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優しい日々





落下した先で、どぼんと水音がした。

彼は辺りを見回そうとするが、どういう事か目が開かない。

肌に触れているのが暖かい水だというのは分かったが、なぜ自分がその中で呼吸を確保できているかが分からなかった。


時折、水の向こうから声が聞こえる。

そしてずっと聞こえ続けているのは、誰かの鼓動。安心するような力強い確かなリズム。

指先を少し動かしてから気付く。

もどかしいこの身体は赤ん坊なのだと。そして此処は母親の胎内なのだと。


暖かい。

この中にいた時から、自分は疎まれていた。

前の自分を思い出し、彼は水の中で溜め息を吐く。

今は。

母親の手が外側を撫でている振動を感じる。

優しく思いを込めて囁かれる声が、自分を包み込む。

大事に慈しまれているのが分かる。母親というのはこうやって自分の子供を育んでいくのか。日々命を分かちながら。


泣きながら生まれたのは、本当に嬉しかったからだ。

心の奥底で望んでいた事に気付いたからだ。


「オオ。オレノコドモ。」

「…あなたの子ではありません。」


生まれてすぐに目の前にいたモノに、彼は視線を定める。


「オマエノコハ、オレノコダ。」

「…違います。」


母親の言葉に、それは項垂れて彼の目の前から立ち去っていった。

それがベッドの傍から離れていくのを、じっと見送った後母親は自分の腕の中の彼を見つめた。嬉しそうに目を細めていたが、急に屈み込んで顰めた声で語り掛けてくる。


「…あなたの名前は、アンブル。でもそれは真実の名前だから誰にも言ってはいけないの。だからアルと呼ぶわ。…私の可愛いアル。あなたの父親はもちろんあんな醜いホブゴブリンではないわ。あなたの父親は此処から遠いエルフが住む桃源郷にいるけれど、あなたも会う事はないと思うの。それでもね、あなたはあの人の子供なのよ。」


母親はアルにそう言って微笑みかける。

アルから見て、母親もまたエルフに見えた。

彼方で見たファンタジー映画に、こういう容姿の者が出演していて、誇り高きエルフと呼ばれていたはずだ。


それにしても。

また、琥珀という名前を付けられるとは。

転生というのは前の命を引き摺るがゆえに、色々と複雑なのだろうなとアルは思った。


アルの目を静かに見ていた母親が、不思議そうに頭を撫でてくる。


「アルには私の言葉が分かっているのかしら。」


指先が髪を撫でて、くすぐったい。

そう思った拍子に笑い声が出ていた。アルはびっくりしたが、母親はさらに嬉しそうに微笑む。赤ん坊の身体というのはどうやら自由にはいかないらしい。


アルの声を聞きつけて外に居たモノがまたベッドの近くに来る。

それが来た途端に母親の顔から笑顔が消えて無表情になるのを、アルはじっと観察していた。


「ワライゴエガ、キコエタカラ。」

「赤ん坊は笑ったり泣いたりするものです。」

「ソウカ。カワイイナア。」


その立ち上がった豚に似た生命体は、相好を崩してアルを見ている。

本当に嬉しそうに見えているが、母親が拒絶しているので、アルにはいかようにも判断が出来かねていた。



アルが生まれたのはホブゴブリンの村だった。

母親であるアージュは他のエルフの村から強奪されて、父親と自分で名乗っているボブに捕まっている。

アージュは此処に囚われる前に身ごもっていて、それがアルだったが、ボブは生まれたアルを可愛がりながらも、自分の子供をひどく欲しがりアージュに産ませようと必死だった。

まだ赤ん坊で動けないアルは、毎回母親が泣いて嫌がる光景を目を逸らして避けることしか出来ない。


そもそもホブゴブリンという種族は、多種族の雌どれにでも種付けが出来る種族で、アルとしては遺伝子構造を見てみたい気持ちにかられる。とは言っても多分、機械など無さそうな此処では解析も出来ないだろうし、素人のアルでは塩基配列すら分からないだろうと思われた。


