虐められっ子の少女と僕
僕は目だけを動かし、周囲を一瞥した。
学習用のスペースだから、若い人が多い。休日だから学生服を着ている者はいないし、机、つまり壁際を向いている人ばかりだから顔から年齢をうかがうことはできない。
しかし教科書や参考書が置かれている机が多いから、殆どの人間は学生だろう。僕のしりあいらしき者はいないが、兄の『あった』という表現からすると、既にここをたち去った後なのだろう。
「ここにはいないさ。もうでてった」
僕が周囲をみまわしたことに気づいたのだろう。兄はやや楽しそうな表情をすると、責めるような口調でいった。
「お前、学校で女の子を叱ったって本当か?」
「なんの話?」
「中絶しようとしてる女の子がカンパしてるの、教師に密告したらしいじゃないか」
いきなり『中絶』という生々しい言葉がでたにもかからず、兄はいい淀まなかったし、口ごもりもしなかった。
「その話か」
僕は暗い気持ちになりながら、小さな声でいった。
「カンパしてた奴、いじめっ子だよ。いじめられてる子から無理に金をパクろうとしてたから、注意したんだ。でもうまくいかなかったから、しょうがなしに担任にいったんだ」
「中絶の話、本当かもしれないじゃないか」
「嘘だよ。似たようなこと、これまでにもなんどもあったし」
「その時は本当だったかもしれないじゃないか」
僕は、カンパを命令されていた女子が二十万以上も金をせびられ、一度も返金されたことがないことを訴えようかと思った。
また、僕がそのことを許せなくなったことを告げようかと思った。
しかし無駄だと悟って、すぐに止めた。
兄の表情が、自分に酔った人間のそれだったからだ。
兄は弱者を守るという口実を使い、人をなぶることを趣味としていた。実際は人を責める理由がほしいだけで、難病の患者や同性愛者といった社会的弱者を軽蔑していたが。
「ねえ、人の前だよ。弟君が可哀そうじゃん」
「だから、そんなのは関係ないんだ」
兄はそういうと、頬を緩ませて僕をみた。
兄は他者を批判し、攻撃することをなによりの喜びとする人間だった。そのため、僕を批判できることが嬉しくて仕方がないのだろう。
僕は少し前まで、兄の行動を逐一批判していたが、兄の相手をすることに疲れ、今ではなにをいわれても、大きな声では反論しないようになっていたのだ。
兄はそのことを、僕が屈したのだと思いこんでいるらしかった。
「ねえってば」
「いいんだ」
兄は、恋人をふり払った。
この勉強スペースには僕と兄、兄の彼女の他に四人ほどがいたが、兄はそのことを気にとめなかった。また、自分は座っているのに、僕をたたせたまま叱り飛ばしていた。
そのためだろう。兄の彼女は、兄の話をきいて椅子をひき、目を落としていたのだ。
「この話をしてきたの、俺の後輩だぞ。信頼のおける奴だ。嘘はつかない」
「そう」
弟よりも信頼がおける相手か――僕は内心でせせらわらった。
「大体、教師に密告をしたら余計に面倒なことになるじゃないか。クラスのカースト制度って、そういうものだろ」
「まあね」
いじめられている少女を救おうと、僕が二か月近く一人で行動し、成果がなかったから担任を頼ったことについて、兄はきいていないらしかった。
恐らく、兄のいう『後輩』は僕を嫌っている者の一人で、僕の悪口を吹きこみたかったのだろう。僕がいじめられている少女を救いたくてしようがなく、ノドを食事が通らなかったことなど、いうはずがない。
兄も兄だ。僕が少女を救いたいがために兄に相談したことを忘れている。
そして僕の話をきくだけでなんのアドバイスもしなかったこと、話をきいてすぐに友人たちに噂を広めていたことも、記憶から消えているらしかった。
後に『話を聞いてやっただろう』と恩着せがましく口にし、僕から金を借りたことにいたっては、覚える気すらないのだろう。
「叱った、っていうのは本当か?」
「うん」
「女の子を叱っちゃダメだろう」
「いじめられてる子を助けたかったんだよ」
