第3話 明日から頑張る
三年。言葉にすれば短いが、経験してみると中々に長い時間である。俺が霞と一緒に『アルテニア・サガ』の世界に降り立って、それだけの年月が過ぎていた。
三年の月日は子供だった俺たちを大人にし、絶望を乗り越え、今日俺たちは結婚する──なんて事は無かった。
確かに三年が経ったのは確かだ。しかし、俺とカスミの仲に特に進展は無かった。と言うか、正確に言えばそれどころではなかったのだ。
とある地方都市の近くに出現した俺たち二人は、暫くの間初期装備で獣と弱い魔物を狩りながら金を貯め、街から街を移動して学校がある街に辿り着いた。ここまでで一年。
そして、探索者のための学校に一年通った。だがそれも学費と生活費を稼ぐために空いた時間に依頼をこなしながらだったので、俺もカスミも時間的余裕なんて殆ど無かったのだ。
加えて、三年目は出来るだけの安全を確保しながら、それぞれステータスと装備の強化に努めていた。正直、男女関係? 何それ美味しいの? っていう状況だった。
実の所、学校に通わないという選択肢も無くはなかった。俺たちはそこらの探索者より余程強かったし、金だってそう多く持っている訳ではなかったから、最初の頃は月一の学費の支払日を目前に悩む事もあったくらいだ。しかし、学校に通わずに探索者になる若者の死亡率を見て、俺たちは学校に通う事を諦めなかった。それも、その二年間での死亡率が実に八割という高確率だったからである。十人中二人しか生き残れない。俺たちはステータスが高い分確かに強い、その二人になれる可能性は高かっただろう。だが、遠くに頼もしそうな橋が見えているのに、すぐそこの危ない橋を渡るのは俺の理性が許さなかった。何にしろ、死ぬよりはよかろうと思ったのだ。
そういえば、何故俺たちはゲームを三年もぶっ通しでやっているのか、もしかしなくても馬鹿なんじゃないのかと誰でも思うだろうが、それにはちゃんと理由がある。
まず、メニュー画面が開けない。俺たちはこの事態に多いに焦って、カスミの知っている限りのVRゲームの知識を総動員してメニュー的な物を開こうとしたり、ゲーム終了を試みたが全く駄目だった。正に、梨の礫とはこの事なんだなと悟ったくらいだった。
そして、死ぬとどうなるかについて、俺たちは一切情報を持っていなかった。恐らく、あの管理AIみたいな女性に聞けば教えて貰えたんだろうが、生憎あの時俺たちはそこまで頭が回らず、聞きそびれた。一度俺が死にかけた事があって、二人してその時にその事実に気付くという間抜けっぷり。カスミは泣きに泣いて三日三晩宿の部屋から出て来なくなるし、俺は俺で丸二日一言も声を出さなかった。
最後に、死んだらどうなるか判らないのが怖過ぎて、俺たちはこの三年間で一度も死んでいなかった。むしろそれは喜ばしい事なんだが、正直最初の頃にアッサリと二人一緒に死んでおけば良かったかなとも思った事もある。赤信号皆で渡ればではないが、二人とも家族や友達には悪いが、それならそれでここまでの恐怖と絶望を味合わなかったかもしれない。
そんなこんなで、プロの探索者として活動し始めてからほぼ一年。俺たちは家族会議的なものをしていた。
場所は、アールディア王国王都の一角にある『妖精の囀り亭』の207号室である。
「──まず、状況を整理しよう」
「⋯⋯うん」
重苦しい雰囲気で始まった会議は、当然の如く俺のつまらない言葉で始まった。
「俺たちには今現在、三つの問題点がある。一つ、メニューが開けなく、現実に帰れない事。一つ、死ぬとどうなるかが一切判らない事。一つ、これからも探索者を続けていくのかという事。この三つだ」
「⋯⋯そうだね」
幸運にも死んでない事を問題点として捉えるつもりは、もう既に俺には無い。逆にそれは正に僥倖であって、問題点として数えるなどおこがましい言えるが。