母親から与えられる母乳が身体に浸みて栄養になっていくのが分かる。

それと共に母親の愛情が自分に満ちていくのも分かる。

アルは確かに生まれ変わって、自分がやりなおしていくのを実感していた。



やがて、立ち上がり歩けるようになると、ボブがアルの手を引いて辺りを散歩に歩くようになった。

ボブは、道に生えている草や空を流れる雲など、アルの興味ある物に一緒に目を向けて眺めては感心し、一緒に楽しむことが出来る先進的なホブゴブリンだった。


母親を閉じ込めているものの、愛情があるのだという事はその待遇の良さで分かっていた。ただ、母には思い人がいることからその全てを拒否していたし、実質、多種族を蹂躙し破壊して強奪をするのが生活の根幹であるホブゴブリンと、他の種族が分かりあう事は不可能に思えた。


アルは何処の世界でも、個々と集団とでは意見が変わってしまうものだと知っていたが、両方に接していると判断しづらくなるのは面倒だなと思っている。


アルが三歳を過ぎた時に、ボブが襲った人間の荷物の中から絵本を持ってきた。

仲間には何か言われたようだが、気にせずに持ってきたのだという。

アルが興味を示した事に、アージュもボブも満足していた。

小さな声で初めてボブにアージュがお礼を言うと、まるで蕩けてしまいそうな顔でボブは笑った。…豚に似た顔だったけれどもそれはとても可愛い顔だとアルは思った。


それからボブはまるで何かの使命のように、人でもエルフでも襲った相手から、何がしかの本や手紙を奪ってはアルに持って来るようになった。

難しい本でも簡単な本でも関係なく、文字が羅列されているものなら何でも奪ってきた。ボブに他種族の字は分からない。ホブゴブリンにも字はあるのだがそれは酷く稚拙で簡単だったから、ボブは自分に分からないまま手当たり次第に持って来るしか出来なかったのだ。





