牢格子
「欺瞞だ」
僕はそう呟いた。
そのため僕は黙って食事を食べ、歯を磨いて風呂にはいり、ベッドに横になった。
目覚めた時、僕はしらない場所にいた。
まず目に入ったのは、灰色の薄暗い天井だ。寝そべっていた状態から上半身を起こしてたちあがると、コンクリでできた天井が頭のすぐ上にあることに気づいた。僕の身長は百七十センチほどだから、天井の高さは百八十センチもないだろう。
僕は周囲をみまわした。
部屋にはなにもない。床は灰色のコンクリでできており、三方の壁も同じだった。
壁の一辺にだけは壁がなく、細い格子が縦横に規則正しくはめられていた。格子の隙間は、十五センチほどしかない。
部屋のなかが薄暗いためよくみえなかったが、格子に近寄って触ってみると、どうやら鉄か、それに類する物でできているらしいと気づいた。
また、格子には扉と思しき枠と、南京錠がはめられていた。
「牢屋だ」
僕はすべてを悟った。理由はわからぬものの、僕は牢屋にいれられてしまったのだ。
僕はどうやってでたものかと、周囲をみまわした。
しかしこの部屋には、鍵はおろかトレやベッド、窓すらない。
そのため脱出に役だつものはないから、自分で牢格子をあけるしかない。
そう考え、僕は両手で牢格子の扉部分を掴み、強く揺らした。
だが、牢格子はあまりにも強くはめられていたため、いくら力をこめたところでびくともしない。がしん、がしんという重い音をたたせるのがやっとだった。
「誰か、助けてください」
僕は、牢格子の向こうにいった。
牢格子の向こう一メートルほどの所には、壁がある。しかしその両脇は通路になっていたので、誰かいないかと思ったのだ。
僕の考えは当たっていたらしかった。
薄暗い廊下の右側から、固い床を踏んで歩く靴の音がきこえたのだ。
「助けてください!」
靴音は少しずつ大きくなり、コンクリの壁に反響した。
興奮した僕は、格子を強く揺らして音をだした。
靴音の主が現れたのはその時だ。
母だ。
綿の青いズボンに紫のチュニックという格好をしていた。
「母さん! 俺だよ なあ、ここからだしてくれ!」
母は牢屋のすぐ前を通りぬけたというのに、僕の声に気づいていないらしく、通路の左側に向かって素通りしようとした。
僕は母の服の袖を掴もうとした。
だが不可解なことに、牢格子から伸ばした僕の右手は、母の腕をするりと通り過ぎてしまった。
僕は混乱しながらも、母に向かって叫んだ。
「母さん、きこえるだろ? なんで無視するんだよ」
母は僕を一瞥することなく、通路の左側に消えてしまった。
僕が言葉を失っていると、牢格子の向こうにある灰色の壁の、床から一メートルほどのところに、白黒の荒い映像が映った。
壁に小さなテレビがはめこまれていたらしい――僕はそう考えながら、映像をみつめた。
画面に映っていたのは、十歳ほどの少女だった。彼女は笑顔を浮かべていたが、カメラには気づいていないらしく、右側を向いて笑顔を浮かべていた。
画面が変わった。
彼女は五歳ほど年を重ねた、美しい少女に成長していた。奇怪なことに、胸元には正三角形を二つ、逆方向に重ねたバッジをつけている。
『ダヴィデの星』だった。ナチの支配地域で、ユダヤ人が着用を義務づけられたものだ。
僕が怪訝に思っていると、少女の脇を、右腕に鍵十字の腕章をつけたナチスの軍人が素通りした。
あのテレビの向こうでは、ナチスの支配が進んでいるのだ――。
そう思った僕は少女を助けにいこうと、牢格子を強く揺すった。だがやはり、びくりともしない。渾身の力で蹴っても無駄だった。果てには体当たりまでしたものの、牢格子は歪みすらしない。
その時、通路の右側から父が現れた。百六十センチ前後と僕より低い背に、百キロちかい巨体だから、薄暗がりのなかでもみまちがえるはずがない。
「父さん! ここからだしてよ! ねえ、あの子を助けにいかないといけないんだ!」
母と違って僕の声がきこえたらしく、父は僕を一瞥した。
だが父は、冷たい目を僕に向けると、すぐに廊下の左側に消えてしまった。服の袖を握ることはできたものの、乱暴に振り払われてしまった。
「ねえ、誰か! あの子を助けないといけないんだよ! なんでわかってくれないんだ!」
テレビの画面は、ユダヤ人の少女が人で溢れかえった貨物列車に乗せられているところだった。
強制収容所に送られるのだ。
そう気づいた僕は、ますます強く牢格子を揺すった。
その際、ナチの軍服を着たクラスメイトたちや担任が通りがかった。
僕はかまわずに大きな声で助けを求めたが、父以上に冷たい目を向け、彼らは通り過ぎてしまった。
再びテレビ画面をみると、少女は裸になっており、同じく裸となった百人ほどの女性たちと共に、シャワー室にいた。
シャワーノズルからは一滴の水もでなかった。
その時、異変が起こった。十人ほどの女性が、一斉に倒れ始めたのだ。
残りの二十人ほどは、甲高い悲鳴をあげるか、咽喉をおさえてがりがりと掻きむしってもがいていた。
先ほどの少女も同様で、目を大きく開き、咽喉に両手を押し当てていた。
その時、彼女はようやくテレビカメラに気づいたらしく、僕を向いて口をぱくぱくとさせ、なにかを訴えた。
「どうしたんだ、こんなところで」
その時、黒い軍服を着た兄が通りがかった。
「アニキ、ここをあけてくれ! 俺、あの子を助けにいかないといけないんだよ! ガス室から救い出さなきゃならないんだよ!」
「なにいってるんだ? 頭、大丈夫か?」
「大丈夫だ! だから助けてくれよ! なあ!」
兄は僕を鼻で笑うと、無言で去っていった。
最後の頼みの綱を失った僕は、無力を噛みしめながらテレビをみた。
彼女は仰向けになって床に倒れていた。呼吸をしていないらしく、やせ細り、肋骨の浮かび上がった胸はぴくりとも動かない。
僕が絶望していると鍵の開く音がきこえた。コンクリに囲まれた狭い場所だというのに、その音はまるで反響していなかった。
そのため僕は、どこから音がきこえたのか一瞬で理解し、牢屋の扉部をみつめた。
そこには県議の勉強会であった少女がいた。胸元には『ダヴィデの星』がつけられている。
僕は彼女がユダヤ人であるとしって驚いたが、今はそれどころではなかった。
「あなたは悪くないわ」
ユダヤ人の少女は左手に鈍く光る鍵を持ち、右手で格子の扉をあけてくれたのだ。




