17幕 精霊とぬいぐるみ
目が覚めると、知らない天井が迎えてくれた。
「……」
ベッドの上。ここは深瀬直樹の自室でも、研究所の床の上でもない。小奇麗に整頓された部屋。日本のアパートのような狭い部屋ではないものの、ノエル・アルフオートの住んでいた屋敷程の大きさもない。
(そうか、あの後眠って……)
まだ動かない頭で、今の状況について考える。俺は精霊に連れられてこの世界にやってきた。ノエル・アルフオートの体の中に入って、クラーク・トインビー達に発見された。それからドラゴンに乗って……ええと、確かそこで力尽きたんだったか。
今いる場所がどこだかわからないものの、少なくとも捕まっている状態ではない。足枷も手枷もついておらず、自由の身だ。一つ伸びをしたら、トイレに行きたくなった。ベッドから降りて部屋を出ると、長い長い廊下が待っていた。ここもどこかの屋敷なのだろうか。西日は眩しいものの、早朝特有の涼しく音の無い空間がそこにはあった。まだ誰も起きていないようで、少しばかり廊下を歩いてみたが、誰もいないようだった。なんとかトイレを探し出し、用を足し、部屋へと戻る。
部屋の中には、身長より高めの大きな姿見があった。
その前に立って自分の姿を確認すると、そこにはいつものノエルがいる。いつの間に着替えさせられていたのか、乳白色の寝衣を着ていた。
140センチに満たない背丈に、腰まである綺麗な銀色の髪を垂らしている。目尻の垂れ下がった瞳は、透けるようなエメラルドグリーン色だ。
髪こそ銀色になってしまったが、後は誘拐される以前のノエルと変わらない。
「……ん?」
そこで、やっと眠気で働いていなかった頭が、自身の色々とおかしな部分に気づいていく。
以前のノエルと変わらない?
あれほどまでに痩せ、骨と皮だけになってしまい、研究施設の中では壁にもたれかかりながらでしか歩けなかったというのに、鏡の前に立っているのはいかにも普通の少女である。腕や足には程よい肉が付いていて、頬も元に戻っている。こうして今も支えなどなくとも、自然と自立していて、先程も廊下を難なく歩けていた。
それに――
(あれ、俺、トイレに行った時、どうやって用を足した?)
思い出そうとするも、それがあまりにも自分の中では自然かつ当たり前な行動だった為に上手く思い出せないでいた。家を出たとき、鍵をかけたかどうか忘れてしまうような、そんな状態。
だがしかし、俺はごく自然に女性としての作法で用を足したハズだった。
洞窟内で、俺が一々自分の知らないはずの行動したする時は『これはノエルが覚えている事』だと思いながら行動していた。しかし今は、そのような違和感なく行動している。まるで自分の体の中に染み付いた、当たり前の行動のように。
――君の今までの価値観や考え方が変わってしまうかもしれない。つまり、ノエルの身体に入った瞬間、君は君じゃなくなるかもしれない。
――そういう齟齬は、じきに自然となれちゃうんだけどね。
と精霊に言われた事を思い出しながら、俺は鏡に映る自分の身体をまじまじと眺める。どうやら確かに、今の俺は少女の体になってしまったらしい。下半身にあるはずの感覚がまるでなく、反対に、胸に触れると、そこにはほんの少しばかり膨らみがある状態だった。しかし不思議と、それが自分の中では自然な物だという認識がある。
「なるほど、精霊に言われた通り、自然になる、というのはこういう事なのか……」
「僕がどうかしたって?」
「え、わっ!?」
とは言えその胸のふにふにとした感覚は面白く、しばらくと触り続けていた時だった。
唐突に背後からかけられた声に、驚き、びくんと跳ねあがってしまう。部屋の中には誰もいなかったはずだ。どこだと周囲を見渡しても、部屋の中には人影がなく、魔素の流れもなく、俺は混乱する。
しかし確かにそれは、今俺が思い出していたハズの精霊の声だった。
「ごめんごめん、びっくりさせて、ここだよここ」
声がする方を向く。そこには――
「あぁ、やっと気づいた」
ベッドの上で、ぬいぐるみが自立していた。ぶんぶんと、こちらに向かって手を大きく振っている。
「なっ」
「やぁ、ナオキ、久しぶりだね」
とそのぬいぐるみの口の部分が動く。笑っている。どこからどう見てもホラーな絵面ではあるのだけど、そういう事もあると、受け入れている自分もいた。
「……あの時の精霊?」
「そうだよ。どう、似合う? 人とかと違って、魂が無い物なら簡単に動かせるんだ。入るのは別になんでも良かったんだけど。このぬいぐるみ、君が好きな物でしょ? 喜ぶかなって」
ぴょんぴょん、とベッドの上で飛び跳ねる。動き方があまりにも自然な動きで、まるで命でも宿っているかのように見える。実際、精霊が受肉していうるから生きていると言えるのかもしれない。
熊のぬいぐるみ。それは、ノエルが誕生日に父さまに送られたものと同じ形だった。
「どうやってんの、それ。っていうか、今までどこにいた、というかそのぬいぐるみって、それに、そのぬいぐみは確かに好きなんだけど、それって元々好きなのは俺じゃなくって、でも俺が好きじゃないかっていうとええと―――」
「ちょっと、ストップストップ」
ぬいぐるみはベッドから慌てて飛び降りて、俺の傍まで走ってくる。そうして、なだめるかのように俺の足を何度か優しく叩いた。ふわふわとした繊維だが、体温はなかった。
「オーケーオーケー、順当に混乱してるね。大丈夫だから、落ち着いて。とりあえず深呼吸しようか。はい、吸ってー、吐いてー。もっかい、吸ってー、吐いてー。落ち着いた?」
「落ち着いた」
と俺は言った。
「でもなんで、っていうかどうして、っていうか」
「待って待って、コントみたいになってる。順を追って話すから、とりあえずベッドにでも腰を降ろそう」
そう言って、ぬいぐるみは俺の胸へと大きく跳躍する。それを抱えて、俺はベッドへと向かう。ベッドへと腰を下ろし、そのぬいぐるみを俺の隣に座らせようとした所で、ある事に気づく。
右耳と左耳の位置が違う。右耳がどうにもが一度取れてしまったようで、糸で縫われている。不慣れな手つきだからか、糸が目立つ。
俺はその解れに見覚えがある。
他ならぬがノエルが縫った物だ。自分で修復しようとして、そして、失敗して落ち込んだ記憶があった。腕にはうっすらと黒い染みがついていて、それは血で出来たように思える。だが、そうだとしても、そのぬいぐるみはノエルが誘拐される直前まで持っていたはずの物だ。それがどうして今ここにあるのか。
「それって、やっぱり俺……ノエルのぬいぐるみなのか」
「わざわざ言い直さなくてもいいのに。今はもう君がノエルなんだから。君の中には彼女の記憶があるんでしょうに。それはもう君自身の経験なのさ、混乱する事もないが、卑屈になったり無理に分ける必要もないさ」
とそのぬいぐるみは言う。
「でも……なんでそのぬいぐるみがここに?」
「遺品として集められていたものが、君が眠っている間に親切な人によってここまで届けられたんだ。世間では今や君が生きていたことで持ち切りで大騒ぎだよ」
「眠っている間にって……」
と俺は言った。
「……俺、昨日帰ってきたんじゃないのか」
「目を覚まさなかったんだよ。結構体力もなくなっていて、君は大変だったんだから」
「どれくらい?」
「2ヶ月くらいかな」
この章までが前準備的な話になります。
早く俺強いが書きたいのですが、この章の途中あたりからになると思います。