ある日、またボブたちは人間を襲っていた。

美しい仕立ての馬車だったが何故か周りの護衛が少なかった。

ボブたちは大勢で狩りをするから、たとえホブゴブリンだけといえども少ない人間に手間取ることはない。

周りにいた鎧を着た人間の男達を一人残らず掃討した後、他のホブゴブリンたちが安い服を着ている女たちを襲っている間に、ボブは馬車の中を覗き込んだ。

アルに渡す本を探すために。


その中で人間の女を一人見つけた。

仲間に知らせようと思った時、小さな声で女が言った。


「助けて下さい。お腹に子供がいるんです。」


ボブはその女の腹を見た。

確かに妊娠していて大きくなりかけていた。

女は涙目で訴えている。ボブは困ったように首を傾げてから馬車のドアを中から閉める。周りに話し声が聞こえても困るからだが、女は襲われると息を飲んだ。


「…ハラノコガ、ダイジカ?」

「はい。」

「アイシテイルノカ?」

「?…はい、もちろんです。」


ボブはそっと溜め息を吐くと、女をぼろきれに包んで担ぎ、皆に見えぬように馬車の前から出て森の中を駆けていった。

ボブが本を漁って皆と違う行動をするのは仲間には有名だったから、離れても疑われない事は知っていた。


一時間ほど駆けると、人の村が見える場所に付いた。

そこに女を降ろし、ぼろきれから出してやる。

女はボブを見て不思議そうな顔をした。


「ココカラナラ、ジブンデイケルナ?」

「助けてくれるのですか?」


心の底から意外そうな顔で女が自分を見るのを、ボブは複雑な気持ちで見下ろしている。ホブゴブリンが人間の気持ちを理解するとは思わないのだろう。

以前のボブだったら女を皆に渡して終わりだったろう。

けれど今は、愛すべき二人がいる。

それに恥じないように生きるのが、今のボブの矜持なのだ。


「オレニモアイスルヒトガイル。…ソレガダイジナノハ、イッショダ。」

「…そうですか。有難うございます。」


人間の女は納得をした顔で頷くと立ち上がり、優雅にお辞儀をしてからゆっくりと村に向かって歩き出した。

きっと人間でいう貴族の女なのだろう。

それがボブに分かるのは、アルが読む本の中で出て来る知識を教えてくれるからだし、アルに分からない物はアージュが教えてくれるからだ。


ボブはアージュに自分の子供を産ませることを諦めている。

子供はアルがいるし、アージュの身体では自分の子供を生んだら死んでしまうだろう事は容易に想像できたからだ。

まだ一緒に居たい。

その気持ちが子供を断念させている。本能に抗うのは大変だったが最近では優しくすればアージュも拒まなくなってきているから、子供作りではない営みもまんざらではなかった。

ボブは素早く仲間に合流し、新しい本を手に意気揚々と村に帰った。

早く愛する二人に会いたい。


そして村の惨状を目にする。


村は業火で焼かれた跡があり、未だに焔が燻ぶって燃えていた。

一緒に帰って来た男たちも村の入り口で呆然と立っている。


ボブは慌てて自分の家に帰る。

そこも焼けていて元の形は留めていないが、中の人は無事かもしれない。

アージュの部屋に駆け込むと、身体の半分ほどを焼かれたアージュが腹から血を出してベッドに寝ていた。

腹には大きな傷がある。


「…お帰りなさい、ボブ…。」


薄っすらと目を開けたアージュがそう言って、ボブに弱々しく右手を差し出す。

その手を取ってボブは何かを言おうと思ったが、喉がつかえて言葉が出て来ない。


「人間が来て、村を焼き払いました。…私のお腹にホブゴブリンの子供がいると面倒だからと腹を裂かれました。」


あの人間たちに男が少なかったのは、こちらに来ていたからかと思った。


「他の女性も同じようにされたでしょう。…私の回復魔法はこの地では頼りなくて、あまり効かないから…。」


もう喋るのを止めて欲しいと思ったが、それすらも喉がつかえて言えない。


「ねえ、ボブ。…わたし、あなたの事を嫌いではなくなっていましたよ?知っていましたか?」


ボブは小さく肯いた。

あの夜の営みの後に、アージュが微笑むのがとても嬉しかったから。

三人で笑って話せることがとても楽しかったから。

知っていた。


そんな事はとっくに知っていたのだ。


「ふふ。泣かないでボブ。…アルをお願いしますね…。」

「イカナイデクレ。ヨルノクニニナド。…イカナイデクレ、アージュ。」

「…あなたの事、もっと知りたかったわ。……ボブ……。」


ボブの手から力なくアージュの手が滑り落ちる。

息をしなくなったアージュの傍で、ボブは号泣した。

泣いて泣いて、声が枯れるまで泣いた。

そして気付く。

アルの姿がない事に。


慌てて家を出るが焼け地になっている村には狩りから帰ってきた男たちの他に、生きているものはいない。

仲間の一人が息も絶え絶えになっている子供を見つけて介抱している。

しかし誰の眼から見ても、助かりそうもなかった。

ボブも傍にいって、その子を見守る。

子供は目を開けると、ボブを見て困ったように言った。


「ゴメンネボブサン。アルハニンゲンニ、ツレテイカレタヨ。」


それだけを必死で言うと、子供はまた目を閉じた。


人間が全てを奪った。

ボブが咆哮を上げて人間に復讐を誓ったその時、村の外から大きな火柱が叩き込まれた。まだ人間の魔法使いが隠れていたのだ。

多分、自分たちが帰ってくるのを待ち伏せていたのだろう。

とっさに避けたボブの横で仲間と子供が黒く燃える。


「ウオアアアアアアアア!!!」


ボブが手斧を掲げた瞬間、またも魔法の火柱が立ち、ボブの身体を包み込んだ。

余りの熱気にボブはそれ以上なんの言葉も発せない。


(アル、アル!ブジデイテクレ!!)


ボブはそれだけを思いながら、アージュを追いかけるように夜の国に迎えられた。





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