担当医の彼にも、随分と迷惑を掛けた。今度、お気に入りの葉巻でもプレゼントしてやろう。

 書類の茶封筒を小脇に指定の診療室へと足を運び、引き戸をノックする。汚れた戸板の奥から、まったりとした返事が寄越された。了承を得て入室した先に、白衣を着崩した男性がデスクに肘を突いていた。知命を幾ばくか過ぎ、それなりの口髭を湛えるこの御仁こそ、俺の掛かり付けたるベン・アーリー医師である。

「やあヒルバート、三日振りだね。何か変わりは?」

 言いながら手振りで着席を促され、腰を下ろす。

「特に変化はありません。倦怠感もかなり和らぎました」

 患者の現状を受けると、彼は満足げに首肯した。ベンは俺が連隊に入った頃からいる医師だ。専門は内科だが、こうして戦地で心的外傷を受けた帰還兵のカウンセリングも担当している。もっとも、彼が受け持つ患者は大概が精神を病んでいるか、前夜に飲み過ぎて胃薬を欲しがる酔っ払いなので、専業の方はかなり出番が限られる。だのに、彼は進んでD中隊専属の心療内科医を担ってくれている。

「処方した薬はちゃんと飲んでいるかな?」

 訊問と同時に、ベンが前時代的な額帯鏡を覗き込む。「様になるでしょ?」という理由だけで、耳鼻科でもないのに装備しているのだ。

「ええ、恋人が管理してくれるので」

「ならよかった。彼女には、私からも礼を言っていたと伝えておくれ」

「そうします」

 額でぎらぎら光る円盤が、定位置へと跳ね上げられる。ベンの診療を受け始めたのは、三年ほど前からだ。数人の医師を巡って辿り着いたのが彼だったが、当時の俺は誰も信用出来なくなっていたし、平穏な環境に身を置く医者の理解など得られないと、自らの心を固く閉ざしていた。他人に傷心を踏み荒らされるくらいなら、と素人判断で病院通いを止めていたのだが、つい先日から再び世話になり始めた。やはり大切な人と暮らすには、互いの為にも健常な心身でいるに限る。過去への踏ん切りという着地点を見出す目的で、自分の傷口と真っ向から殴り合う決意を固めた。

「まだ飲酒を続けているらしいね」

「ええ。でも深酒は止めました。今は恋人に付き合うくらいで」

 その恋人が結構なうわばみである事実は伏せておいた。

「飲酒後に頭痛は?」

「いいえ、全く」

 ベンが満面の笑みを浮かべる。戦場で精神を損壊した兵士は大半が悪夢に苦しみ、過度のアルコールの摂取に走る傾向にある。次第に廃人化する心身に歯止めは効かず、戦場を知らぬ一般人は彼らに社会の落伍者の判を押す。命からがら母国に戻った帰還兵が、帰る場所を失ったら?その先を、現代社会は言及すべきである。

「……今の生活に不安は?」

 ベンの口調が緊張を帯びる。この問いには即答しあぐねた。確かに現状は充実している。家は片付いているし、座っているだけで紅茶が出てきて、仕事を終えれば温かな夕食と甲斐甲斐しい彼女さんが待っている。歯車を総取っ替えした具合に、世界が変わった。過去に囚われて止まっていた時間が、目まぐるしく動き出している。それでも、全機能が健全に動作しているとは言い難かった。

 目下、ブリジットと俺は一つ屋根の下で同棲している。互いに恋情を抱く間柄で、かつての「奴隷と主人」なる垣根は取り壊されている。この上で何を望むか。明快だ、男なら尚更に。

「先生……その、〈バイアグラ〉の処方を願いたいんですが」

 余りに情けない申し出にお医者様は腕を組み、低く唸った。そもそも、この医療センターにあの青くて菱形の錠剤はあるのだろうか。ベンは唇を噛み締めて、そっと言葉を紡いだ。

「余りお奨めは出来ないな。そりゃあ世間的には、バイアグラやレビトラを用いたED治療は有効かもしれない。でもね、これは医者ではなくて一個人としての意見だけど、君の症状にはどうも……効果的ではない気がするんだ。心療内科医ではないから確実な事は言えないけど、あんなへんちくりんな薬物の手を借りずに、正々堂々と自分のご子息で闘いたいとは思わないかな」

