兄、再び
僕たちはビルの一階まで降り、自転車を押して歩き、別れるまで話を続けた。
政治の質のような、傍からみればくだらないであろう話ばかりだったけれど、僕は楽しかった。
それは彼女も同じらしく、丁字路で別れる際、立ち止まって名残惜しそうな表情を浮かべ、小さく手を振ってくれた。
そのため僕は彼女に参ってしまい、彼女のことをひたすら考え続けていた。
自分の部屋に引きこもって教科書を広げた時も、帰宅した父を迎えた時も、僕は彼女のことばかりを考えていた。
しかし、いつまでも一人で記憶に浸っているわけにはいかなかった。夕食の時間になったためだ。
僕の家の食事は決まってダイニングでとる。それは夕食も同じだった。
無垢のフローリングで作られた床の上に置かれた、四人掛けのダイニングチェアの周りを、家族四人がそれぞれ木製の椅子に座って囲み、食事をとるのだった。
照明に照らされた食事は白米に味噌汁、トビウオの塩焼き、かぼちゃの煮物にわかめときゅうりの酢の物というものだった。すぐ作れるものばかりなのは、母が手間をかけることを嫌っているためだろう。
「今日、県議会議員の勉強会までいったんでしょ?」
軍服をきた母が、だし抜けにいった。父と兄が僕からみてそれぞれ左右に座っているのとは違い、母はダイニングチェアの向こう側にいる。
僕はすぐに視線を逸らした。母の席はステンレス製のキッチンの前だったため、光が反射して眩しかったのだ。
母の後ろ以外の三方は窓だった上、薄緑のカーテンで閉められているので、眩しさに目がくらむことはなかっただろう。
「政治家の演説なんかきいて、なにが面白いわけ?」
「ま、ためになるからね」
そういったのは兄だ。右胸に鷲章のついた、ナチの軍服を着ている。
「色々と楽しかったよ。病院の民営化の問題についてしったし」
僕がそういうと、兄はあからさまに気分を害したような表情を浮かべた。
恐らく、県議にきいた話について、自分が語りたかったのだろう。まるで知識をひけらかすことを好む小学生だった。
「そんなもの、しってなんになるのよ。起こる問題なんでたかがしれてるじゃない」
「しれてないよ」
僕はそういって、県議にきいた問題点を羅列した。
具体的な事実を話したにもかかわらず、母は『でもねえ』や『だけど』といった、否定の言葉を羅列していた。
母はいつもこうだった。自分が一度決めたことは、絶対に覆さないのだ。
そのため僕は途中で話を切り止めた。
「ま、問題点はそういったところかな」
すかさず話を引き継いだのは兄だ。
「反対の署名貰ったんだ。だから、後で名前を書いてくんない?」
「やーよそんなの。なんで名前なんて書かなきゃならないの。個人のプライバシー駄々漏れじゃない。ねえ、あなた」
急に食事をふられた父は、一瞬だけ間を置き、
「まあな」
といった。そしてそれきり、口を閉じてしまった。
軍服を着た父はそういうと、僕を盗みみて、沈黙した。
以前の父は饒舌だった。夕食にくるのは稀だったが、その際には常に冗談を交え、母や僕を笑わせていたのだ。
だが今は、みる影もない。
ひと月前、父が夕食に来ないのは医院が忙しいからではなく、愛人の家で食事をとっていたためだと僕はしった。
そのため母が可哀そうになった僕は、父を咎めた。二人きりである時をみはからい、浮気の証拠をつきつけたのだ。
その結果、父は愛人と縁をきってくれたし、夕食に必ず顔をだすようになった。しかし同時に、父は笑わなくなった。愛人の存在をしられ、よりにもよって息子である僕に叱られたことで、家でどうやって過ごせばいいのかわからなくなってしまったのだ。
僕の心に余裕があれば、父の笑顔をとり戻せただろう。だが僕は、チウネが亡くなったことでそれどころではなくなり、気づいた時には父は無言で食事をとるようになっていた。
「なによ、お父さんまで。政治より勉強の方が大切じゃない。そもそも、政治について調べて、なにか意味があるわけ? 変わらないじゃない」
「そう考える人がいるから、変わらないんじゃないかな」
僕が淡々とした口調でそういうと、母はあからさまにむっとした表情を浮かべた。
「なによ、それ」
「まあまあ。いいじゃん、別に。あいつにはあいつの考えがあるんだから」
兄はそういうと、僕をみて鼻で笑った。母の味方をしているつもりだとしたら、頭がおかしいとしか思えなかった。
兄は二週間前、『運転免許が欲しい』といって母から三十万円をせびり、彼女にプレゼントを渡していたのだ。母にばれると平謝りで済ませた。
二か月に一度は似たようなことがあった。兄が母から奪った金は、この一年で百万円はくだらないだろう。
僕はそのことを指摘しようかと思ったが、無駄だと思って止めた。
兄は愚かで、他者の気持ちを考えるということをしない。そんな人間になにかをいったところで無意味だからだ。




