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母とアンネ

 ひと月が過ぎた。

 ショッピングモールには案の定しりあいがいたらしく、僕が女子とつきあっているという噂がクラスに広まっていた。とはいえ、誰かから直接きいたわけではない。僕が学校で話す相手は一人もいないし、わざわざ嫌味をいってくる者もいないからだ。

 僕は優秀であるがゆえに、クラスメイトから妬まれていた。

 本来ならば友人となるであろう優等生たちは、僕を嫌悪していた。いじめられていた少女を放置した彼らを僕が大声で批判してから、汚物をみるような目を向けてくるようになっていたのだ。

 教師は教師で、成績によって贔屓することを止め、いじめを放置しないようにと訴えた僕を煙たがるようになっていた。

 そんな僕が噂話をしるには、人が話をしているのをきくしかない。

 授業の合間や給食の時間に、クラスメイトが僕をみて噂話をしているのがきこえるのだ。

 その度に、僕は内心でクラスメイト達を嘲笑した。相手をするのが面倒だから直接否定はしないが、僕とアンネの間に恋愛感情はなかったからだ。

 僕たちの間にあったのは尊敬と軽蔑という、相反するものだったのだ。

 少なくとも、僕は家のなかでのやりとりで、そう感じていた。

「今日、またあの子がくるの?」

 リビングのソファに座って新聞を読んでいると、ドアを開け入ってきた母がいった。

「なんでわかったんだよ?」

 アンネが今日、家に来ることは母にいっていなかった。

「だって、冷蔵庫をみたらケーキが入ってるから」

 僕は朝一番にケーキ屋にいき、カットケーキを四つ買い、冷蔵庫にしまっていた。それをみて気づかれていたらしい。

 ここ二週間というもの、アンネは頻繁に僕の家にきていた。その際、僕はいつもケーキを買っていた。この家で僕の他にケーキを買う者はいないから、アンネが来ると母が気づくのは、当然といえば当然だった。

「来るって前もっていってくれれば、私がケーキ買ったのに」

「いいよ。別に」

「よくないわよ。ケーキ屋を往復する時間を、勉強に使えるじゃない。彼女ができて時間が潰れたんだから、その分だけ別の時間を減らさないと」

「ケーキ屋にいくだけの時間なら、かえって気分転換になるさ」

「本当? 受験までまた一年半あるのよ。今から成績が落ちる可能性は幾らでもあるんだからね」

「わかってるよ」

「わかってないわよ。その証拠にアンタ、またナチの本を買ったでしょ。読んでる時間がもったいないじゃない」

 どうやら、母は僕が時間を無為に使っていると決めつけているらしかった。

「俺の勝手だろ」

「勝手じゃないわよ。勉強のこともあるし、それに暗い子になったどうするの」

 僕は母の言葉をききながし、アンネのことを考えた。

 そうすると心は随分と楽になり、母の相手をすることの不快感が減った。

 僕はここ数週間というもの、そうやって過ごすようになっていたのだ。

 必死になって世界を変えようとしたところで、僕が疲れて終わるだけだとわかっている。だから大声で正論をふり回すにはなれない。しかし、彼女のことを考えれば、ある程度の余裕を持って母や兄と接することができるようになっていたのだ。

 これまではナチの蛮行を思いだし、政治に無関心な母への怒りを募らせていたが、それも終わりだった。

 ただ、社会への怒りそのものがなくなったわけではないので、依然として社会のありとあらゆる人間は軍服を着ているようにみえていた。

 それは母も同様だった。母は黒い軍服を着たままだったのだ。

「勉強する時間ができて、明るくなれたなら万々歳じゃない。それに――」

 その時、インターフォンが鳴った。

「ごめん、ちょっといく」

 僕はそういうと、新聞をソファにおいてたち上がり、リビングの隣にあった和室、更にその隣にある土間を素通りし、玄関まで移動した。

「お待たせ」

 茶色い玄関ドアをあけると、まばゆい光が入ってくるとともに、灰色のポケットニットに紺色の綿ズボン、足にサンダルという格好のアンネがみえた。いつものように、彼女の胸元にはダヴィデの星がつけられている。

「ごめん。自転車に空気を入れてたら、遅れちゃった」

「いいよ。別に」

 僕がその言葉をいい終るのとほぼ同時に、軍靴の音がきこえた。

 幅二メートルはあろうかという広い廊下をふり返ると、軍服を着た母がこちらにやってきているところだった。

「こんにちは」

 アンネはサンダルを脱ごうと伸ばしていた手を戻すと、母に深々と頭を下げた。

 アンネは『他人に話を理解してもらう』ため、口調だけでなくしぐさまで礼儀正しくしていた。

 ただ、それは第三者の前でだけだった。僕と二人きりでいると砕けた話し方をするし、ショッピングモールでみせた、やや攻撃的な口調になる。

 また、人前でも態度がでかいという欠点はあったが、母は礼儀正しさにみほれ、大目にみているようだった。

 母は、僕がいい女性をみつけたと思っているらしく、アンネの前では小言をいわず、常に笑顔を浮かべて世話をやいていた。

 それは今も同じだった。母はスリッパ立てから緑色のスリッパをとりだし、わざわざアンネの前に置いていたのだ。

「お構いできないけど、今日はよろしくね」

「はい。わざわざありがとうございます」

「いこうぜ」

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