 今度は俺が唇を噛んだ。高性能の精力剤を使用して彼女と行為に及んだとして、それは病を克服した事になるのだろうか。分からない。沸騰も寸前の頭を垂れて額を押さえる。

「こう言っては何だけど、焦っているんじゃないかな。君は幼少期から、辛い思いを経験し過ぎた。失った時間は短くない。残念ながら、その事実は覆せない。でも、無理に急いて見切り発車をしたら、せっかく乗ったレールから脱線してしまう。そうは思わないかね?」

 三十路を踏んで十時間も経っていない身では、彼の様には割り切れない。外面もなくうんうん呻く俺に、ベンは力を抜く様に言った。

「そう肩肘を張ってもしょうがない。まずは今後も彼女と暮らして、様子を見てはどうだい。彼女がすぐにでも君と性交渉を持ちたくて仕方ないのであれば、それから対応を考えよう。聞いたところ、その子の身持ちは固いみたいじゃないか。ゆったりと構えておきたまえ」

 精力剤を処方してくれない事には納得していなかったが、それ以上は何も言えずに首肯して、診察室を退出した。この歳になって、オスとして焦りを覚えているのは否定出来ない。何しろ三十路で童貞だ。とても周囲に言いふらせたものではない。おまけにこの頃のブリジットは胸を後頭部に当ててきたり、ベッドの中で脚を絡ませてきたりと、露骨に肉体的なスキンシップを取ってくる。生殺しと不甲斐なさから、急かないのが異常というものだ。ホモでない限り、性欲に抗える兵士はいない。

 受付で内服薬を受け取ると、ようやくで職務に向かう。本部ビルの自分に割り当てられた個室に赴く途で、書類仕事をほっぽり出してぶらついている親父殿が視界に入った。手にした握り飯――でかいエビのフライ……ではなく、天ぷらが刺さってる――をもぐもぐやりながら、施設内の各部署を冷やかしに練り歩いているらしい。他人の迷惑などいざ知らず、今にも情報班の部署を襲撃しそうだったので、駆け足に近付いて肩を捕まえた。

「奥さんに仕事押し付けて何してんだよ」

「あいつ綺麗だろ?誰にも触らせねえぞ」

 あーん、会話にならない。突如と襲来した眩暈に、目頭を押さえる。丁度十六年前に北アイルランドで拾われた時、少なくとも俺の目には輝いて見えていた男は何処へ。あわや涙が零れるという間際、鼻先に小奇麗な装丁の小包が差し出される。「終戦おめでとう!」と、メッセージの書き殴られたメモが添えられている。

「何さこれ」

「パパから息子への愛だよ」

 そうしてウィンクしつつ小さく舌を見せる。首筋にさぶいぼが立った。警戒しながら小包を受け取ると、早く開けるようにせがまれる。止せよ、そうがっつくな気色悪い。暑苦しい期待の眼差しに耐えて、飛翔する鶴の和紙包装を破くと、イギリスには珍しい上品な桐の箱が姿を現す。おっかなびっくり蓋を上げれば、綿の敷き詰められた中央に、細い棒切れが収まっていた。小耳に挟んだ限りだが、へその緒ではあるまいな……。震える指で取り上げて光にかざすと、飴色に彩られたマーブル模様が透ける。どうやら干からびた肉ではなく、べっ甲で出来ているらしい。

「日本の職人が作った『ミミカキ』だ」

「耳……牡蠣?」

 貝の干物か……?

「中途半端に言語を憶えるからそうなるんだ、馬鹿者。いいか、こいつは『耳掻き』といってな、自然な流れで女の子に膝枕をして貰える戦術兵器だ。本国じゃあ、こいつを使った風俗店まで開かれてるんだぞ」

 何故に仕事で使わない言語について糾弾されているのか釈然としないし、そんな知識は要らなかった。確かに日本語はかつての敵性言語ではあったが、五十年も前の話だ。

「要するに、耳掃除の道具だ。いいな、絶対に自分で使うなよ」

「使えない物をくれるなよ」

「じきに分かる」

 親父は含み笑いで言い残すと、情報班の邪魔へ足早に駆けていった。しまった、不可解な誕生日プレゼントで頭を悩ませている隙に、厄介なネズミを逃がしてしまった。憐れな情報班に憐憫を寄せながら、受け取った小箱をパンツのポケットに収めた。

 個室で真っ黒の戦闘服に着替え、一時間遅れでキリングハウスに到着する。細長い建築物群は既に何枚ものドアが吹き飛ばされて、荒廃した第三世界の様相を呈していた。いいぞ、もっとやれ!

