僕の兄と杉原千畝
母の足音が遠ざかり、ドアが閉まる音がきこえた。
僕は段ボール箱を机の上に置くと、玄関にいって靴を履き、自転車小屋に向かった。
「欺瞞だ」
僕は自転車に乗りながら、小さな声で呟いた。母が僕に嘘をついていたわけではない。
世界が平和であり続けると思いこみ、地球の裏で起こっている戦火に耳を閉ざす社会そのものが、自己欺瞞に満ちた存在に思えていたのだ。
この国の将来に暗雲が立ちこめれば、母たちまで火の粉がかかる。そう思って話をしても、想像力が欠けているが故にきく耳をもってくれないのだ。そして僕が無理に話をきかせようとすると、面倒くさそうな表情を浮かべる。
だから、僕は母を含む全人類を軽蔑し、憎悪するようになっていった。
そしてひと月前、その気持ちが暴走してしまったのだ。
僕はひと月前、学校から帰宅する際中、段ボールに入れられて衰弱している子犬を発見し、助けようと思って連れて帰った。
犬を飼うことに両親は難色を示したものの、僕が必死で頭を下げると飼育を認めてくれた。
唯一の条件だった獣医にみせることは、その日の内にすましたから、共に住むことになんの問題もないように思われた。
僕は彼を、チウネと名づけた。杉原千畝からとったものだった。
チウネとは三日しか一緒にいなかったが、僕は限りない愛情を注いだ。
しかし近所で、開業医の家が捨て犬を拾ったという噂が広まった結果、思い返した母が僕になんの相談もせずにチウネを保健所に送ったことで、すべては変わってしまった。
僕が保健所のことをしったときには、チウネはとうの昔にガス室で焼却され、息絶えていたのだ。
僕は保健所でガス室に送られたチウネをユダヤ人に重ねると同時に、母をナチスに重ねた。次第に、政治に無関心でいる者がみなナチであるように感じられるようになっていき、今では、殆どの人間がナチにみえてしまう。
自転車を漕いでいる今も、通り過ぎる人々は全員、軍服を着ていたのだ。
僕は彼らの存在が不快でたまらなかったため、目を逸らしながら、自転車を漕ぐ足に力をこめた。
そのためだろう。気づいた時には、目的地である図書館についていた。
久しぶりに訪れる図書館は、以前にみた時と同様に建物の白い外壁が薄汚れ、黒ずんでいた。二階建てで床面積が広いから、色の塗り直しに費用がかかるのかもしれない。
施設のなかも同様で、木製の本棚には傷がめだった。流石に腐敗はしていないが、地震が起これば誰かが犠牲になるかもしれない。
とはいえ、僕が本棚の下敷きになる可能性は極めて低いだろう。
僕は、この図書館には滅多に寄らなかったのだ。
本は読む方だったが、基本的に購入するので図書館にはいかなかったのだ。また、家から自転車でいける距離にあるとはいえ、駅や学校とは正反対の方向にあるので、用事のついでにいくこともほとんどない。そのためここにくるのは、もう五月になるというのに、今年初めてだった。
そして二階にいくのは、ほとんど二年ぶりだった。
小説や新聞コーナー、更には漫画コーナーなどが設けられた一階と違い、二階は専門書と勉強用のスペースしかない。そのため一階は普通の利用者、二階は学生というふうに、利用者のすみわけができていた。
兄がいるのは二階だった。僕と兄は、二階の勉強用のスペースで待ち合わせをしていたのだ。
二階の隅にある学習スペースは、六十センチほどの高さの机が壁際に十並んでいるだけのものだった。
特別な敷居はないので、傍からみると読書スペースにしかみえないが、使用するためには受付で許可証を貰った上、机の上に置かなければならない。
その手間が面倒なのか、それともみえない所に置いているのか、許可証を机の上に置いているのは一人だけだった。
兄は使用していない五人の内の一人だ。
「ごめん、遅くなって」
僕は声をかけ、兄の左隣の机をみた。そこには、親衛隊の女性補助員の制服を着た、兄の彼女がいた。
彼女に会釈をすると、彼女も会釈を返してくれた。
彼女は兄のすぐ隣に座っていた。
机は一人用で、椅子は壁を向くように設置されていたため、基本的に一人でしか勉強できないようにできているのだが、兄たちは机の端により、椅子を寄せっていたのだ。
「待った?」
僕がそういうと、軍服姿の兄は机の明かりを消し、ノートを畳みながらふり返った。眉根をやや寄せていることからして、どうやら怒っているらしい。
兄はやたらと気が短いが、理由もなしに怒ることは珍しい。八つ当たりでなければ、僕の方になにか理由があるのかもしれない。
僕はそう考えて腕時計をみた。落ち合う予定の一時半までは、まだ三分あった。
「ぎりぎりだけど、間に合ったじゃないか。県議会議員の勉強会、隣の建物だろ? そんなに怒ることないじゃないか」
僕と兄は、二時から始まる県議会議員の勉強会に参加することになっていた。そのため、勉強会が行われる建物の隣にある、図書館で待ち合わせをしていたのだ。
「俺はそんなことに怒ってるんじゃない」
「ねえ。止めようよ。こんなとこで」
「いいんだ。こういうことは早くいった方がいい」
兄の彼女は、背をかがめて僕と兄の交互に視線を送っていた。どう反応をすればいいかと考えこんでいたのだろう。
彼女は器量が悪いわけではなかったが、美しすぎるわけもなかった。頬に塗った化粧や、口紅をとれば、恐らくはごく普通の顔が現れることだろう。
兄がこれまでにつき合ってきた女性と同じタイプだ。
兄は醜い女性を嫌うと同時に、自分とつりあいのとれない、美しすぎる女性を毛嫌いしていたのだ。
その結果、兄は一緒に歩けば自分が映えることを狙い、自分よりもやや容姿の劣る女性とばかりつきあっていた。
彼女もその一人だ。もっとも、最近は兄の偽善にみちた性格に気づき始めたらしく、兄と一緒にいる時に辛そうな表情を浮かべるようになっていた。ひょっとしたら、兄の以前の恋人のように暴力をふるわれるようになったのかもしれない。
僕から目を逸らしているから、兄と別れた方がいいと僕がさりげなく口にした際、なじったことを今になって後悔しているのかもしれない。
「さっき、お前の学校のクラスメイトにあったんだよ」
「へえ」




