開かれない牢格子
目が覚めた。
最初にみえたのは白い天井と、明かりの消えたはめこみ式の丸い照明だった。
電子音がきこえたので布団をのけ、上半身を起こして後ろをみると、アナログの目覚まし時計が五時を指していた。
僕はベッドの上を移動し、目覚まし時計を止めた。
そうする内に、言葉では表現しきれないほどの幸福感が胸に湧いてきた。
先ほどの光景が夢だったと気づき、安心しただめだけではない。
僕はもう一人ではない、情熱を分かち合い、理解してくれる相手がいるという思いで、胸がいっぱいになったのだ。
その幸福に浸っていると、薄いカーテンの向こうからさしこむ朝日のお蔭で、部屋の向こう端にある勉強机の上に置かれた、一冊の本が目にはいった。
『アンネの日記』だ。ユダヤ人の少女アンネが、オランダで書いた日記だった。ナチがオランダに侵攻してから、隠れ家で生活する様を中心に書かかれている。非常に生き生きとした記述だったため、アンネが隠れ家から一歩もでられない生活を二年も続けていたのに、彼女が幸福な生活を送っていたことは容易に想像できた。
だから、僕はアンネが強制収容所に送られたことが許せなかった。もしも第二次大戦中のオランダにいたら、僕はアンネ・フランクを匿い、この変わらない世界から逃がすことができただろうと思った。
だが昨日あったあの少女、つまりアンネなら逃がすどころか、一緒に逃げられるような気がする。彼女が僕の孤独を埋めてくれたように、僕も彼女の孤独を癒してあげられるような気がしたのだ。
目覚まし時計を五時に設定したのは、そのためだった。
いつもなら、七時を過ぎてから起きる。早めに起きたのは、アンネと映画をみにいく約束があったためだ。
昨日、僕は家に帰ってすぐに新聞で上映されている映画について調べた。実在するマフィアの伝記映画の存在をしってみにいこうとメールで送ると、彼女から明日にでもみにいきたい、といわれたのだ。
僕は勉強の他に予定がなかったので、すぐに了解という内容のメールを送った。
そのため僕は、万が一にも遅れることのないよう早めに起きたのだ。
とはいえ、約束の時間は十時だった。待ち合わせ先のショッピングモールまで家から自転車で四十分かかることや、ショッピングモールが広い上に四階建てなため移動に時間がかかることを差し置いても、時間はありあまっている。
家で時間を潰すことも考えたが、僕は移動中にトラブルが起こって遅れることを恐れ、ショッピングモールまでいった。
自転車を置いて東口から入ったところ、右手にあるスーパーしか開いておらず、残りの店舗はすべてシャッターが下りていた。
早く来すぎたかと思って腕時計をみると、まだ八時半だった。映画館を含めてほとんどの店は十時に開くから、シャッターだらけなのは無理もない。
店舗を回って暇を潰すことが不可能だと気づいた僕は、幅五メートルほどの通路の中央にある、三人がけの木製のベンチの真ん中に腰を下ろした。
このショッピングモールは一階が吹き抜けになっている。そのため天井の照明は二階の上にあるというのに、外から光が差しこんでいるためか、床にワックスが塗られているためか、それとも通路わきの店舗上にある照明のお蔭か、非常に明るかった。
そのため肩から下げていた鞄から、家から持ってきたナチの本をとりだしたところ、目を凝らす必要はなかった。だというのに、文章は一向に頭に入ってこない。
戦中、ルブリン収容所にいたユダヤ人はナチの命令により、空襲対策と称して深さ三メートル、幅四・五メートルの穴を掘らされた。そして丸裸にされて手を首の後ろで組んで塹壕まで歩かされ、射殺された。射撃音を消すため、拡声器を積んだ二台のトラックが音を鳴り響かせていたが、効果は殆どなかった――。
以前の僕であれば、その文章を読んで明確なイメージが湧いただろうし、ユダヤ人が死ぬ様を鮮明に思い浮かべられただろう。そして吐き気を覚え、平和な国に生まれたことを喜んだに違いない。
だが今は、腹の奥底で鈍い痛みを感じるだけだった。
「お待たせ」
その言葉をきき、僕は顔を上げた。
目の前には、茶色いハンドバッグを手に持ち、灰色のフレアチュニックを着て、綿でできた黄土色の短パンを履いたアンネがいた。胸元にはダヴィデの星がつけられている。
十代半ばの女の子にしては地味な格好だ。初めてあった時、彼女からは他者を拒絶するオーラを感じたから、僕の母と同様、他者の評価に興味がない人間なのかもしれない。
「待ってないよ。今来たとこ」
「うそつき。十分くらいずっと本読んでたじゃない」
アンネはそういうと、僕の隣に腰を下ろした。
僕は二十センチほどの距離に座った彼女をみて緊張し、それを隠すために腕時計をみた。
いつの間にか、針は九時四十分を指している。
一時間以上、読書をしていたらしい。そう考えると、とたんに首が痛くなった。
そこで姿勢を正して肩を鳴らすと、ナチスの軍人が大勢歩いていることに気づいた。
まばらではあったものの店内のシャッターがひらかれており、コーヒーショップや服屋が開店しているため、それらの店を訪れに来たのだろう。
「もっと早く声をかけてくれればよかったのに」
「やたら集中してたから、話しかけたら悪いなと思ったのよ。でも一向に本を閉じないから、声をかけたの」
「そっか。ごめん」
本を閉じたところ、彼女が表紙に目を向けてきた。
その瞬間、僕はしまったと思った。女の子とデートをするのに、待ち合わせ場所で悲惨な内容の本を読んでいると、暗い人間だと思われてしまう。
そう考えた僕は、素早く本を鞄にしまった。
だが、後の祭りらしい。アンネは僕の鞄に視線を注いでいたのだ。