 キリングハウスでのCQB訓練に合流し、同僚と窓や壁をぶち壊して休憩を挟み、午後は屋外の広大な射撃場で自前のライフルを構え、しばらく蔑ろにしていた狙撃に勤しむ。八百メーター離れた標的のブルズアイを初弾で撃ち抜くと、興奮ににやけ面が直らなくなった。ライフルを担いで本部ビルへ戻る時はステップを踏みそうなくらい上機嫌で、鼻歌まで吹かしていた始末である。終業時には同僚からそこそこ高級な酒を貰うと、これほど幸福な誕生日があっただろうか!余りに浮かれていたので、ダニエルが俺の紅茶にしこたま塩をぶち込んでいたのにも気付かなかった。あの野郎、ナメクジだったら死んでいたぞ。


 職務を終えると同僚から飲みに誘われたが、後日誘ってくれと丁重に断りを入れた。祝ってくれる厚意は嬉しいが、やはりあの子の健気な思慕は裏切れない。気を抜けばふわりと浮きそうな身体を何とかBMWに乗せると、帰路へ緩やかにアクセルを踏み込む。いつの間にやらダッシュボードに置かれた消臭剤が揺れ、俺の不在時に交換されていたタイヤが家路を踏み締める。日常生活の至る所に、あの子の影が垣間見える。ガムまみれで塗装の剥げたゴミ箱や、道端の犬の糞さえ輝いて見えた。

 かつてない程の安全運転で帰宅し、愛車をガレージに停める。通りに面した窓から、生活感が零れている。誰かが自分の帰りを待つ暖かい暮らしが、今や自分の周囲に散らばっている。現実離れした環境に、だらしなく頬が緩む。貰った酒瓶の紙袋を抱えて鍵をドアに挿し、錠を解く。ありふれた金属音に、たまらない充足が湧き起こった。肘でドアノブを押し下げ、僅かな隙間に爪先を差し入れてドアを開く。シリアルの箱がはみ出す袋を抱える父ちゃんの動きで、身を滑り入れる。瞬間、家中に漂う芳しい香りが鼻を酔わせた。部類が普段よりも多く、果たして何品目の用意があるか知れない。

 大量のガラス瓶がぶつかる音を聞き付けて、両手にミトンをはめたブリジットがキッチンから駆けてくる。暗く湿った地下室で配線を弄っていた頃は生じ得なかった、柔らかな火が心に灯る。そのともしびが、今はただ愛おしい。

「お疲れ様です。お風呂の用意が出来ていますが、如何致しますか?」

「シャワーは基地で済ませてきた。何も食ってないんだ、空腹で死にそう」

 メイドさんは朗らかに微笑むと、やにわに主人の手を取ってダイニングへと誘導する。珍しく、子供っぽい一面を見せてくれる。廊下を抜けた先ののダイニングテーブルには、中華で言うところの満漢全席に匹敵する量の皿が配されていた。数種類の前菜がテーブル外周を彩り、その隙間を埋める様にラザニアやソーセージが配置されている。中央に大きな空間が取られており、今はただ鍋敷きが置かれている。取り分け強い主張を放っているのが、籐のバスケットに盛られたガーリックバゲットだ。焼き目が程良く付けられ、こってりとバターが染みている。恐らく、生地から作ったのだろう。この子は凝ると、際限なく尽力する傾向にある。主人がまだ眠る夜明けから、せこせこ小麦粉を練っていたのだろう。甲斐甲斐しいやつめ。籐籠の隣にはでかいステーキ肉が、グレービーソースの布団を被って横たわる。品目を数えている間に、ブリジットは調理場から巨大な寸胴を運び、テーブル中央に配した。二人分にしては多過ぎるビーフシチューが、香辛料で胃腸へ手招きする。

「驚いたな。一人でやったのか?」

 小さな料理長が、無言で胸を張る。同年代と比較して控えめなおっぱいが強調されて、心臓が小躍りする。促されるままに食卓に着くと、手許のワイングラスに、食前酒としてドライ・ベルモットが注がれる。白葡萄の甘い香りが立ち昇り、食欲が唾液を垂らして頭をもたげる。諸々の刺激に酩酊してると、左腕にブリジットの指が絡み付いてくる。数秒で彼女の繊細な手が離れると、真新しい腕時計が黒光りしていた。

