24幕 屋敷と思い出
11年間ほぼ毎日暮らし続けた部屋。バラントの施設に監禁されていた頃、何度も何度もノエルが繰り返し戻りたいと願った部屋だった。
「……」
しかし今、その部屋に戻れたという事に、不思議と嬉しさなどを感じる事はなかった。それは「俺」と彼女が混じって、どうしても主観的に見れないせいかもしれないし、本当に戻りたかったのはこの部屋ではなく、この家にいる家族の元だったからかもしれない。おそらくは後者の要因が大きいだろう。この家に戻ったところで、誰もいないのだ。
荷物、と言っても持って行く物などほとんど思いつかなかった。服も、どうしても必要な分は馬車で送って貰うとしても、そもそも第二次性徴期を迎える頃合。持って行っとしてもすぐに着れなくなるだろう。家具なども部屋備え付けのものがある以上、ほとんど必要なものなどほとんどないように思えてしまう。
ふと、自分の勉強机が目に入る。
机に手をかける。思い入れがあるとすれば、この机が一番だろうか。勿論、場所をとるそれは、持って行く事は出来ないが。
(思えば、勉強ばかりしてきたような気がする……)
魔術の才能が現れてから、ノエルはその一日のほとんどを魔術の向上に費やしてきていた。昼は家庭教師に就いて魔術の実践を学び、夜は父さまの買ってきてくれた魔法書で理論を進めた。
その時は何故自分がそう必死になるのかわからなかった。自分が何か具体的な何かになろうと思ってやっていた訳ではない。しかし今ではその理由がはっきりとわかる。それはナオキという記憶が混ざったことで、俯瞰的に見れるようになったからかもしれない。新しい魔法が使えるようになったり、周囲の人間に注目される度、父や母、それに屋敷の使用人達が皆喜んでくれたからだった。もっと褒められたい、もっと喜んで貰いたいと、その為に必死になって魔術を日々研鑽してきたのだ。
ここでは色々な事を学んだ記憶がある。勿論、本当は俺が直接経験した事ではないかもしれないが、記憶がある以上俺はそれをはっきりと覚えている。机を見ていると、その記憶が次々に脳裏に浮かんでくる。
文字の書き方、読み方すらこの机で教えて貰ったという事を思い出す。深夜に父を起こして、読めない単語の意味を教えて貰った事も思い出す。褒めて貰った事を思い出す。
『ノエル、ここの文字はこうじゃなくてこう書くのよ』
『しかし、もうこんな本を読んでいるのか。凄いな、ノエルは』
『偉いわ、ノエル』
「……え」
その映像が脳裏にとめどなく流れている中、ふと気づけば、俺は涙を流していた。
「わ、なんで……」
そう感情が高ぶったつもりもないというのに、どうしてだか急に視界が滲んで涙が止まらなくなる。押さえ込もうとしても、次々にその涙が溢れ出してきて止まらない。
(なんだ、どうした……)
その涙につられて、俺は自分が悲しみの感情がこみ上げてきていることに気づく。身体に引っ張られて、自分の感情が追いついていく。
気づけば俺はその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らしていた。俺が経験したことではないはずなのに、頭の中にあるその記憶が、俺をそうさせる。今は間違いなく俺がノエルなのだと、嫌でも思い知らされる。
ただただ悲しいという感情が、自分を襲う。
「……大丈夫か?」
まさか、よりによってこんな時に部屋にやってくるとは。
遅い俺の様子を見に来ていたのだろう。スバルが部屋の入り口に立っていた。見られたくないものの、流れ出る涙を引っ込めることが出来ない。それどころか、感情は益々強くなり、あふれ出し、引っ込みが付かなくなっていく。
彼も彼で、どうすればいいのかわからないようだった。どこかへ行ってくれれば良いのに、と俺は願う。恥ずかしく、こんな状態を見られたくなかった。
ベッドの傍までなんとか移動して、顔を埋める。今はこの顔を見られたくなかった。
「……」
やがて、両肩に手を置かれる。そうしていいのか悪いのか悩んでいるような、恐れるような手つきだった。
「俺も、両親を亡くしている」
と小さな声で彼は言った。慰めようとしてくれるのだろう。それは俺でもわかる。肩に置かれた手が暖かい。
「お前と違って殺された訳ではないから、気持ちがわかる訳じゃない。でも、親の事を思い出すと俺も辛くなる。俺は幸いにも、トインビーに拾って貰った。勿論、あいつにも何かの目的があるからそうしてくれているんだってのはわかってる。お前と似たようなものだ。だからといって、全部が全部、お前の気持ちがわかるとはいえないけど……ええと、何がいいたいんだろうな。すまない、口下手なもので」
「……ふっ」
彼の不器用さが伝わってきて、悲しい感情で頭がいっぱいだったはずなのに、どこかおかしくて笑えてしまった。不器用だとしても、こうして悲しみを共有しようとしてくれるのは助かる。2人では上手く悲しめない。
「ありがとう、ちょっと楽になった」
涙で濡れた顔を手で擦りながら俺はそう言った。笑えたことで、少し気分が楽になった。
「……そうか」
スバルは少し嬉しそうな顔を見せた。初めて見る表情で、そんな顔が出来るのかと意外に思った。
☆
気分が落ち着いた後、スバルと共に荷物を整理した。と言っても、必要な物などほとんどなく、今すぐ持って帰る物にしても、思い入れのある筆記用具と本が数冊程度だったが。
