奇跡という名の神の悪戯
奇跡というのは、本当にあるのだろうか。あるのは、必然と偶然、そして誰が何をするかだけ。俺はずっとそう思っていた。かの有名なニュートンだってそうだ。林檎が木から落ちたことによって、万有引力を思いついた。人は、これを奇跡と言うだろうが、実際は奇跡なんかじゃない。たまたまニュートンが見た木から林檎が落ちただけであって、たまたまそれを見たのがニュートンだった。そして、たまたまニュートンがそのことを見て閃いただけである。こうしてみると、ひとつひとつの出来事は誰にだって起きる可能性がある。そんな出来事がたまたま同時に起きてしまったことでニュートンは万有引力を思いついたのだ。だったら奇跡とは、何なのだ。聖書なんかを見ると奇跡とは、こう言い表わされている。『奇跡は、被造物の世界に創造主である神が力をもって介入した時に起こること』と。
梅雨の季節がやってきた。外は、昼だというのに暗いまま。
「ひと雨、来そうだな」
4畳半の部屋の中で寂しそうに呟く住人。彼はそれっきり、何も話さなくなった。部屋の中から聞こえるのは時計の音だけ。顔は無表情で何を考えているのかさっぱりわからない。ただただ、時間が過ぎていくだけ。
夜になっても、相変わらず変化が無い。さっきと変ったところと言えば、雨が降り出したため、雨音が響く部屋の中。食事は取る気配もない。ふと、電話の音が鳴り響く。このまま電話にもでないのかと思ったら、そうではないらしい。彼は、立ち上がって受話器を取った。相手は誰だか知らないが、彼の表情は変わらなかった。2分ぐらい電話で話していた。
「あ、はい。わかりました。それでは」
そう言って、彼は、受話器を戻した。数分後、眠るようにしてベッドにもぐった。
「翠――」
そう呟いて彼は、涙を流しながら眠りについた。どんなに望んでも彼女は返事をしてくれない。
そう、彼は大切な人を失ったのだ。
電話は、彼女の葬儀についてだった。そう、彼女は死んだのだった。
死とは突然なものだ。物事は一瞬で終わってしまう。一瞬過ぎて何が起きたのか理解できない。昨日まで一緒にいた彼女が今では別世界の人間になったのだ。いや、こういう場合は人間と呼べるのだろうか。
昨日は休日で、俺とデートをすることになっていた。しかし、待ち合わせ場所へ行く途中、彼女は車に轢かれたのだ。人間の命は、なんて儚くて脆いのだ。「どうしてデートなんかしようと思ったのだろう」「どうして寝坊して待ち合わせ場所を違う場所にしなかったのだろう」「どうして寝坊して待ち合わせ時間を変えなかったのだろう」「どうして彼女を迎えに行こうと思わなかったのだろう」「どうして……」「どうして……」今こうしてみると後悔しかない。しかし、後悔なんかしても彼女はもういない。いないんだ。人は大事なものを失ったとき、初めてその大きさに気付くというがそれは本当みたいだな。彼女を失ったことによる喪失感はとても大きいようだ。しかし、それをうまく言葉に表せないし感情にも現れないというのが酷なものだ。自分が一体何をすればわからない。何をすればいいのかわからないのでとりあえず眠ることにした。
「翠―」
無意識のうちに彼女の名前を呼んだ自分がいた。そして、目から雫がこぼれた。
次の日、俺は彼女の葬儀に参列した。会場に着くと、そこには顔見知りの人物がいた。同級生たちだ。彼らは、俺に気を使っているのか、あまり関わってこなかったが時々、俺に慰めの言葉をかけてくる奴もいた。
彼女の棺を目の前にした。棺の中の彼女は笑っていた。まるで、天使の眠るかのように。俺はこの笑顔がとても好きだった。眩しくて、温かい気持ちにさせてくれる笑顔が好きだった。しかし、今はどうだろうか。彼女は笑っているのに何かが違った。直感的にそれが何なのか理解できた。そうか、彼女は死んだのだ。知っていたのにわからないふりをしていた自分がいた。いや、受け入れたくなかったのだ。しかし、今この瞬間、俺は、すべてを受け入れてしまった。そして、自分がどうしたらいいのかわかった。簡単なことなんだ。泣けばいいんだ…
