ふたたび牢屋
二週間たった今、アンネとはまるであっていない。
アンネからメールは返ってこなくなったし、電話にでてくれなくなった。とはいえ、あの日からいきなりこうなったわけではない。
アンネが僕を避けるようになってから、アンネは二回ほどこの家に来たが、大声で討論をしようとはしなかった。
そのため、僕らは討論を止め、学校のくだらない出来事や、家のなかの小さなトラブルばかりを話していたのだが、互いにつまらないと感じていることは明白だった。
アンネというストッパーをなくした僕は、精神を病んでいった。
夢のなかで、ふたたび牢屋に入っているのが証拠だ。
「助けてくれ」
僕はいった。
前にみた夢と同様に、僕は三方がコンクリの壁で囲まれた、牢屋のなかにいた。
場所だけではない。夢の内容も前回とほぼ同じだったのだ。
気づいた時には、この狭く暗い牢屋のなかにいた。そして助けを求めていると、軍服を着た両親や兄、クラスメイトといった人々が格子の向こうに現れては、僕の話をきかずに去っていくのだ。
格子の隙間から手を伸ばし、彼らの軍服を掴もうとしても、すり抜けてしまう。
その間、格子の向こうの壁にはめこまれた小型テレビは、ユダヤ人の少女をモノクロの画面に映していた。
彼女の世界では少しずつナチの支配が進んでいき、たった今、ユダヤ人の少女は大勢の女生徒共に、ガス室で亡くなってしまった。
僕は荒い呼吸をしていた。
自分でも、これが夢だとはわかっている。だが、だからといって人が死ぬ光景をまざまざとみせつけられ、平静でいられるはずがない。
だから、僕は助けを求めた。
コンクリの狭い部屋に、足音が反響したのはその時だった。
僕は、誰がくるかと目を凝らし、廊下の右側をみやった。
すると紺色の綿ズボンに、ダヴィデの星をつけた灰色のポケットニット、足にサンダルという格好のアンネが、格子の向こうに現れた。
「アンネ。助けてくれよ。前はそうしてくれただろ」
僕は格子を強く握りしめると、目の前にたつアンネにいった。
これまで通り過ぎた者たちとは違い、アンネは体ごと僕を向いて立ちどまっている。前回のこととあわせて、助けに来てくれたのではないかと勘違いしてしまいそうだが、それが思い違いであることは明白だった。
アンネは目を細め、頬の上からでも顎の変化がわかるほどに強く、奥歯を噛みしめていたのだ。
「いいたいことがあるなら、早めにいえばよかったじゃない。なんで本音を押し隠して、欺瞞に満ちた言葉を使うの?」
「だって、思ったことを本気で話せば嫌われるじゃないか。いいたいことをいったら煙たがられるじゃないか。アンネだってそうだろ。だから俺と一緒にいたんだろ」
僕の大きな声は、狭く暗い牢屋のなかで反響した。
「私はアンタとは違うわ。アンタは一緒に逃げる相手が欲しかっただけなのよ。私は一緒に戦ってくれる相手を探していたのよ。だけど、アンタは逃げたいんだって気づいたの」
「こんな世界、戦っても変わらないじゃないか!」
僕は両手に力をこめ、格子を強く揺らした。
しかし、重たく鈍い音がきこえただけで、格子は外れなかった。
「なあ、鍵をあけてくれよ。一緒に逃げてくれよ」
「いやよ」
アンネはそういうと、通路の左側に向かって歩きだした。
僕は格子の向こうにいるアンネに手を伸ばしたが、僕の手は彼女の服や体をすりぬけてしまった。
「なんでいっちゃうんだよ! なあ!」
僕は大きな声で叫んだが、アンネは後ろをふり向くことも、歩く速さを変えることもなかった。
「くそう」
僕は両手にこめていた力をぬくと、腕をだらりと倒し、コンクリの床に力なく倒れこんだ。
アンネが去った今、僕を助けてくれる者はいない。かといって、僕一人ではこの牢屋から抜けだせない。
そう考えて絶望していると、誰かの足音がきこえた。
「アンネ?」
彼女が戻ってきたのだろうか。僕が最初に考えたのは、そのことだった。
だが、コンクリの壁に反響しながらも、足音が廊下の右側からきこえていることはわかった。アンネが去ったのは左側だから、現れた人物は時間的にみて別人だろう。