「ハッキリ言えば、もはや現実に帰れない事や死ぬとどうなるかなんて事はどうでもいい。メニューの件に関して言えば、音声認証に始まり、特定のアクションっぽいのも思い付く限りに試した。緩急や気合を入れて言葉にしたし、ヒーローの変身ポーズや、昔のナウなヤングにバカウケだった踊りまでやったんだ。これでメニューが開けないならば、もう望みは無いと思って良いだろう」
「そうだね」
社会現象になった意味不明な踊りやら、子供に人気だったらしいアニメのダンスである魔物体操やら、一世を風靡したアイドルグループのベビーローテーションっていう歌の振り付けまでやったんだ。もう、どうしようもない。当然ラジオ体操もやったけどな。
「死ぬとどうなるかは、ありとあらゆる場所にあの管理AIっぽい人に当てて手紙を書いたし、空や地面に向かって問いかけてもみた。そして、未だに返信や返答はない。これも、諦めるべきだろう」
「うん」
たまに人に見られて『頭おかしいんじゃねぇの』って顔されながらも、床やら壁やら地面やら湖やら沼やら海やら空やらに書いてみたし聞いてみたが、当然の如くウンともスンとも言わなかった。宛名を『アルテニア・サガ管理AI様』にして手紙を出してもみたけど、受付の人に『何だコイツ⋯⋯?』って顔をされたのみだった。あれは心へのダメージが半端じゃなかったな。
「⋯⋯ここまでは良い。正直、俺もカスミの返答は予測出来てたし、実際その通りだった。だが──」
「探索者を続けるか否か、だよね」
「⋯⋯ああ」
暗い話である。探索者の平均より遥かに強いのに、俺たちはそれを辞めるか辞めないかなんて話をしている。俺たちと同じスペックを持つ二人組なら、普通はどちらかが辞めざるを得なくなるまで探索者であり続けるだろう。探索者はその実力によっては巨万の富を得る事が可能で、仮に老後の事を考えても、四十前後まで一般的なベテランでありさえすれば、慎ましく生きていくだけの金は貯まる。
それを、どう考えても才能があるとされる俺たちが、二十歳で辞めようかと言うのだ。流石に今の段階で、今後働かずに暮らしていける程の蓄えは無い。つまり、端的に言って俺たちは命が惜しかったのだ。
「⋯⋯そういえば今更なんだが、この世界で死んだ場合、俺たちは本当に死ぬのか?」
「前から言ってると思うけど、判らないってのが本当かな」
「そもそも、今までそんな事例があったのか。それが問題だ」
ずっと悩んでいた疑問を、カスミに投げ掛ける。さて、まずはここから始めなければならないだろう。
ゲームの世界で死ぬと現実でも死んでしまう可能性があるというのは、カスミが言い出した事だった。俺は機械が駄目だからそういうもんなのかと思っていたが、実のところこれには前から疑問を覚えていた。
「私が知る限り、そういう事例は無いね。精神病になったとか、現実とゲームの世界の境が曖昧になったっていう事はあったけど」
「そうか。⋯⋯ところで疑問なんだが、あのヘルメットに人を殺すだけの機能はあるのか?」
「んー。解ってたけどそこは曖昧なんだよね。ケーブルがコンセントに伸びてるから、最悪の場合出来ない事も無いはずだけど⋯⋯」
「そもそも、殺すって言ってもどうやって殺すんだ? 変な回路に電気が回ってビームでも出るとか?」
「漫画やアニメなら、電子レンジと同じ機能が搭載されてるってのが一般的だけど⋯⋯」
確かに、脳を電子レンジでチンされてしまえば人は簡単に死ぬだろう。だが、本当にその可能性はあるのか。何か引っ掛かっていたんだよな。
「あのヘルメット──ガジェットは、脱ごうと思えばすぐに脱げる形をしてたよな」
「そーだね。普通に上に引っ張れば脱げちゃうはず。あれでゲームしてる途中に、母親に脱がされていきなりログアウトしたって話も聞くし」
ははは、と力無く笑うカスミの姿に、俺の前々からの疑問が確信に変わっていく。
「⋯⋯カスミはガジェットを何処で買ったんだ?」
「え? うんとね、確かネットで買ったと思うよ」
「それはいつ?」
「ええと、新型が出て少しした頃だから、二年前くらいかな。それがどうかしたの?」
ならば、カスミのガジェットと俺のそれには殆ど関連性が無いと言える。もちろん、製品として同一ではあるが。