彼女が死んだからと言って、世界に変化が起きたわけではない。時間は何もなかったかのように過ぎていく。それがとても悲しいことに思えた。所詮、他の人間からしてみれば彼女が死んだことなんて、他人事だ。そんなことは、どうでも良かった。何に悲しいかというと、それは自分自身だ。日がたつにつれて、彼女の事を忘れてしまう自分がいた。彼女との思い出の日々が薄れていってしまう。そのうち、彼女の顔、声、手のぬくもり、沢山のものが思い出せなくなってしまうときが来るのだろう。いつの日か、彼女の事が本当に好きだったのかさえもわからなくなってしまうだろう。そのことが非常に許せないことであり、とても悲しいことだった。
今日はクリスマス
あれから、半年が過ぎた。早いものだ。今日は、もうすぐ雪が降るらしい。雪が一面に広がればホワイトクリスマスが送れるようだ。今日は、学校でクリスマスパーティーを行うらしいが行く気にはなれなかった。クリスマスは大切な人と過ごしたいからな。
「なあ、翠。キミは覚えているかな。付き合い始めてから少ししたころ、クリスマスの話をしたな。あの時、キミはクリスマスを一緒に過ごしたいといったね。雪がいっぱい降っている中、一緒に服を買いに行ったり、映画を見たりしながら過ごしたいと言ったね。俺が、そんなのいつでもできるじゃん、といったら、クリスマスは普通の日と違うの、といったね。でもその約束は決して叶うことのない約束になってしまったな」
俺は彼女の事を思い出しながら、ある場所に向かった。そこは丘の上にあるお墓だった。彼女が眠っているお墓。彼女が死んだとき以来、一度も来ていない場所だった。
彼女のお墓はすぐに見つかった。何の変哲もないただの墓だった。俺は、彼女の墓に花を飾ると、近くの教会へ行った。ただ、足が疲れたので少し休みたかったのだ。
教会の中には誰もいなかった。珍しいことだった。今日はミサなのに誰もいないなんて。しかし、いないなら好都合だった。俺は、近くの椅子に座った。ただ、ぼぅーとしたかっただけなのかもしれない。そして、いつの間にか俺は眠ってしまっていた。
「洸くん、ねえ、起きてよ、洸くん」
人の声が聞こえる。頭がぼんやりとする中、その声の方を見る。この呼び出し方には聞き覚えがある。誰だっけ。あ、そうだ、この声はあいつだ。
「翠っ」
俺はすぐに起き上がり、声がする方を見る。
「わあ、びっくりした」
そう、そこにいたのは、翠だった。もう、死んだはずの彼女がなぜここに。
「やっと、起きたね。久しい彼女に何か言うことは」
彼女。やはりキミは、
「み、翠なのか」
「うん、そうだよ。メリークリスマス、洸くん」
「Merry Christmas」
「少し、歩かないか、翠」
「うん」
そう言って、俺たちは教会を出て、手を繋ぎながら、街中へ向かった。
「街が綺麗だね」
「ああ、ホワイトクリスマスだからな」
確かに、今の時間帯は、とても綺麗だった。一つ一つの明かりがはっきり認識することができる。
「ねえ、見て」
彼女が指をさした方向には、子供たちが雪合戦をしていた。それをそばで見守っている両親。他にも、手をつないでいるカップルや、同年代の男女の集団、お爺さんとお婆さん。沢山の人がいた。
「皆、あんなにいい笑顔で今日という時間を過ごしているよ」
「とても楽しそうだな。皆、生き生きとしてるよな」
その姿が、とても羨ましそうに見えたのは、俺だけだろうか。
「…洸くんは、私に何も聞かないんだね」
「どうして、今、存在しないはずの翠がここにいる理由か」
「…………」
「何か理由があるのだとしても、俺は、今日という日を大事にしたいんだ。キミの、翠との約束だからな。決して、叶わないと思った約束が、今、こうして叶っているのに、キミが答えを言ってしまったら、この時間が終わってしまうような気がするんだ」
そう、彼女がここにいるのはとても不思議なことだけど、関係ない。例え、どんな理由があったとしても、いま、彼女がここにいることに変わりはないのだから。
「そうですか…、そうだよね。私も、今という時間を大切にしたい」
そう言うと、彼女は、吹っ切れたのか、俺をいろいろな場所へ連れまわした。時間など、忘れて俺たちは、同じ時間を共有した。気がつくと、時間は、朝方になっていた。
