最終章全話
「欺瞞だ」
僕はそう呟くと、僕の家に入っていった。
最初にしたことは、キッチンまでいって包丁を片づけることだった。包丁が一本足りないことを、母に気づかれたら大変なことになる。そう思ったのだ。
幸いなことにキッチンに母はいなかった。そのため僕は安堵しながら包丁をとりだし、流しで水洗いした後、タオルで拭いて包丁差しに戻した。
包丁は刃こぼれしていなかったし色や匂いがついたということもなかったから、既にばれているのでなければ包丁を持ちだしたことは判明しないだろう。もしばれていたとしても、果物を切るために僕の部屋に持っていったと嘘をつけばいい。
ただ、下手をすればとり返しのつかないことになっていた。
包丁を運んでいたバッグに、小さな穴が三つほどあいていたのだ。包丁は新聞で包んでいたが、恐らく、刃先が露出していたのだろう。そのため自転車を漕いで揺れている間に、バッグに穴ができたに違いない。
下手をすれば包丁が路上に落ちていたかもしれない。
そう思いながらバッグを眺めていると、不意に強い違和感に襲われた。
その正体がなんなのか、僕は考えてみようと思ったが、あまりに疲れてしまっており、考えがまとまらない。
そこで僕は、自分の部屋まで移動し、ベッドの上の、朝から敷きっぱなしになっていた布団の上に寝そべった。
カーテンを閉めていた上、クーラーをつけていなかったので部屋のなかは暑かったが、僕は疲労のあまり服を脱がず、しわくちゃになったシーツを抱きしめた。
すると県議を殺しにいった時のこと、兄との電話、先ほどのアンネとの会話といった出来事が、次々に記憶に蘇ってきた。
そのなかで特に、逃避を批判してきたアンネの言葉と、正論ばかりいって周囲にひかれた、という県議の言葉が繰り返し反芻された。




