三題噺 離れ馬•いとこ•耳
時々この手のやつを落としていきます。
危ない、と声が聞こえた気がした。
何気なく振り返ると何か茶色の塊が体の横をすり抜けていく。一瞬だった。獣臭いにおいが鼻をかすめる。小学校の兎小屋の臭い、あれだ。
うわっと叫んで身を翻す。茶色の塊は馬となってそのまま延々と続く丘陵地の彼方へ駆けていく。よほど興奮しているらしい。
「ごめん!大丈夫だった?」
あっけにとられそれを見送っていると、後ろから誰か来ていた。よっぽど走ったらしく肩で息をしている。全力疾走する馬に追いつけるはずもないのに、ばかなのかこいつは。
「逃げられちゃったよ」
へなへなした顔で笑う。そんな頼りない従妹をおれは小突いた。
「逃げられちゃった、じゃねーだろ。お前んとこの馬だろ?どーすんだ」
「帰ってくのを待つしかないねえ」
「…叔父さんは大丈夫なのか?」
聞くと、真っ青になって黙り込む。叔父さん、つまりこいつにとっての父親は客観的に見てかなり怖い人物である。おれだって怒られた事は一度や二度ではきかないのだ。
「た、たぶん大丈夫だよたぶんね。ばれずに連れ戻せればたぶん」
「声震えてるぞ」
とりあえず突っ込んでから、おれは溜息をついた。こういうのを腐れ縁というのだろう。まあなんでもいい。
「?どこ行くの、たかちゃん」
「その呼び方やめろって言っただろ……、あいつ、連れ戻しに行くぞ」
きょとんとしていた顔が、笑顔に変わる。
こいつ、つまり畑中咲希の家は農家だ(ここら辺の家はみんなそうだが)。主に馬やら牛やらを飼っていて、土地が余っているもんだからあほらしいほど広い牧場で放牧されている。そしてその管理が畑中娘に一任されているのだった。
おれからしてみれば、もうすぐ十八になるとはいえ、どうしてこんな間の抜けた奴をそんな重要な役目に付けるのかさっぱり分からない。人手が足りないのだろうが、明らかに人選ミスである。こいつが家畜を逃がしたことだって、言ってみれば一度や二度ではきかないのだ。気が向けば回収に協力してやるが、そういやここ数年手伝ってなかった。
そんなことをつらつら考えながら牧場をバイクで走る。昔は自転車だったが、今はこれだ。どっちにしろ人力で追いつける相手ではない。
畑中はおれの背中にしがみついて楽しそうな悲鳴をあげている。
「バイクって早いんだね!」
「お前の感動ポイントはそこなのか…。静かにしろよ。前も乗せてやっただろ」
「前って一年以上前じゃん。それにたかちゃん全然帰ってこないし」
とりあえず無視して地平線に目を走らせる。が、動物らしき影は一つも見あたらない。というか建物のシルエットすらほとんどない。そういやここはこんな場所だったか。久方ぶりに田舎に帰ってきた身にとっては、うんざりするほど見慣れた風景でもある。
「おい、どーすんだ。こんなの闇雲に探しても見つからんぞ」
「あー……、どうしよう?」
「おれに聞くなよ!お前んとこの馬だろうが」
本気で困った声で尋ねてくるので、本気で殴り飛ばしたくなるほどいらいらする。里帰りしてうんざりするものがこれ以上増えるとは思わなかった。島から離れて、程よく風化したと思っていたのに、あまりにも生々しく蘇ってくる感情。
おれは、気軽に連れ戻すと言ったことを激しく後悔した。
「………んー、この近くに川があったでしょ」
背後でなにやらうんうんうなっていた畑中がふいに言う。
「川?」
「うん。覚えてないかな。昔みんなでバーベキューした」
言われて、思い出す。二年前の春の光景が驚くほど鮮やかに脳裏に浮かんだ。
「……ああ、あれな。そこにいるのか?」
そんな気がする、と畑中は呟いた。適当かよ、とおれは言い、進路を変えてバイクを走らせる。
果たして馬はそこにいた。走り疲れて喉が乾いたのか、水を飲んでいるところにそっと忍び寄る。
馬はもう、逃げなかった。
「ありがとうたかちゃん!」と馬の背を撫でながら畑中が満面の笑みで言う。
「わたしだけじゃきっと見つけられなかったよ」
まさか、とおれは一笑に臥した。
「おれはバイクを走らせただけ。大体おれがいなきゃ見つけられないなんて、普段どうしてんだよ」
「それは…なるべく逃げないようにして、」
「どうだか」
そう言ってやると、あからさまに落ち込むが、あまり悪いという気にならない。
しばらく二人とも無言だった。聞こえるのは馬の鼻息と、川の流れる音。
「前にここに来た時はさ」突然畑中が独りごちるように呟いた。
「たかちゃんはまだ島にいたんだよね」
いきなり何の話かとおれは彼女を見る。しかし畑中はうつむいている。
「あのバーベキューって実は送別会で、明日からたかちゃんは本州に行っちゃうんだと思って、わたしすごい淋しかったんだよ」
「……なに急にしみったれてんだよ」
「いや、だからさ、」と、畑中は思い切ったように顔を上げる。思わずどきりとするほど真剣な表情だった。
「たかちゃんがあんまり島のこと好きじゃないのは知ってるよ。でも、たまにはちゃんと帰って来てほしい。それで喜ぶ人だっているんだから」
おれは瞠目した。
……いつの間にこいつはこんなにはっきりとものを言えるようになっていたのだろう。おれが大学進学のため島を出て行った頃は、人の影に隠れていないと何もできないような娘だったのに。
男子三日会わざれば刮目して見よ
いや、こいつは男子ではないけれど。
嘆息する。何も変わっていないとばかり思っていたが、そうでもないらしい。
悪くない。
「……なに泣いてんだお前」
「い、いや、ずっと言おうって決めてたから、安心して」
「泣くほどのことかよ」呆れる。「……分かった。これからはなるべく帰ってくるようにするから」
「ほんと?」
「保証はしない」
「いつもそればっかじゃん」ほんのり赤くなった目で畑中はむくれる。
「……あ。じゃあ、約束して」
「なんだよ」
「次はわたしにピアスを買ってくること」
おれはまじまじと畑中を眺めた。
「耳、空けたのか?お前…」
「空けてないよ。たかちゃんがちゃんと約束守って買ってきたら、空ける」
プレッシャーをかけようというのか、ひとしきりおれを睨めつけてから、畑中はころりと表情を変えて、笑った。
「守らない、なんて言わせないからね」
おれはバイクで、畑中は馬に乗り、帰り道を走る。
今までで一番気持ちの良い風だった。