01.僕は僕が要らない
その日の放課後、僕は腕に赤い線を引いた。
『青い春、僕は赤い線を引く』
進学校に入学してから、毎日は忙しなく過ぎていった。学校と塾に追われ、家に帰っても勉強漬けの日々。勉強自体は楽しくも苦しくもなかった。ただ、いつの日からか世界はモノクロに変わっていた。
僕の足は規則的に動いて僕を学校へ向かわせる。僕の手は規則的に動いて黒板の板書をする。問題を解いている時の僕の頭は、まるでロボットみたいに正解を導き出した。
入学してからずっと学年トップを守り続けた僕は、今ではその順位を見ても何も思わなくなった。
ドン! と重い音を立てて背中が壁にぶつかる。僕の胸ぐらを掴んで壁に押し付けたソイツの顔は逆光でよく見えないが、その怒りは容易に伝わってくる。
「いい加減にしろよ。いつもいつも澄ました顔してムカツクんだよ! どうせイカサマでもしてんだろ!」
進学校にも粗暴な人間はいるらしく、最近の放課後はいつもこんな感じだ。何を言い返しても無駄だから、僕は黙ってやられるままにした。
「何とか言えよ、この根暗野郎が!」
「……別に、勉強してるだけだよ」
相手が息を呑むのが分かった。僕の体は壁から開放されて、次の瞬間腹部に重い衝撃が走る。殴られたのだ。堪らずうずくまったのをきっかけに、首謀らしきソイツとその仲間から体中を蹴られる。それでも、反抗しなければすぐに終わると分かっている僕は、ただその暴力を受け入れた。
これが僕の日常なんだ。皆が僕に望んだ、僕の日常。
進学校に行くように言ったのは母親だった。
ある日、家に帰ったら僕のオモチャが全て無くなっていた。母親はさも当たり前のように
「貴方ももう中学生なんだから、遊んでないで勉強しなさい」
と言った。
「僕の、オモチャは?」
「捨てたわ。あんな物もう貴方には必要ないでしょ。それより来月から通う塾の見学に行くから支度しなさい」
母はそれだけ言って自分の支度をしに部屋へ行ってしまった。
自分の部屋に残された僕はあちこちを確認した。大切な思い出の物も、頑張って貯めたお小遣いで買ったゲームも、何もかもが無くなっていた。此処はもう僕の部屋ではないような気さえした。
悲しかった。悔しかった。だけど親に抗う力なんて、僕には無かった。
進学校に合格した時、両親は顔色一つ変えなかった。それどころか主席で合格しなかったことを怒られた。
「あんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてだわ」
「これ以上私の顔に泥を塗るような真似をしたら勘当するからな。よく覚えておけ」
だから僕は頑張った。頑張って頑張って学年トップを守り続けた。そうして初めて怒られなくなった。だけど褒められることもなかった。僕が必死になって手に入れた地位は、両親にとっての最低限のラインでしかないらしい。
今でも初めてテストで首位を取った報告をした時の返事を鮮明に覚えている。
「満点じゃないのか。なら間違ったところを復習しておくように。同じ間違いはするなよ、みっともない」
ひとしきり暴力を振るって奴らが教室を出て行ったあとも、しばらく僕は防御体制のまま動きを止めていた。
僕は何なんだろうか。学校にも家にも僕の居場所なんて無い。これが望まれる僕の形なら、こんな僕は、僕は要らない。
ふと視線の先に、カッターがあることに気付いた。誰かが落とした物だろう。床に放置されたそれに、何故だか僕は惹かれた。
---何処にも居場所が無い僕には。
僕の中にだって居場所は無い。
僕は要らない。僕なんて要らない。僕は僕が憎い。
その日の放課後、僕は腕に赤い線を引いた。