琥珀という少年
蒔夏原 琥珀について。
彼は生まれた時から望まれてはいなかった。
母親は女の子しかほしくない女性だったから、生まれた時から放置されていた。
それでも最低限のミルクが与えられていたのは父親が不憫に思っていたからで、ミルクを与えている所を妻に見つかると喧嘩になる事に辟易はしていた。
そのうち、女子を妊娠した事が分かると母親の興味は自分の腹の中の子供に集中をしていったので、父親は隠れながらもおしめを代えて、ミルクを与えた。
ただ、仕事をしながらだったので、十分にはかまえずに放置されている時間の方が多かった。
琥珀が自分で動けるようになってからは、父親も放置するようになっていった。
新しい子供、自分の娘が可愛くて仕方が無かったからだ。
がりがりの身体ぎょろりとした目で自分を見られると、ぞっとした。
だから、買ってきたパンを置いて逃げるように琥珀から離れていく。
リビングでは暖かい家族団欒が繰り広げられ、琥珀は台所にダンボールで囲われた自分の居場所で水を飲み、パンを齧って眠る。
それが、この家の日常だった。
もちろん、琥珀が保育所や幼稚園に行く事はない。
妹が新しい服を着て保育所に出かけていくのをダンボールの壁越しに見送った後、父親が仕事に行ったのを見送ってから、母親がひとしきり暴力を奮う時間にも耐え、パートに出かける母親を見送った後に、やっと自分に時間が訪れる。
誰もいない家にじっとしている琥珀ではなかった。
妹は何だか新しい世界で、お遊戯をしたりお友達を見つけたり、父親がちょっと怒ってしまうような新しいカッコいい先生なる物に恋心なる心情を持ち、それらを日々体験として積み重ねていく。
自分では得られない世界を得ている妹が羨ましかった。
だから琥珀は外へ出て行く。
いける所は何処にでも行った。一晩琥珀が居なくても誰も心配はしない。
頑張って歩いて図書館にも行った。
図書カードは作れないから、ひたすら読めるものを読んだ。いろんな漢字や言葉を覚えるのは楽しかったし、この市は人口が多くて図書館も大きかったから、小さな子供が見つからないように隠れるにはもってこいだった。
ただ、家からは遠かったから、歩いて行くのに一日近くかかる。
大人はやたらと琥珀が出歩くのを喜ばないのは分かっているので、人目を避けるように歩いて辿り着くと、夕方になっている事はよくあった。
時間まで読んで、閉館時間になると琥珀は隠れる場所を探して隠れる。
朝になって開館時間になったら閉館時間まで読み、家に帰る。
ご飯を食べない事は苦痛ではあったが、仕方が無いと諦めることが出来た。
家に居ても最近はご飯をもらえない事がよくあったからだ。
そんな時は近所のコンビニのゴミをあさる。
図書館の帰りの弁当屋やファストフード店のゴミも魅力的だった。
おかげで飢えてはいるが生きていくことが出来た。
やがて小学校に入学する年齢になった。
母親は琥珀を殺して埋めればいいんじゃないかと父親に迫ったが、父親がそれを拒否したので、散々殴られた後に小学校に入学させられた。
ランドセルは古着屋で売っていた中古だし、着ていく服も古着屋の物だけれど一応まともな服になった。今まではずっと同じ服を着ていたから。
新しい教科書なるものは、琥珀にとって興味の対象にはならなかった。
書いてあることは知っている事がほとんどだったし、面白くもなかった。
ただ、小学校には給食があった。
それだけは良いものだと琥珀も思った。怒られず何も言われずに食事にありつける。
周りを見わたしながら食べ方を覚えて、浮かないように過ごすことは琥珀にもできた。
しかし、問題は山積みだ。
特に保育園から培われている人間関係におけるマウンティングには辟易するほどだった。誰が凄いとか誰が可愛いやカッコいいとか、琥珀には全く興味がない事で殴ってきたり蹴ってきたりする。
さすがに給食を取り上げられそうになった時は、喧嘩になった。
それ以降大人の前で琥珀に喧嘩を吹っかけては来なくなり、完全無視という状況を作り出して彼ら彼女らは満足をしたようだ。
琥珀にとってもそれは満足を得られる状況ではあった。
他人に構われるのは不愉快だ。
そっとしておいてほしい。
じきに周りからのいじめが始まる予感はあったが、それは行われなかった。
琥珀のテストの成績が常に百点だったからだ。
どうやら、外の見栄えの他に頭脳の優秀さも人間関係のマウンティングには関係しているらしい。
それは家の中でも同じだった。
父親が琥珀に興味を示しだしたのだ。
それは小学校高学年になっても変わることが無く、母親は琥珀に奮う暴力でその環境の変化に対する不満をはらしていた。
琥珀はそれを甘んじて受けていた。この頃になると琥珀にも世間の事や大人の事情などというものが分かってきていた。自分の母親はネグレクトという精神の病気である事、その病気は少なくとも本人が治したいと思わなければ治らないという事。
その眼が気に入らないと、母親の暴力が悪化していったが琥珀はそれを耐えていた。暴力のひどさに父親も妹も助けることが出来ずに静観していた。あるいは、この家庭では琥珀への暴力は日常なのかもしれない。
小学校を卒業して中学校に上がってからは、受験なる物が迫って来たが、琥珀は高校へはいけないだろうと踏んでいた。
母親がお金を出さないだろうと。
なにせ給食費や修学旅行の積立金を出す時でさえ、酷い言葉と暴力が付きまとうのだ。実質的にお金が掛かる高校などに行く事になったら、どんな事になるのか。
琥珀だって命は惜しい。
せっかくここまで生きてきたのだから、もう少し生き延びてみたい。
だから、中学を卒業したら家を出て働き、夜間の高校から通信の大学へ進もうと思っていた。そのためにはお金が必要で、琥珀は子供でも出来る投資に興味を持ち、その勉強も欠かさなかった。
やれることはやる。
それでだめだったら、また別の事を考える。
幸いにも琥珀に興味を持った父親にパソコンを買ってもらえた。
それで琥珀の世界が広がりを持ったのは言うまでもなく、この家庭の中で父親にだけは琥珀も感謝をしていた。
小さい時に助けてくれていたのが父親だと琥珀も知っていたからだ。
全てはこれから良くなるだろう。
母親の暴力に耐えるのはあと数年。それが終わったら家を出て働きながら好きな事をしよう。そう思うと生き延びた事に本当に感謝をしなければならない。
琥珀は通学のバスに乗りながら、そんな事を考えていた。
それなのに。
琥珀の目の前で大きな火の玉が爆発して、バスもろとも辺り一面が爆散した。