「このゲームを作った会社と、ガジェットを作った会社に関連性はあるか?」
「んー、特に無いはず。まあ、ゲーム機本体を作った会社と、そのゲーム機に参入したゲームソフト会社って関係はあるけどね」
つまり、俺がよくやってた据え置き型のゲーム機を開発した会社と、その開発には関係無い沢山あるゲーム会社の一つって事か。
「⋯⋯なら多分だが、俺たちはここで死んでも現実では死なないはずだ。まあ、ゲームオーバーになって振り出しに戻る可能性はあるが」
「なんで⋯⋯?」
カスミは俺の言葉にやや喜色を浮かべて疑問を口にする。俺が辿り着いた結論にカスミが辿り着かないとは思えないが、そこは今まで一杯一杯だったから、深く考える余裕も無かったんだろう。俺だってそうだったから文句は言えない。
「考えてもみろ。俺たちが被ってるガジェットは発売されてからもう数年が経ってる。競合メーカーだって馬鹿じゃないし、世の中には採算度外視でガジェットをバラそうっていう愛すべき馬鹿も居たはずだ。そこで人を殺せるような機能があると解れば大問題になるし、それなら俺はともかく、カスミがそれを知っていないはずがない。二人を繋いだあのケーブルだって、ガジェット開発会社のもんだろ?」
「⋯⋯そっか。つまり私たちのガジェットはともかく、市販のガジェットは安全だと考えて良いって事だね。それで、あのケーブルはそーちゃんが言うように正規品だよ。変なの使って困るのも嫌だったから、そうだって解ってたけど電気屋さんの人にも確認したし」
「なら、そこは確定だ。だが、ここで一つ疑問が残る」
「疑問?」
カスミはキョトンとした表情を浮かべる。あ、何か可愛い──じゃなくて!
⋯⋯仮にゲームをやって人が死んだ場合、そのゲームを作った企業は鬼の首を取ったかの如く攻撃されるだろうって事だ。当然だがガジェットみたいな物を作れる企業は一つじゃないし、発売されてからの月日を考えてもその解析はとっくに終わってるはずだから、さっきも言った通り内部に問題は無いと考えられる。
ならば、俺たち二人のガジェットにのみ特別に搭載されている何かがなければ、ガジェットはほぼ百パーセントの確率で殺人機械の要素を満たさないはず。だが、それを仕込んだのはいつで、どうやったのか。それが問題だ。
「時期と、手段だ」
「時期と手段?」
「一体いつ、どうやって俺たちのガジェットに他の同一商品と違う、ビーム発生装置だの電子レンジ機能だのを搭載したのかって事だよ。ソフトが電子レンジ搭載型の新型ガジェットと一緒に送られてきて、それを使わないとゲームが動かないってんならともかく、そうじゃなかっただろ?」
「そうだね」
もちろん、俺たち二人のガジェットの整備に誰かが来た訳でもない。だから、俺たちは市場に流れている数多のガジェットの中から、無作為に二つを選んだと考えて良い。もしかしたら俺は俺が買ったのとは違う電気屋で買ったかもしれないし、カスミだって古くなった物を買い換えたかもしれない。そんな俺たちの行動を予測するなんて人や機械では不可能だし、もしかすると神にすら難問かもしれない。ラプラスの唱えた未来予測じゃあるまいし、俺たちの気分を予測なんて出来ないはずだ。
「俺とカスミのガジェットを買った時期と手段が違い過ぎるから、俺とカスミのガジェットだけにピンポイントで殺人機構をこっそりと仕込むのは不可能だ。それこそ、カスミがガジェットを買う以前から眼を付けられていたとか、実は全ての黒幕はカスミでしたとか、そんな事でもない限りはな」
「そーちゃん⋯⋯、私を疑ってるの⋯⋯?」
「馬鹿言え、そんな訳ないだろうが。もしカスミが俺を殺したいんだったらもっと上手くやるだろうし、仮に無理心中したかったとしても、こんな回りくどいやり方である必要が無い」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
何故か絶望の一歩手前とか、深淵を覗き込んで覗き返されたみたいな表情になってしまったカスミ。⋯⋯あれ? この顔はマズくね?