「いじめっ子を叱ってどうなった? その子は救われたのか?」
「いいや」
僕がしたことは裏目だった。
いじめられていた少女は『男に色目を使っている』といわれ、下着を盗まれたり、服を脱がされてトイレに閉じこめられたりするようになったのだ。
罪悪感にかられた僕は、彼女を救おうと女子グループのリーダーに頭を下げたり、男子たちを説得したりした。プライドの高い僕にとって屈辱的な行為だったものの、効果はなかった。
それどころか、いじめはより酷く残忍になっていった。最後の手段として僕は担任に告げ口をしたのだ。
「いじめにくちばしを挟むのは止めとけ。その子へのいじめが酷くなるだけだ」
告げ口から三日後の放課後、いじめられていた少女が校舎裏で服を脱がされ、すすり泣いているのが発見された。
いじめていた女子たちが一週間の謹慎、男子数名が退学となり、いじめられていた少女がひきこもるようになったから、なにがあったかは明白だった。
僕は自分のしたことを悔い、辱められた少女の家に謝りにいった。物を投げられたり罵声を浴びせられることの覚悟はできていた。
そして、覚悟していた通りになった。少女から『あなたのせいでいじめが酷くなった』といわれ、泣かれてしまったのだ。
僕は反論できなかった。彼女のいったことが事実だったため、だけではない。
泣きわめく彼女をみるうち、僕に怒りを向けることで彼女が正気を保っていると、気づいてしまったのだ。
いじめをしていた少女たちが、僕ではなく彼女に怒りを向けていたように。いじめられていた少女はいじめていた相手を恨む勇気がなかったために、僕に怒りを向けていたのだ。
だから、僕はなにもいえなかった。
あの時、彼女に反論していれば、社会への憤りは出口を失い、彼女の思いは暴走していただろう。僕のように、世界のすべての人間がナチにみえるようになったかもしれない。
「大体、お前までいじめられるようになったらどうするんだ。女子ってのは怖いぞ。男子を巻きこんで報復をしだすからな」
「なんで俺が悪くなるんだ」
気づいた時、僕はそういっていた。怒りに満ち溢れていたためか、その声は大きかった。
僕は驚いた。人の前で感情をあらわにすることなど、ここしばらくなかったためだ。
驚いたのは僕だけではないらしい。兄は僕をみて瞬きをしていたのだ。
「俺、あの子を救いたかったんだ。だから必至で頑張ったんだよ。それなのに、なんで俺が悪くなるんだ」
僕の感情は暴走しかかっていた。胸に抱いていた、世界そのものへの怒りが溢れかえりそうになっていたのだ。
このままでは、僕のなかにある破壊的な衝動は、はけ口を求めて暴走するだろう。
現に今、僕は兄を殺したいと思っていた。なにかよく切れるものを使って兄を八つ裂きにし、社会を侮蔑する存在をこの世からとり除きたいという思いを抱いていた。
僕は自分を押しとどめようとしたが、うまくいかなかった。なにかきっかけがないと、この感情を始末できないだろう。
「いや、だから問題が悪いんであって――」
僕の感情が溢れかえったのが、久しぶりだからだろう。兄はどう反応すればいいか困っているらしく、言葉を選びながらいった。
「じゃあ、どうすればよかったんだよ。アニキならどうしたんだよ」
「それは、色々さ」
「色々ってなんだよ。具体的になんだよ」
「そりゃ――」
「大体、アニキはいじめを前にしたことがあるのかよ。いじめられてる奴を助けようとしたことがあるのかよ」
「それは――あるさ、勿論」
「ごめん、ちょっと、いくね」
その時、兄の彼女の声がきこえた。
彼女はそういうと、革製のバッグを使って歩き去った。机の上にあった筆記用具やノートはそのままだから、一刻も早く去りたかったのだろう。
「お前のせいだぞ」
兄はそんな捨て台詞を吐くと、彼女の後に続いて学習スペースからでていった。
僕は荒く呼吸をしながら、兄の彼女が座っていた席に座り、筆記用具とノートを乱暴にのけてから、机に両腕のひじを置いて前かがみになり、額を組んだ両手の上に乗せた。




