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電話

 僕は兄に電話をかけなおした。

「さっき、電話かけただろ。なんのよう?」

『ああ、それか』

 兄の声は吐き捨てるようなものだった。

 もしかしたら包丁を盗んだことがばれたのだろうか。僕はそう思って、背筋を伸ばした。

『大体なんの用か想像つくだろ』

「さあ」

『――とぼけてるフリはよせ。お前、あいつと一体なにを企んでるんだ?』

 兄の言葉は意味不明だった。包丁の一件でないことはわかったが、兄がなにをいおうとしているのかはわからなかった。

 兄の口調は人を責める時のそれではなく、焦っている時のものだったから、気が動転していたのかもしれない。

「なんの話? 大体、あいつって誰だよ」

『お前の元カノだよ。ほら、少し前に家に入り浸ってた奴』

 恐らく、アンネのことだろう。

「俺、あいつとなにか企んだりしてないよ」

『嘘つけ。さっき、家に帰る時にまたあいつにあったぞ。ありゃ絶対に偶然じゃない』

「へえ?」

『本当になにしたいんだ、お前ら』

「本当にしらないよ。俺、最近はあいつと連絡をとってないし」

 僕が嘘をついていないと気づいたのだろう。

 兄は電話の向こうで唸るような声をだしたが、噛みつきはしなかった。

『よし、わかった。ならいい。けど、さっさとこっちに戻ってあの女を追い払え。あの女、一時間以上たってるのに、まだ家の前にいるんだぞ。あった時は睨んできたし』

 アンネが僕の家の前で長い間を過ごす理由について、僕は考えこんだ。

 兄や母といった、僕以外の人間に用があるとは考えづらい。では、アンネは僕に用があって家まできたのだろう。

 そう考えていると、ある考えに至った。恐らく、アンネは僕と和解したいのだろう。そのため、僕の家の前まで来たのだ。

 兄を睨んでいたのは、僕と離れるきっかけを作ったため、嫌いになったのだろう。

「わかった。今からそっちにいくよ」

『早くしろ』

 兄の口調は乱暴だった。せかすのなら直接アンネにいえばいいと思ったが、恐らく、兄はアンネという人間を測りかねているのだろう。

 アンネに強い言葉をかけ、反論されるのが怖いのだ。そのため、抵抗する可能性が少ない僕に電話をかけたのに違いない。

 僕はそう結論づけると、県議の元にいって用事ができたと告げ、自転車を漕いで家に向かった。

 アンネにあいたかったからだ。

 彼女と関係を修復できれば、僕はまた壊れることに歯止めをかけられる。

 それが根本的な解決にならないことはわかっていたし、県議を刺しそうになったことで、どうにかして僕の精神状態を元に戻さないといけないとわかってもいた。

 しかし、僕はとりあえず、逃げて避難できる場所が欲しかったのだ。

 アンネは僕の家の前の、車が二台は余裕ですれ違える広さの道路にいた。僕の家の向かい側に近かったから、その家に用事があるのではないかと疑ってしまいそうだった。

 しかし、アンネは無言で首を上げ、僕の家を向いているから、僕の家に用があることは間違いないだろう。

 雲一つない炎天下だった上に、地面がアスファルトだったためか、アンネは白いチュニックに茶色いカジュアルサンダルという格好だった。

 そのため肌の露出は多く、玉になって浮いた汗がよくみえた。

 彼女のすぐ後ろには自転車が置かれているから、それで来たのだろう。

 それだけなら違和感を覚えないが、彼女は大きめのハンドバッグを持ち、僕の家をじっと睨んでいた。

「なにか用?」

 僕は自転車から降り、押しながらアンネに近寄り、声をかけた。

 アンネは険しくなった額を僕に向けた。

 その瞬間、僕は彼女に激しい嫌悪感を覚えた。彼女の憎悪があまりに直接的に伝わってきたためだ。

「いつの間にいたの」

 彼女の声は荒々しかった。

 僕は嫌悪に苛まれながら、彼女の意図を探った。

 僕は、彼女が和解したくて僕の家の前まで来たのだと思っていたが、表情をみるに違うらしい。

「今さっきだよ。そっちは?」

「いつだっていいじゃない」

 彼女はバッグを強くつかんだ。

「よくないさ。アニキから電話があって、さっきからずっとそこにいるってきいたぜ。なんの用もなしにそんなことはしないだろ」

「それは――」

「なにがあったんだ?」

 アンネは黙ると、視線を下げた。歯を剥きだしにしていたから、怒りが去ったわけではないのだろう。

 ただ、なにかを伝えたいのだということはわかった。

「なんなら、俺の部屋までいこうか。そっちの方がいいたいこといえるだろうし」

「でも――」

「いいさ。いこうぜ。俺も、少しいいたいことがあったんだ」

 僕がそういうと、アンネは顔をあげ、思い切り僕を睨んできた。

「また、逃げるのに私を使うのね」

「え?」

「あなた、逃げたいだけじゃない。戦うんじゃなくて、逃げる相手として私を選んだんじゃない」

「おい、待て」

「来ないで」

 アンネはそういうと、バッグを自転車のカゴにいれた。

「私をわかってくれないなら、来ないで」

「わかるって、なんだよ。いってくれなきゃわかんないよ」

 僕はアンネの、あまりに身勝手な言葉に呆れながらも、彼女に近寄った。

 アンネの目が、他者を拒絶する者のそれではなく、甘える時の目だったからだ。目尻には涙が浮かんでいる。

 そのため僕は、彼女は言葉面こそ僕を拒絶していたが、本当は僕に自分の話をきいて欲しいのだろうと思ったのだ。

「なあ、いいたいことがあるならいってくれよ」

 僕がそういうと、アンネは下唇を噛み、目に涙を浮かべながら、顔を逸らした。

「ごめん。今は無理」

「おい――」

「後で、またいうから。今はそっとして。お願い」

 彼女はそういうと、自転車にまたがった。

 僕は彼女の悲しそうな表情をみて、なにもいえなくなった。

 彼女の目が、壊れかかった人間のそれと同じだったのだ。不用意に触れば、彼女が壊れてしまうかもしれない。

「わかった。でも、また来てくれ。絶対だぞ」

「うん。――ありがと」

 アンネはそういうと、自転車を漕ぎ、走り去っていった。

 僕はアンネの後姿を眺め続けた。

 これでよかったのかと、内心では思っていた。無理に彼女のいいたいことをきいた方がよかったのではないか、そんな疑問もあった。

 ただ、そう考えている内にアンネはみるみる小さくなり、角を左に曲がったことで、姿はみえなくなってしまった。


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