敵
「欺瞞だ。僕の存在が欺瞞だ」
気が休まらなかった。
僕の胸にある怒りは、まだまだ暴力を求めていたのだ。
母ではない、別の誰かに、怒りをぶつけたくてしかたがなかったのだ。
だから僕は、兄の部屋と反対側の、右側の壁を蹴りながら、この怒りを誰にぶつければいいのか、僕の敵は誰なのかと考え続けた。
だが、怒りのエネルギーがいつまでも続くはずがない。壁を十回目に蹴った時には、僕のなかにある怒りは消え、僕はなにをしているのかという自問に変わった。
そして、僕は床に座った。
床にはクリアファイルから溢れでた、十枚ほどの紙が広がっている。
映画館にいった時にパンフレットを持って帰ったり、文化会館でとったものだ。
僕は、そのなかの一枚を拾った。
それは県議会議員が、県立病院の民営化に反対したときのチラシで、ある人物の顔写真が写っていた。下に県議の名前が書かれているから、恐らくは県議の顔だろう。
だが、僕の目に映ったのはまったく違う人物だった。
前髪を根元から一対九ほどの割合で別け、鼻と唇の間に黒いひげを生やした、アーリア人男性のモノクロ写真が写っていたのだ。
また彼は鷲章のついた制帽をかぶり、ワイシャツに黒ネクタイ、コートという格好をしていた。
僕は彼に覚えがあった。独裁体制を確立しヨーロッパを侵略し、大勢のユダヤ人を虐殺させた男の写真だったのだ。
僕はチラシを手にとると、顔の前に近づけた。
しかしどれだけ目を凝らしたところで、彼の写真は別人に変わりはしない。
僕は発見した敵をみつめ、しばし呆然としていた。
彼をどうすればいいのか、怒りをぶつけていいのかがわからなかったのだ。心のどこかでは、彼が独裁者ではないとわかっていたのだ。
困った末、僕は気分を変えようと考え、一階に下りダイニングにいった。
早出の父はいないだろうが、母と兄がいるだろう。
そう思ったものの、母の姿はなかった。いるのは椅子に座り、乱暴にパンを食べる兄だけだったのだ。
僕は兄をみるなり、激しい殺意に襲われたが、必至で自分を堪えた。
先ほどの、母のことがあったからだ。僕が兄を殺すなり、暴力をふるうなりすれば、母は悲しむに違いない。そう思ったのだ。
「ところでお前、あの子とは別れたんだよな。県議のとこであった子」
僕は箸を持ちながら、全身から汗が流れるのを感じた。
兄を殺さなければならないという、本能的な思いが胸によぎった。兄を殺したくて仕方がなかった。
だが僕は、必至で自分を堪え続けた。
「別れたっていうか、もうあってないけど。なんで?」
「昨日、家の前でみたから」
僕は兄の目をじっとみつめた。僕をからかうために口にしたのではないか、と疑ったのだ。
しかし、嘘をついているようにはみえない。
兄に僕をひっかけるだけの頭脳があるとは思えないから、アンネが僕の家に来たというのは本当なのだろう。
僕はそう考え、アンネがなぜこの家の前に来たのかと考えた。
「多分、通りがかったんじゃないかな。あいつの家からデパートにいくと、この辺を通るから」
「いや――」
兄は渋い表情を浮かべると、なにごとかをいいかけたが、途中で口を閉じた。
もしかするとアンネは僕と和解したくてこの家に来たのだろうか。そんなことを考えたものの、兄の苦悩はどうやら違うようだった。
「それはそうと、県議のとこっていってる?」
これ以上腹がたたないうちに、話を変えた方がいい。
僕はそう思い、最初に思い浮かんだことを口にした。
「ケンギ?」
「県議会議員。前、勉強会に参加してたじゃん」
「ああ、あれ。もういってない。面倒くさいし。俺がいなくてもなにも変わんないし」
「そう」
「それに、勝手に変わっちゃったからな」
兄の口調はいい訳がましかった。
「変わった?」
僕がそういうと、兄は瞬きをした。
「新聞、読んでないのか?」
「最近はね」
僕は最近、新聞を読んだり、テレビのニュースをみたりするのを止めた。
誰とも話が合わなくなったためだ。以前なら平気だったが、一度アンネという理解者ができ、彼女が去ったことで、僕は政治に関して意見を持つという孤独をしるようになった。
アンネ。
彼女がいなくなったのは、兄のせいだった。県議のところに来たのは、僕が兄に誘われたためだと口にしたせいだった。
「で、新聞がなんなのさ」
「いや、なんでもない」
「そう」
僕はそういうと、話を切り上げた。
これ以上話を続けていると、兄への殺意が我慢できなくなりそうだったのだ。