「そ⋯⋯、それに⋯⋯。ああ、もう!」
「ふゅっ!?」
能面のようではないが、この世で一番不幸ですみたいなカスミの顔を見ていたら、考えが纏まらなくなってしまった。
俺はもうやけくそと言わんばかりに覚悟を決めて、やや乱暴にカスミの頭に手を乗せた。なんて変な声を出しやがるかこの幼馴染は。深呼吸、深呼吸。すって、はいて、吸って、吐いて。
「お前が俺に、本気で悪意だの害意だのを向けて来た事は無い。十五年の現実と、仮想空間の三年。俺はそう確信している。兄貴とお前のどっちがより俺を裏切らないかと聞かれても俺は迷い無くお前の名前を出すだろうし、無人島で食料が最後のパン一切れになったって、お前と半分ずつにするだろう。俺とお前の間に横たわる絆は、血の縁よりも強い。心からそう思ってる。⋯⋯だから、お前が俺を陥れたなんてこれっぽっちも思ってない。⋯⋯それだけだ」
言った⋯⋯! 言ってやった⋯⋯! よく噛まずに言えた、偉いぞ俺⋯⋯!
つまりは俺がどれだけカスミを信頼しているのか、そう言いたかったのだ。それは伝えられたと思う。だが、今自分が何を言ったかが、既にかなりあやふやだ。人間、本当に感情が吹っ切れると記憶なんて吹き飛ぶらしいが、果たしてそれか。でも、何か凄ぇ恥ずかしい事を言った気がする。
⋯⋯別に良いか。恥ずかしいは恥ずかしいけど、布団に作った黄色い地図の事まで知ってるカスミ相手に、今更取り繕っても仕方ない。
そう思い直して、空飛ぶタラバガニの剥き身でも見たかのように大口を開けて完全に停止しているカスミを見やる。暫く見ていたが、どうもそう簡単には直らないらしい。とりあえずコーヒーを飲んで、クッキーを貪り食べた。
「⋯⋯ちょ、ちょっとタンマね、そーちゃん」
「ああ。⋯⋯どのくらいだ?」
「さ、三十分くらいかな?」
何故に疑問形? そう思ったが、多分それは言わぬが華という奴だ。
「俺は居ない方が良いか? もしそうなら、ちょっと下で飯食ってくる」
「そ、そーだね。ありがと」
「⋯⋯解った」
実の所、俺はあの状態になったカスミを見た事がある。あれは確か幼稚園の頃だったか。次の日が日曜日で、俺は両親が言うのも聞かずに夜更かししてテレビを見ていた。多分映画だったと思うが、その主人公が何故かその時は実にカッコ良くて、次の日カスミに会った時に俺は砂漠の民の王子様になりきっていた。歯の浮くような美辞麗句を並べたて、口説き、抱きしめ、キスをした。すると、知能の発達著しかったカスミは、恐らく羞恥からその動きの一切を停止した。通称、空飛ぶタラバガニの剥き身状態である。
俺はその時砂漠の民の王子様だったからそれは当然の事だったが、カスミにとってはそうではなく。昨日まで普通だった幼馴染のいきなりの豹変に恐怖し、混乱し、その他の感情がない混ぜになったカスミの時が動き出した途端、大泣きした。
泣きながら走って俺の母に泣き付いたカスミだったが、その話は要領を得ないもので、俺が死んでしまったとか、変なのになってしまったとか、そんなものだった。当たり前だが母からしてみれば、俺は昨日までと変わらぬ見た目でそこに居るし、意味不明だったのだろう。カスミをあやすばかりで一向に解決にはならなかったが、そこには俺とカスミと母以外に、一人の男が居た。その救世主とは、俺の兄である。
兄は俺より二つ年上で、後々の証言によると、すぐに俺がごっこ遊び中だった事に気付いたらしい。だが、兄は兄でその時、時代劇で毎回敵に向けて『名を名乗れ!』と言う人に嵌っており、弟がその気ならばと付き合う事にしたらしい。砂漠の民の王子様は勇敢に戦ったが、彼我の戦力差は甚大だった。兄は俺をやっつけ、決め台詞を披露した。
もちろん俺は砂漠の民の王子様だったからそう答えたのだが、兄には隙など無かった。それが本当の名前でない事を見抜いており、俺がごっこ遊びを辞めるまで、三度俺に名を問うた。砂漠の民の王子様だと言うと叩かれるので、俺は観念して颯太だと答えた。兄は鷹揚に頷き、『これにて一件落着』と言って何処かに歩いて行ってしまった。話によると、兄が見ていた時代劇では、事件が終わると仲間たちは旅を続けていたらしい。