荷物整理をしている間、俺とスバルの間には必要最低限の会話以外なかった。泣いている所を思いっきり見られてしまったという恥ずかしさ、それを慰めて貰ったという申し訳なさ、涙が出たせいでまぶた周りが赤く腫れている状態を見られたくないという気持ちと様々な感情が交じり合ってしまい、意識的に顔を合わせないようにしていた。
スバルの方は俺の事を心配してくれているのか、こちらにちらちらと伺ってくれていた。それを敢えて気づいていないように無視をした。勿論心中は穏やかではなく、罪悪感に溢れていた。それでも顔をあわせ辛かった。
屋敷警備達に荷物の事を伝えると、俺は今すぐ必要な荷物を鞄に詰め、庭先の龍の元へ出て行く。リストニアに長居をする必要もなかった。
「――風よ」
先程と同じように、スバルが風魔法を使って龍に乗せてくれる。
「ありがとう、ございます」
と俺は顔を逸らしながら言った。
「ああ」
特に気にしていないと言った風に彼は言うと、風除けの魔法を発動させて、龍が飛び上がる。彼には色々として貰っているのに、それに対して失礼な態度をとっている。幸い、屋敷の洗面所で顔を洗っていたので、顔の腫れは少しはマシになっているハズだった。いつまでもこのままではいけないと思い、少し飛んだところで俺は話しかけることにした。
「……あの、」
「なんだ?」
相変わらず淡々とした口調ではあったものの、その言葉からは、今朝感じられたような刺々しさは不思議と感じられなかった。
「ええと、」話しかけてみたはいいものの、特に話題を考えていない事に気づき、自分の考えなしの行動に内心苦笑いをする。「ええと……そ、そう、この龍って、なんでカーペットがついてるんですか?」
「ああ。先代が鱗嫌いでな」
「先代? お父様の事ですか?」
「そうだ。それでも移動時には、うちの中でもマカロンが一番脚が早いから、苦肉の策として貼り付けたんだ」
「……マカロン?」
随分と可愛らしい響きがしたので、まさかと思いながらも尋ねる。
「ん? この龍の名前だが?」
「……ふふっ」
至極当然とでも言いたげなその返答に、思わず笑ってしまう。
「どうした?」
「いや、だってマカロンって、マカロンって……」
ツボに入ってしまって、どうにも笑いが止まらなくなる。おおよそ龍に似つかわしくない可愛らしい名前だ。
「先々代が名付けた名前だ。意味はわからないが、厳格のある名前のように思える。先代はその名前を気に入っていなかったようだが……そんなにおかしいか?」
「確かに、品はあるかもしれませんけど……」
そういえばこの世界には、マカロンというお菓子は存在しない。笑いすぎてお腹が痛くなりながら、俺はそう言って息を整える。この世界の人間のセンスがおかしいのではない。スバルがおかしいのだ。あまりに真顔で言う物だから、それがまた俺の笑いを酷くする。彼は天然なのかもしれない。
「でも、先々代から、という事は、随分とお婆ちゃん龍なんですね」
笑いがそこそこ落ち着いてから俺は聞いた。
「そうだま。うちに来た時には既に70歳で、それから70年うちに仕えてくれている、随分と歳をとった事になるな」
つまり、マカロンは140歳という事だ。龍の寿命は150年近くだと言われているから、かなりの高齢という事になる。高齢のマカロン、と言う字面に、思わずまた笑いがこみ上げてきそうになる。
ぐぇぇぇ、と龍が鳴き声をあげた。
「ごめんごめん」
とスバルは言って、腰を降ろしている鱗を撫でた。
「?」
「年寄り扱いをするな、だそうだ。ちょっとだけ怒ってる」
「わかるんですか?」
「長い付き合いだしな。俺が生まれた時、いや、母上の腹にいる頃からの関係だ。親友、というよりはむしろ、叔母のような者だろう。本当にマカロンには、世話になっている」
そう言って、スバルはマカロンを撫で続ける。愛おしそうな、かなりリラックスしたその表情からは、今まで彼から感じていた「きつさ」はどこにもなかった。どこにでもいそうな、人の良い青年だった。
マカロンがもう一度鳴いた。その声に反応して、スバルは少し呆然となって、目を丸くしていた。
「……そうなのか?」
とスバルが言う。
「なんて言ってるんですか?」
「マカロンという名前、本当は嫌ならしい。可愛すぎるって……」
「……やっぱり」
耐えられずにまた俺が笑うと、彼は唖然としていたが、やがてつられたように笑いだした。初めて笑った顔を見た。美形だけあって、笑うと様になるが、破顔した顔は、俺の元の世界のどこにでもいそうにも見える。
(難しい人かと思ってたけど、優しくもしてくれるし、やっぱり結構良い人……なのかな)
その後、そんな事をぼんやりと考えながら彼と軽くだが雑談していた。
リストニアとリーゼルニアの間を走る山が見えてきた頃だった。ふと視界にある物がちらりと見え、俺は彼との会話をとめる。
(あれは……!)
俺は山の麓にある村らしき場所より、不自然な煙があがっている事に気づいた。明らかに生活による煙ではない量のそれに、少しばかり目をこらす。明らかに家々から不自然な燃え上がりがある事に気づく。
「スバルさん、あれ!」
「ああ、俺もあそこから魔素を感じる」
スバルの表情が一瞬にして引き締まり、「きつさ」を取り戻していた。
「何かがいる……」