「お誕生日、おめでとうございます」

 頬に柔らかな唇が触れ、ほのかな潤いを置いて離れる。今日までかなりの回数を受けた筈だが、今のは相当におもはゆかった。

「ブーツにしようかとも迷ったんですけど、サイズの都合が付く方が良いかと」

 そう言ってはにかむ彼女は、祝っている側のくせにやたら嬉しげである。礼と一緒に小さな頭を抱き寄せて撫でると、目尻を垂らして頬を緩める。何処ぞの変態が吹き込んだ知識の所為で『忠犬ブリ公』なる洒落が思い浮かんだ。やはり、血は争えない。

 ブリジットが向かいの席に着き、自分のグラスにも白のベルモットを注ぐ。どちらからともなくグラスを低く掲げ、ガラスのボディを軽く打ち合わせる。ワイングラスの正しい乾杯ではないが、これくらい俗っぽい方が構えずにいられる。同時に薄黄緑の液体を口に含み、そっと口内で転がす。醸造酒としては高めのアルコールが粘膜に染み渡り、未成年の知り得ぬ多幸感が内側から広がる。胃が十分に温まったのを見計って、取り皿にポテトサラダがよそわれた。ジャガイモの塊は大き過ぎず小さ過ぎず、口に含むと適度な歯応えが返ってくる蒸し具合だ。俺が料理を一口やる度に、ブリジットは嬉々として矢継ぎ早に次の一品を勧めてくる。ここまで興奮している彼女を目にするのも久しい。半ばバービー人形の如き扱いを受けながら、腹と心が満ちてゆく心地があった。


 貰った〈トレーサー〉の腕時計の長針が一回転した辺りで、胃の拡張の限界が訪れた。とはいえ、肉やパンといった皿は美味しく平らげたし、残っているのも寸胴シチューと僅かなサラダくらいだ。普段の数倍の食物を腸に収められたのは、他ならぬブリジットの祝意に年甲斐なく舞い上がっていたのが大きい。ぼっこり盛り上がった下腹部をさする最中、食卓の片付けを終えたブリジットがミキシング・グラスで液体を掻き混ぜる音が耳に優しい。程なくして見憶えのないカクテルグラスが眼前に置かれ、マティーニが注がれる。俺がオリーブの実が嫌いなのも、好みで香り付けにレモンピールを絞るのも、彼女はこの二箇月に満たない期間で知り得ていた。オリーブ成分ゼロのマティーニからは、レモンの爽やかな香りと〈ボンベイ・サファイア〉のジュニパーベリーを始めとする香辛料が息吹を発し、霞みの掛かった複雑な快楽を脳に演出してくれる。慣れないカクテルグラスを目線まで掲げ、高アルコールのカクテルをやおら口に含む。口腔の粘膜が焼かれる感触を、酒の神と恋人への敬意と共に味わった。メンソールの様に鼻腔を突き刺す痺れが通り過ぎると、じぃんわりと乾いた苦みの余韻が漂う。――美味い、この一言に尽きる。既に五杯程の酒を干した身に、とうとう甘い酔いが回ってきた。脱力して背もたれに身体を預けると、左の大腿に硬い感触がくつろぎの邪魔をする。ポケットを探って誰何すれば、親父から受け取った桐の箱であった。蓋を開けば勿論、飴色に煌めく工芸品が仰々しく収まっている。

「なあブリジット、親父からこいつを貰ったんだが……」

 白く輝くダイキリのグラスを手に着席したメイドさんに棒切れを見せると、彼女はぱあと満面の笑みで深い関心を示してくれた。

「あら、日本の耳掻きですね。しかもべっ甲ですか?珍しいなあ」

 何で知ってるんだ。イギリスという土地は――まあ、欧州全般はそうだが――耳孔の清掃に綿棒を用い、その他の道具は格別扱わない。そのイギリス国民たるブリジットさんの視線は、俺が指先でつまむ棒切れに注がれていた。ダイキリを一口で干した彼女は、とろんと熱の籠もった瞳で囁き掛ける。

「ねえ、その耳掻き……試してもいいですか?」


 満腹で脳が麻痺する身でさえ状況の把握が叶うのは、ひとえに心身を連隊で痛め付けたからか、はたまた単に現実味を帯びぬ現況への猜疑心からか。今や、そんな問いは何処かへ投げやってしまうのが適当だろう。ゴミ箱ぽい。