そうして俺は砂漠の民の王子様から颯太に戻り、カスミはそーちゃんが元に戻ったと喜んだのだ。⋯⋯要するに、カスミはあんまり恥ずかしい事があると、大口開けて停止してしまうという事だ。だから多分さっき俺はとんでもない位に恥ずかしい事を言ったのだろうと思う。今回は前回と違ってカスミが泣いている訳でもないので、どう転ぶかは解らないが、とりあえず落ち着くまで少し時間を置く事にしたのだ。
暫くして部屋に戻ると、カスミはベッドの上で体育座りをして待っていた。ベッドはツインだったので、俺は逆側の俺のベッドに腰掛ける。チラリと見ると、眼が合った瞬間カスミは恥ずかしそうに眼を逸らした。⋯⋯一体俺は何を言ったのだろうか。内心溜息を吐きつつ、先程までの続きに戻る事にする。
「あー、その、なんだ⋯⋯、話を続ける。ええと、俺たちのガジェットに殺人機構が搭載されている確率が巨大隕石によって人類が滅亡する位の確率だろうってとこ、つまりそれは無いだろうって所まで話したな?」
「⋯⋯うん」
多分ナインナイン、99の後ろに小数点で七つの9が並んだパーセント程度には、俺たちのガジェットも安全に違いない。それはつまり、起こりえないと考えていい。
で、だ。
「ここで、時間について考える。俺は放任気味だから長い間連絡が無くても問題無いけど、カスミの両親は娘が何処に行ってるかを知ってるし、俺の母親だってそれを知ってる。当然だけど俺の母さんは部屋の鍵を持ってるし、最低でも管理人に電話して様子を見てもらう事も出来る」
「そうだね」
「俺もカスミも社会人ならともかく、高校生だ。しかも、カスミは大事な一人娘。なら、何故様子を見に来ない? 三年どころか、三日連絡が無ければ、カスミの親父さんは大騒ぎするはずだ」
「⋯⋯うん」
そもそも、人は三年間飲まず食わずでは生きていけない。ならば、現実で三年が経っているのならば俺たちはの身体は病院で色んな機械に繋がれて生きているはずだ。だが、ゲームを中断させるのにガジェットを脱がすだけで良いのに、そんな必要は無いだろう。
「つまり、俺たちの体感ではこの世界で三年を過ごしてるけど、現実ではそう時間が経っていないはずだ。それこそ、まだゲームを始めた日の夜になってすらいないかもしれない。要するに、俺たちは意識だけが加速した状態でここに居ると考えられる。現実世界の事を確認出来ないのとゲームを止められないのが問題だが、この状況こそが三百万の対価に相応しい代償なんだよ」
「あ⋯⋯!」
そもそもおかしいとは思っていたんだ。夏休みを全部使ったって、普通のバイトで三百万も貰えるはずがない。内容が凄い危険が伴う物だったり、する奴が凄い奴じゃない限り。仮に夏休みの四十日間不眠不休でバイト漬けになったとしても、時給は三千円を超える。一人頭時給千五百円のバイトなんぞ、ただの高校生には出来るはずがない。思い付くのはパチンコ屋の深夜帯だが、それも高校生には許されていないだろう。
「多分だが、俺たちがこの世界で生きているだけでデータが蓄積するようにでも様になってるんだ。だから、仮に俺たちがここで死んでも現実の世界で死ぬ事は無いはずだ」
「言われてみれば、ガジェットのゲームには、現実と仮想世界内の時間の流れをずらす物もあるよ⋯⋯!」
「そりゃそーだ。仮に農耕ゲームをVRで作ったとして、農作物の収穫に丸一年掛かってたらやってられないから、余程のマニアにしか売れない。それに、子供はともかく大人は基本的に時間が無い。オンラインゲームならまだしも、オフラインで何年も育成ゲームなんて出来やしない」
仮に十分を一月とすると、一年に二時間掛かる。戦略ゲームだとすれば、戦争で減った兵士の補充を待つのに、魔法や不思議技術が介在しない設定なら、少なくとも三、四年は必要なはず。その間に内政するにしたって、六時間も八時間も待ってられないだろう。
「纏めると、ガジェットには人を殺せるだけの能力が無く、そもそも企業としてはゲームをやった奴を殺すのは利益が無いばかりか損ばかりで、現実世界からの干渉でゲーム中断になってない事からそう時間は経ってないと考えられる。だから、最悪でも開始から三日以内に俺やカスミの両親がガジェットを外すだろう事から考えても、どうなっても現実の俺たちが死ぬって事は無い。大体、ここで死んで現実でも死ぬんなら、必死になる俺たちを見て楽しむために、最初に説明をするだろ」
「⋯⋯そーちゃんっていつもはダメダメなのに、時々凄く頭良いよね」
「うっさいわ! ⋯⋯この事は最近暫く考えてたから、そのお陰だ」
まったく、カスミは時々俺に失礼過ぎないか?