では、誰だ。
そう思っていると、格子の右側から、一人の少女が現れた。
僕の学校の制服を着た、やせ形の少女だ。背は百五十センチ前後だろうが、前かがみになっているため、若干身長が低くみえる。肌は白かった。
彼女の垂れ下がった目や口元のほくろ、染められていない髪には覚えがあった。
僕がいじめから救おうとして失敗し、穢された少女だった。
僕は驚き、牢屋から後ずさった。自分の暗い歴史を目の当たりにしたために、僕は混乱してしまったのだ。
「なんでいるんだ」
僕が叫ぶのと同時に、格子の向こうにあるコンクリの壁にはめられたテレビに、モノクロの映像が映った。
テレビ画面の中心にいたのは、目の前の少女だ。
後ろには僕の学校の壁があり、地面は土で覆われている。生い茂った木々には影がかかっているから、日中だろう。
彼女は学校の白い壁に背を預け、華奢な体を震わせていた。
突然、カメラがひいた。
そのため少女の周りに、僕のクラスメイトや担任、父や兄といった、僕の身近にいる男すべてがたっていることに気づいた。
男たちはみな、欲望に満ち溢れた表情を浮かべ、少女に近寄っていった。そして、少女は泣きそうな顔になり、周囲をみまわしていた。
僕はなにが起ころうとしているのかを悟った。
「いくな」
僕はカメラから目を逸らすと、目の前にいる少女に向かっていった。
少女は足を止めると、体を動かさずに顔だけをこちらに向け、うつろな目だけで僕をみた。
「また、そうやって人を不幸にするのね。あなたがなにかを訴えれば訴えるほど、私は不幸になるのよ」
彼女は微動だにせず、僕をみつめ続けた。
「俺が悪いのかよ! 必至になって助けようとして、失敗したら俺が悪いのかよ!」
僕は牢格子まで歩み寄ると、泣きだしそうになるのを必死で来られ、彼女に向かっていった。
「俺はお前を助けようとしたんだ! それなのに、なんで俺が悪くなるんだ!」
「だって、そうじゃない。あなたのせいじゃない。あなただってわかってるでしょう? なにもしない方がよかった、って。そしたら私は、物をとられたり無視されたりしただけで、きっと今でも学校に通っていられたわ」
僕はなにもいいかえせなかった。彼女の言葉が、あまりにも核心をついていたからだ。
「それがわかったから、あなたはなにもしなくなったんじゃない。戦うことを止めたんじゃない」
「そうだよ、なにか問題があるのかよ。戦ったら戦っただけ世界がわるくなるって気づいて、逃げだしたらなにか問題があるのかよ。怒りとか絶望とか、そういった気持ちを全部堪えてて、なんの問題があるんだ!」
僕は大声で怒鳴り、渾身の力をこめて格子を揺らした。
しかし、すぐに後悔した。自分のせいで傷つけてしまった少女に向かって、恫喝するような真似をしてしまった自分に嫌気がさしたのだ。
きっと彼女も、さぞかし僕を軽蔑したことだろう。
そう思って、僕は牢格子の向こうにいる彼女に呟いた。
「ごめん」
彼女はなにもいわなかった。
代わりに左側を向くと、再び歩き始めた。
「いくな!」
僕は大声で叫び、牢格子の向こうにいる彼女に手を伸ばし、制服の裾を掴んだ。
「余計なおせっかいをするだけして、勝手に負けたんじゃない。それなのに、またおせっかいを焼くの?」
彼女は小さな声でそういうと、僕の手をふり払い、歩き去った。
僕は彼女を追おうとしたが、格子はやはり頑丈でびくともしない。
それでもどうにかして壊そうと、格子を強く揺すっていると、女性の悲鳴がきこえた。
みると、テレビ画面では先ほどの少女が、男たちに服を脱がされているところだった。
僕はいよいよ強く、格子を壊そうとした。だが、格子は一向に壊れない。
その間、少女のすすり泣く声がきこえつづけていた。恐らく、恐怖のあまり悲鳴さえ上げられなくなっていたのだろう。
僕は牢屋の後ろまで下がり、格子に体当たりをしようとした。
アンネを含め、誰もこの世界から助けてくれない。ならば、僕は一人でここを逃げだし、辱められている少女を助けなければならなかった。