 うちに来て長らく使っているソファに、ブリジットが腰掛けている。その手に、べっ甲の耳掻きが握られていた。手前のテーブルには、水の張られた器と綿棒のケースの用意がある。ここに来て、親父の戯言の意味を悟った。

「ささ、こちらへ」

 アルコールで少々頬を赤らめたブリジットは、スカートに包まれたふとももをぽんと叩き、蠱惑的な釣り針を垂らす。反射的に、欲望の生唾が口内で糸を引く。まるで食虫植物の蜜に誘因されるハエよろしく、ふらりと千鳥足に歩み寄ってしまう。墜落寸前のヘリコプターみたいな足取りでソファに接地するなり、ブリジットのおみあしへとだらしなくしな垂れ掛かった。シルクのエプロンが火照った頬に優しく、酒とは一線を画する重い香りが感じ取られた。

「ふふっ、いい子いい子……」

 硬い頭髪を潤いある指の腹が掻き分け、頭皮に慕情が降り注ぐ。枕にしている心地良さに、寝入りそうになってしまう。

「それじゃあ、掃除していきますね」

 初体験に心臓を高鳴らせつつ身構えていると、綿棒のかさついた感触が耳に触れた。どうやら、最初は耳掻きとやらを使わないらしい。

「ん……ここもね、意外と汚れるんですよ……」

 耳孔ではなく、その周辺の耳殻の壁や耳裏に溜まっている垢がこそぎ落とされる。実に丁寧な仕事に、嘆息を禁じ得なかった。

「あら、お耳が熱くなってきた。お酒が回ってきましたか?」

 うちのメイドは意地悪だ。柄にもなくぷいと口を尖らせていると「冗談ですよ」と頬にキスの詫びを入れられる。これだから憎めない。耳殻の垢が削り取られると、落ちたカスをそっと拭い取られる。これだけでも、少し清潔になった心地だ。

「それでは、お耳の中に失礼しまぁす……」

 何処か官能めいた囁きが、吐息に乗って聴覚を直撃する。桃色の大規模爆風爆弾の炸裂で背筋が粟立つと同時に、快い酔いが彼方へと吹き飛んでしまった。理性の城塞の跡地には、剥き出しの期待と色欲だけが取り残される。やがてべっ甲の固体らしからぬ軟らかい質感が、外耳道の入り口にあてがわれる。そうと穴の壁に沿って扁平な先端部分が進み、中程で壁の垢を剥がす作業が始まった。これが他人にして貰うと存外にこそばゆく、手探りに自分でやるよりも明らかに有効なのが分かる。加えて、耳の内を擦る音が、不思議と安らかな情感を呼び起こす。

「痛く、ないですか?」

「うん、大丈夫」

 ブリジットは上機嫌に笑むと、再び緻密な作業に熱を上げた。ヘラが皮膚を掻く度に、ぞりぞりとおっかない音が木霊するのだが、慣れるとこれが癖になる。小刻みな掘削音に身を任せていると、遂に切っ先が最奥に到達した。

「あらら、結構溜まってますよ」

 何やら大変に恥ずかしい。繊細な指遣いで鼓膜周辺に張り付く耳垢を剥がし、次々と汚物の塊を掻き出していく。包み隠さず言えば、幼少期にこういった経験がない所為か新鮮味を覚えると共に、無償の母性の享受に少なからず動揺していた。自分如きが斯様な感情を抱いてよいものかと束の間をよぎりもしたが、すぐさま改悛した。もう、無駄な悔いは捨てたのだ。これくらいの恩賞があっても、誰も責めまいて。

 でかい耳くその石が掻き出される毎に、耳孔に新鮮な空気が取り入れられる錯覚を抱く。ブリジットは巨大なくそを排除すると「大きいの取れた」と、喜びを露にする。何がそんなに面白いのか計りかねるが、止める理由もないので好きにさせた。

 主立った堆積物を除去し終えると、ぐでんと無警戒に脱力したところへ、出し抜けに生温かい吐息が吹き入れられる。たまらず背筋を反らせて素っ頓狂な叫びを上げたが、小憎らしい恋人はしゃあしゃあと「びっくりしました?」と問うてくるので、怒る気にもならない。くすくすと鼻を鳴らす彼女はそれから綿棒を軽く濡らすと、今しがた掘っていた耳にそれを挿入した。