「ねえ、洸くん。私、行きたい場所があるんだ」そう言って、彼女が連れて行ったのは、街の中心部の丘の上の公園だった。そこは、俺と彼女の始まりの場所だった。
この丘は街の中で一番高い場所だ。そのため、街全体を見渡すことのできる唯一の場所でもある。今は、雪も止んで、太陽が出てきたため、街は、それほど暗くは無かった。
「ねえ、洸くん。本当のこと言うとね、今、どうして自分がここにいるのか理解できてないんだよね」
「…………」
「私はね、死んだあともずっとこの街にいたんだよ。でも、その姿を誰も認識することはできなかった。それでも、私はこの街にいたかった。大切な人を、そばで見守りたかったんだ。全部、知ってたよ。洸くんが私の事で苦しんでいることを。でも、それを伝える術がなく、ただ時間だけが過ぎて行ったんだ」
彼女の言ったことを、すぐに信じることができなかった。しかし、俺は死んだあとの世界なんてわからない。そして、彼女の真っ直ぐなまなざしが俺をとらえている。そのせいか、彼女の言っていることは本当の事なんだと頭が理解した。
「でも、やっぱり現世にいるべきはずのないものがずっと居てはいけなかったんだ。そんなある日、声が聞こえたんだ」
「声?」
「その声は、私に、機会をくれた。人のために、自分を捧げ、一人でも多くの人間を救いなさいって言ってきたんだ」
「誰に?」
「わからない。もしかしたら神様だったのかも」
「神様?」
「なんとなくそんな気がしたんだ」
「それから、私は、人のためにすべてを捧げてきた。だから、今、私がこうしてここにいるのは、神様のおかげかも」
「神様か…。俺は昔から自分の見たものしか信じられなかったから、神様みたいな不特定多数の存在を信じることができなかったんだ。でも、もし、この出会いが神によるものだったら、感謝しないとな」
そう、そのおかげで俺たちは、再び巡り合えたのだから。
「洸くんらしいね」
彼女は、俺の答えを笑顔で受け止めてくれた。そう、俺が見たかったのはこの笑顔なんだ。
「…………。なあ、翠。ずっと、お前に言いたかったことがあるんだ」
「俺は、お前を愛してる」
「違うよ、洸くん。愛してた、でしょ」
「…そうだな」
愛してた。その言葉は、過去の言葉。もう決して曲げることのできない言葉。
「私も洸くんに出会えてよかった。洸くんのおかげで毎日が楽しかった」
「ああ、俺もだ。沢山の幸せをありがとう。今だから言うけど。俺はキミの笑顔を見ているだけで幸せだったのかもしれない」
そうだ。キミと過ごしたかけがえのない思い出。沢山の楽しい時間が蘇ってくる。
「恥ずかしいこと言わないでよ」
彼女の顔が少し火照っているのは、初めて見た彼女の表情だった。
「そろそろ、時間みたい」
「そうか、逝っちまうのか」
「うん。洸くんは自分で決められる人だから、どこまでも進んでいって」
「ああ、ちゃんと前に進むよ。俺は、もう寂しくもないし、辛くもない。一人でどこへだって進んでいけるさ」
「洸くんらしい台詞だね」
一瞬だけ沈黙が続いた。
「今日は楽しかった。まるで、夢でも見てるみたい」
「夢なんかじゃねえよ。ちゃんと、手を握っている感覚があるだろう」
「やっぱり、洸くんはもっとロマンチストな人間になるべきだよ」
ロマンチストか。それも悪くないな。
「ねえ、洸くん。私の最後の願い、聞いてくれる」
「ああ」
「洸くんは、私に縛られないで生きてね。思い出は愛しいけれども、洸くんはいつも未来を見つめていてね。そしてもう、振り返らないで幸せでいて。それだけが私の望み」
「そうか」
そして、彼女は笑って言った。
「さようならだね、洸くん。私もずっと、あなたを愛していました」
そういって、彼女の姿は消えてしまった。まるで、最初からそこにいなかったかのように。
今、思うと、不思議な時間だった。それでも、約束を果たすことができたんだ。
人は出会いと別れを繰り返していく。この出来事もただの分岐点にしか過ぎないけど、俺は、俺の周りで起きたことを忘れたくない。
俺は、とにかく前に進むよ。お前の望み通り、どこまでも、どこまでも。