まあ、整理現象に耐えられなくなった現実世界の俺たちのせいで俺の部屋が汚れるかもしれんが、それはそれ。人間は三日間飲まず食わずでも死にはしない。脱水症状の恐れはあるが、それにしたって覚醒すればすぐそこに飲み物も食べ物もあるから、大丈夫だろう。
「⋯⋯要するに、俺たちは死の恐怖に怯える事無くただひたすらこの世界を楽しめば良いんだ。だから、俺は探索者を続けようと思う。仮にカスミが嫌なら、養ってやるのも吝かではないが」
「ううん。私もやるよ! でも⋯⋯」
「ん?」
いつもと違う感じの、どこか懐かしいような声が聞こえて、俺は見つめていたカップから頭を上げてカスミの方を見る。
「お、おい、どうした!?」
「なんか、安心したら泣けてきちゃって⋯⋯」
そこには、ふるふると震えながら涙を流すカスミが居た。ああ、懐かしいと思ったのは子供の時くらいしかカスミが泣かなかったからか。
「そ、そーちゃぁぁぁん⋯⋯!」
「お、おいおい。落ち着けよ。な?」
「怖かったよぉぉ⋯⋯!!」
ベッドを飛び出して間の距離を物ともせず跳躍して俺に抱き付いて泣くカスミを、俺はひたすら宥める事しか出来なかった。その後、俺は子供のように泣き疲れて眠るカスミをベッドに転がし、何のやる気も起きずに自分のベッドに入った。
「⋯⋯まあ、そりゃあ怖いよな」
久しぶりに何の心配事も無く眠っているのか、幸せそうな顔で眠っているカスミを見ていたら、思わずそんな声が出ていた。
俺が今日話した結論に辿り着いたのは昨日の夜の事だったが、確かにそれまでは何かおかしいと思いつつも死の恐怖に怯えていた。男の俺でそうなんだから、精神的に強いとも言えないカスミはもっと怖かったはずだ。しかも、カスミには俺をこのゲームに誘ったという罪悪感もあったに違いない。二人分の死の責任を背負って毎日を過ごすのは、戦争も知らない現代人にとっては非常に負担になっていただろう。
「暫く休んで、それからまた探索者に戻ろう」
いくら死の恐怖に怯える事がなくなったとはいえ、今までそれと隣り合わせで生きてきた俺たちには休息が必要だ。それはもちろんカスミにだってそうだし、俺にだってそうだ。そう考えると、いきなり異世界に放り込まれるストーリーの主人公は精神的に凄まじく強いという事が解る。仮にチート的な力を持っていても、覚悟を決めるのに時間が掛からな過ぎる。むしろ、だから主人公になり得るんだろうが。
「ふへへ⋯⋯。今だそーちゃん、捨て身タックルだー」
「しまらねぇなぁ、おい」
⋯⋯死なないからって俺を犠牲にして戦うんじゃねぇ。いくら夢の中でも、それは酷すぎる。
カスミの寝言に苦笑しながらふと窓を見上げると、そこには満点の星空と三つの月が俺たちを見下ろしていた。まあ、死なないんなら異世界も悪くない。もっとも、俺たちは異世界ではなくゲームの世界だが。