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母と僕

 僕は新聞を折りたたむと、テーブルの向こうにある、五十五インチのテレビの電源をつけた。

 新聞を読み終えてしまったためすることがなく、テレビをみて時間をつぶそうと思ったのだ。しかし休日の昼間のテレビはろくな番組が放送されていない。目の前で写っているのもそうだった。

 そこで僕はテレビをきり、手前にあるテーブルの上にリモコンを置くと、仰向けになってソファに倒れこみ、左手にある窓の外をみつめた。

 木製の椅子四客と、同じく木製の机が置かれたテラスが窓ガラスの向こうにあった。

 曇天なのか、照明の黄色い光につつまれたリビング内とは違ってやや暗い。

 今日は雨だったろうか。そう思って新聞を開くと、部屋の右手にある扉が開く、小さな音がきこえた。

「ああ、いたいた。荷物が届いてたわよ。玄関で運送屋さんとあっちゃった」

 音は窓と正反対の方向だったので、僕は上半身をねじって後ろを向いた。

 するとウォールナットの床の上を歩いて近寄る、ベージュ色のスリッパを履いた足がみえた。

 もう少し視界を上げると綿の青いズボンに、袖口がほつれた紺色のチュニックという格好の母がみえた。右手に小さな段ボール箱を握る一方で、左手に膨らんだ買い物袋を持っていたから、スーパーから帰ってきたところだろう。

「荷物ってそれ?」

 僕は母の右手をみながらいった。

「ええ」

 母はそういうと、手にしていた段ボール箱を差しだしてきた。

 段ボール箱には僕の名前と住所、そしてインターネット通販の大手株式会社の名前が印刷された、小さなシールが貼ってあった。

「またナチスの本じゃないでしょうね」

「なんでわかるのさ」

「だって最近、ずっと読んでるじゃない。暗いからやめてよ」

「俺はファシズムにはまってるわけじゃないよ。ホロコーストの原因を調べて、また起こることを防ぎたいんだ」

 僕は淡々といった。

「起こりっこないわよ、そんなの。ナチの本ばっかり買いこんで。暗い大人になったらどうするのよ」

「なにも考えずに能天気に笑って過ごすよりは、暗い大人になるほうがよっぽどいいよ」

「空っぽな人間になるのが嫌なら、勉強をすればいいじゃない」

「俺、中間テストは学年で一位だよ」

「受験までまだ一年近くあるじゃない。その間に成績が落ちたらどうするの」

 安っぽい服装からわかるように、母は他者の評価に興味がない人間だった。

 そのためか、母は政治に無関心なことを咎められても動じなかった。更に、他人に意見を押しつけるため嫌われていることにまるで気づいていなかった。

「受験よりも大切なことは幾らでもあるじゃないか」

「そんなこといってると、友達に成績を抜かれちゃうわよ」

 月に一度はその言葉をきく。だが僕には、学校の成績などどうでもよかった。

 この世界をよくしたいと思う焦燥感にかられるあまり、中東の戦乱やアフリカの貧困を無視して勉強をする自分が嫌で堪らなかったのだ。

 かつてはその気持ちを他者に語っていたが、今では止めていた。社会のことを訴える度に否定され、煙たがるような目を向けられるためだ。

「私もね、お父さんと結婚するまでは後悔しっぱなしだったわよ。ああ、もっと勉強しておけばよかったって」

 だが、社会をよくしたいと思う気持ちがなくなったわけではなかった。

 僕は口にすることこそ止めたものの政治に無関心な、無能な人間を嫌い、軽蔑するようになっていったのだ。

 政治に無関心であれば、政府を暴走させてしまう。そして政府の発言をうのみにするようになり、差別や暴力に対し鈍い反応しか示せなくなるのだ。

「政治も大事だけど、勉強はもっと大切なのよ」

 極端な例がナチスだった。ドイツ国民はナチスが政権について以降、ユダヤ人の迫害を正当な行為だと信じるようになったのだ。

 ドイツ人はユダヤ人を密告し、強制収容所の創設を歓迎した。その結果、ヨーロッパにいた九百万人のユダヤ人の、実に三分の二が亡くなってしまったのだ。

 ナチを支持した者は、実際に手を汚す汚さないにかかわらず、ユダヤ人を殺したナチの兵士と同じだった。

 政治に無関心でナチの行為に声をあげなかったドイツ人も、大した差はなかった。

「ねえ、きいてる?」

 僕は我に返った。

 白いブラウスの上にグレーの背広、グレーのスカートに黒い靴、そして略帽風の黒い帽子というナチの親衛隊女性補助員の格好をした母の姿がみえた。

 ウォールナットの茶色い床の上と、石灰岩の白い壁という状況ではえらく不釣合いな格好だったがゆえに、母の姿は際立って目立っていた。

「どうしたの?」

「なんでもないよ」

 僕は不快な気持ちを押し隠し、静かにいった。

「そう。ならいいけど。――あ、今日はお兄ちゃんと何処かにいく約束してるんでしょ? そろそろ時間じゃないの?」

 右手に巻いた腕時計をみると、一時を七分ほど回ったところだった。兄との約束は一時半だ。目的地までは十五分ほどかかるから、下手すると遅れるかもしれない。

「そうだね。もう少ししたらいくよ」

「そう」


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