モルヒネ
肩からぶつかると、格子は簡単に外れた。
格子があまりにも軽かったことに驚いていると、暗かった牢屋のなかが急に明るくなった。
それだけではない。コンクリの壁はとり払われ、白い壁に変わっている。また、寒かった空気は暖かくなっている。
僕はしばらくして、明かりの正体が日の光であること、僕が跳ね飛ばしたのが格子ではなく掛布団であることに気づいた。壁だと思ったのは天井だった。
同時にすべてが夢だったと気づいたものの、前回とは違い、僕の心は休まらなかった。
牢屋からでられた先も、牢屋と変わらなかったからだ。
この世界では、愚かな軍人たちが歩き回り、僕がなにかをすると批判する。その結果、僕のなかにどす黒く醜い感情が溜まっていくのだ。
僕はこの世界から逃げだしたくて堪らなかったが、その方法がわからなかった。僕の敵と顔を合わせずに済ませ、胸に宿った怒りや絶望といった感情を捨て去るにはどうすればいいか、そう考えても結論はでなかったのだ。
「大丈夫? 大声だしてたみたいだけど」
母の声をきき、僕はドアをみた。
母が部屋のなかにいたわけではない。母の声は、木製ドアの向こうからきこえたのだ。
がちゃがちゃという音をたて、ドアノブがわずかに動いているから、母はドアを開けようとしているのだろう。
しかし部屋には鍵がかけられている上、合いかぎを持っているのは僕しかいない。チウネが亡くなった後、両親が嫌になった僕が、無理をいって鍵をつくってもらったためだ。
そのため、母は部屋に入ってこれなかったのだろう。
「大丈夫だよ」
僕はベッドからたちあがると、ドアをあけながらいった。
すると廊下の照明の光と、階段を背景に、例のように黒い軍服を着た母がみえた。
悪夢から覚めたばかりのためか、僕は母に敵愾心のようなものを持っていた。いや、元々持っていた嫌悪感が、露わになっただけだろう。
その気持ちが伝わったらしく、母は僕の目をみると後ずさった。
きっと彼女は、僕が敵意を向けると思ったことなど、ないに違いない。
「な、なによ」
「別に」
「本当に? なにか、変な薬でも打ったんじゃないの?」
母は僕を信じていないらしい。
また、薬物使用の有無を率直に口にしたことからして、信じてないことを隠すつもりもないようだった。
そもそも、薬物など使えば僕の脳がダメになり、成績が下がるだろう。そんなことも分かっていないのだろうか。
「打ってないよ」
「本当? ねえ、本当よね? さっきからなにか変よ?」
僕が薬物を最近使い始めたのだのだろう、と考えた可能性はある。
しかし、僕が薬物を買う金を持っていないことくらいは分かるだろう。僕は兄と違って、母に小遣いをせびっていない。それに小遣いの額と、本に費やしている金を比べれば、僕が余分な金を持っていないことは明白だった。
病院に忍びこめばモルヒネあたりを入手できるかもしれないが、母はそこまで深く考えていないだろう。
「大丈夫だよ。少し、嫌な夢をみたんだ」
「そう? なら、いいけど」
モルヒネは快楽を得る目的の他、安楽死にも使用された。
最初に思いつくのは、アウシュヴィッツ強制収容所でヨーゼフ・メンゲレが行った人体実験で犠牲になった双子だった。
狂気の人体実験でしられるメンゲレは、双子の背中を縫い合わせることで人工的にシャム双生児を作ろうとした。しかし実験は失敗し、双子は傷が化膿し膿がでて、昼夜となく泣き叫び続けた。
その二人を安楽死させるために、モルヒネが投与されたのだった。
「でも、すごくうなされてたわよ」
「嫌な夢だったからね」
母は政治家を野放しにし、間接的に人体実験に加担した者の一人だった。つまり、彼女が双子を殺させたのだ。
そんな相手と話をしている自分が嫌で堪らなくなり、自分という殻から抜けだしたくなった。
だから僕は、僕の敵である母をみつめ、その首に手を伸ばそうとしたものの、僕の腕は上がらなかった。
「まあ、それならいいんだけど。――もう朝食の時間だから、早く来てね」
「うん。わかった」
僕はそういってドアを閉めた。するとまるで号泣した後のように、全身の筋肉が痙攣を起こし、意味もわからずに涙がでた。
同時に、母と過ごした日々が脳裏に蘇った。それは誕生日にケーキを作ってくれたことであったり、小学生のころに学校まで送り迎えしてくれたことだった。
その際、母は必ずといっていいほど笑顔を浮かべていた。女性にありがちな、人前でだけ浮かべる笑顔ではない。柔らかな笑顔だった。
そのため、母を手に掛けようとしたことが嫌で堪らなくなり、生きていること、そのものが苦痛に感じられた。
僕は苦しさから逃げだしたくなり、ベッドの上のシーツや目覚まし時計、机の上に置かれた本や勉強道具、クリアファイルを投げだした。
投げる物はすぐになくなった。僕の部屋は質素だったから、置かれているものが少なかったためだ。
そのため、部屋中にあった物を投げ飛ばしたというのに、床は悠々と歩くことができた。