「冷たくないですか?こうやってお耳の中を拭くと、残った汚れがよく取れるんですよ」

「へえ……」

 他人にやって貰う耳掃除の趣を知った今や、自分でやる選択肢はないだろうが。しっとりと湿り気を帯びた綿糸が、熱された耳の血管を程良く冷やしてくれる。成る程、確かにこいつは気持ちがいい。

「ん、水は残ってないかな……。はい、じゃあ反対のお耳も見せて下さいねー」

 そう告げるなり、ブリジットは有無も言わせず俺の頭を逆に向かせる。おいおい、本気か?耳掃除を止めさせる気は更々ないが、今までテレビの方を向いていた鼻先は、事もあろうに彼女のデリケートゾーンの延長線上の被服に没した。その点に気付いているか定かではないが、ブリジットは相変わらず自分のペースで事を進めている。否、彼女の場合は意図してやっている節が濃厚だ。地上最強のSASといえど、酸素なくしては死んでしまう。耳の中をごそごそやられるのも忘れて息を止めていたが、アルコールで血流が盛んな身では一分と保たない。遂には折れて、鼻腔から諸々の物質を吸入してしまった。途端、平時に触れる空気とは明らかに異なる、重く濃厚な雌の色香が肺に侵入。直後に肺胞の一つひとつに至るまでが、あたかも桜の如く開花する心持ちに至った。神経ガスに匹敵する威力で脳を侵されたところに暇も与えず、ブリジットの電撃戦は止まるところを知らない。

「おっと、大物を発見……」

 高圧蒸気でも吹きそうな俺の頭――まるで一触即発のバルカン半島の如き爆弾と化したそれに止めを刺したとすれば、正にこの時の彼女の行動だろう。余程狩りたい獲物だったのか、その姿をしかと捉えようとブリジットは俺の耳に顔を近付けた。必然的に姿勢は前傾し、彼女の上半身は俺の顔面に強か接する。これが何を意味するか、結論を述べよう。たった今、片頬にブリジットのおっぱいが当たっている。滑らかなシルクのエプロン、実用性を重視した被服のその向こう、ワイヤーの入った硬い感触を通しても隠し切れない若い弾力と、桁違いに強烈なフェロモンの色香が、積んだ過去を時空の彼方へ抹消し、俺の意識は細胞レベルで分解されて宇宙へと旅立った。須臾の時を浮遊した思念体は稲妻と化して自己の肉体へと再び勢い落ち、幽体離脱から復帰する。過去前例なき衝撃――それこそが、元マーティン少年を憎き戒めから解き放った。


「――うん、綺麗さっぱり。ヒルバート様、終わりましたよ。如何でしたか?」

 ぶっ飛んだ夢幻より覚醒した身体に、暴力的なまでのアドレナリンの濁流が血管を駆ける。訓練や実戦で味わったものではない。それでも、この感覚には憶えがあった。久しく相まみえなかった、旧知の友人と再会した心情。幼少期を共にした、懐かしき幼馴染み。姿なき彼に駆け寄り、その身を強く抱いた。「お帰り」と――。

「ブリジット」

「はい?」

 耳掃除の達成感に浸るブリジットはきょとんと首を傾げると、咄嗟に口許へ手をやり目蓋を見開く。その視線は、俺の下腹部で厳かにそびえる巨峰――数年振りに顕現なさった、我が愚息へと一直線に注がれていた。赤熱する勢いの血流は、海綿体を力強く復活、雄々しく天を衝かせた。幾らか平静を取り戻したブリジットが、そっと雇用主の顔色を窺う。もう、やるべき事は決まっている。静かに上体を起こし、愛する少女の名を呼んで肩を掴む。生半ならぬプレッシャーに、彼女は大きく身を竦ませた。その真剣かつ不安の混在する表情には、少なからず願望が含まれていると信じたかった。緊張で乾いた唇を唾液で濡らし、俺は一言一句を大事に発音した。

「ブリジット、こんなふざけた状況ですまない」

 愛する少女の瞳が、潤んでいた。もう、立ち止まる理由はない。

「お前を、抱きたい」

 目尻に溜まり、零れ落ちる感情を隠そうともせず、腕の中の恋人は力強く頷いた。

「喜んで……!」

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