部屋のなか
僕はアンネを急かすと、廊下を歩きだした。後ろからはアンネと母の、とり繕ったような会話がきこえていた。
「欺瞞だ」
僕がそう呟いてしばらくすると、スリッパで移動するぱたぱたという音がきこえた。
僕はため息をつきながら、リビングの扉の右横にある、二階への階段を上った。
僕は後ろを歩くアンネに話しかけなかったし、アンネも僕に話しかけてこようとしなかった。
ようやくアンネに話しかけたのは、二階にあるフローリング張りの、七帖ほどの僕の部屋に入って木製の扉を閉め、鍵をかけてからのことだ。
アンネが始めてこの家に来てからというもの、僕らは僕の部屋でしか話をしない、というのが決まりになっていた。
「母さんの前で猫かぶるの、やめろよ」
「いいじゃない、別に。――それにアンタにいわれる筋合いはないわよ。人の前じゃ自分の素顔をみせないじゃないくせに」
「一本とられたよ」
「また、そうやって話を流そうとする。もっと素になりなさいよ」
アンネはそういうとカーペットの上に腰を下ろした。
読み終えた本を倉庫にしまっていたこともあり、この部屋は閑散としている。ベッドと勉強用の机、テレビ、ノートパソコンの他にあるのはゴミ箱くらいだった。
その上、部屋の主である僕が綺麗好きだったため、床には毛糸すら落ちていない。
「借りてた本、返すわ」
アンネはそういうと、肩から下げていた鞄から、分厚い本をとりだした。
照明をつけていた僕はかがんで本を受けとり、外装をみた後なかをひらいて、傷やページの折れ曲がりがないことを確認し、机の上に置いた。
ホロコーストについて詳細に書かれた本だった。
その本を差しだしてきたからには、アンネがなにをいいたいのかは明白だった。ナチについて、僕と討論をしたいのだろう。
僕たちの間では、意見が食い違う出来事をみつけ、互いに勉強し合って論じ合うということが習慣になっていた。
討論の内容は、旧社会党の存在価値というマクロなものから、近所のゴミ捨てを有料化するかというミクロなものまで様々だった。
ただ、最近はアンネが僕から本を借り、その本を読みこんで話のネタにする、ということが多くなった。彼女は、僕を論破しようと考えていたのだ。
「どうだった? この本」
「ナチは国民が悪いってアンタがいってた理由、少しはわかった気がするわ」
「デンマークのこと?」
「ええ」
デンマーク人はナチから『アーリア人』とみなされており、ナチの支配下にあって高度な自治を約束されていた。その上、デンマーク人は同胞だと思っていたユダヤ人を助けたため、デンマークにいたユダヤ人の九割が難を逃れたのだ。
「でも、同時に思ったわ。少しずつ情報を制限されて、少しずつナチの考えを広められたら、誰だって考えるのを止めちゃうって」
ナチは政権をとったあと、ユダヤ人を一瞬で強制収容所送りにしたわけではなかった。まずドイツ人の結婚や性交を禁止し、ユダヤ人の全財産を登録し、更にユダヤ人の会社をアーリア人が買収する――というように、少しずつユダヤ人の力を削ぎ、権利をはく奪していったのだ。
同時に検閲を実行し、プロパガンダを流すようになった結果、ドイツ人はユダヤ人の権利について鈍い考えしか持てなくなっていった。
「でも、考えなきゃならなかったんだよ。どれほど情報を制限されても、おかしいって思わなきゃならなかったんだ。自分で考えなきゃならなかったんだ。考えを放棄してホロコーストに加担したドイツ人は、クズだよ」
「無茶よ。皆が同じことを考えていたら、ほとんどの人はつられて考えちゃうわ」
「なにも考えずに他人の言葉に乗せられる奴は、クズさ」
アンネは明らかに機嫌を悪くしたらしく、眉根を寄せると口元を歪めた。
「なによ、クズクズって。アンタが頭いいってことはわかってるわよ。でも、ほとんどの人間はアンタよりも頭が悪いのよ。なんでそういう人の身になれないの」
「思考を放棄した人間の側にたつ理由がわからないね。あいつらは必至で正しいことを訴えてる人間を侮辱して、馬鹿にするためだけに生きてるんだ」
僕は吐き捨てるようにいった。
僕は、僕の言葉を理解しようとしない彼女をみくだし、軽蔑していたのだ。
その一方で、僕は心のどこかでアンネを尊敬していた。
思考を放棄した愚かな人間を信じようとする、純粋なアンネが、僕には眩しかったのだ。
多かれ少なかれ、アンネも僕に軽蔑と尊敬という気持ちを抱いているに違いなかった。彼女は僕を批判してきたものの、その一方で僕の知識量に感心しているらしく、心酔した教師に浮かべる表情を度々みせてきたのだ。
「でも、ホロコーストを信じなかったのは西側だって同じじゃない。ソ連が強制収容所を摂取した時のフィルムをみたら、共産主義のプロパガンダだって一蹴したんでしょ? 国が理解できないものを、普通の人に理解しろなんて無茶よ」
「無茶じゃないさ。ユダヤ人の迫害を訴えてる奴らが国を長いこと牛耳っていたらどうなるかくらい、想像できたはずなんだ」
僕は大声をだすと、アンネに訴え続けた。アンネも同様で、僕の言葉に大きな声で反論してきた。
僕らは一歩もひかなかった。




