自宅警備員(にわか)と瓶底メガネ
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「…イツキちゃん、起きてる?遅刻しちゃうよ」
ドア越しにマミーの柔らかい声が聞こえて私はさらに布団の中に縮こまった。
「…休んじゃ…だめ?」
「イツキちゃん、ねえ何があったの?話してみてくれないかなあ」
「…怖いの、とっても怖いの…学校に行くとパラメーターが見えるから……それ以上はうまく言えない」
そのやり取りを経てから、マミーは軽いため息をついて「いいわよ、じゃあ連絡するわね」と階段を下りていった。
布団から顔を出すと天使の羽ばたきの音が聞こえてきた。
『次のイベントまであと二日、図書館で委員会があるよ』
『彼のパラメーターを確認しますか?ぼくの矢を射っちゃえばもっと簡単に行くのになあ』
ささやく声に思わず苦笑いする。
「学校になんて、行けっこないよ」
階段を駆け上がってくる気配がして、ひとり言をふつりと途切れさせる。
「だ、だれ?」
ノックもせずにドアの前で止まった足音に上ずった声で聞いた。
誰なのか、何を言うのか、聞かないと確認しないと安心しないと頭がおかしくなりそうだった。
「ねえちゃん?おれ、結馬と咲馬だよ」
ほっとして泣きそうだった。
「なんか、あったんでしょ?誰にも言いたくないようなひどい事されたの?おれ…おれ達でとっちめてやるから」
「そうだよ姉ちゃん、どんなにしんどそうでも今まで学校休んだりなんか…無かったじゃん。心配で、おれ、ねえちゃんいなくなるんじゃないかって」
ドア越しで、いったい結馬と咲馬のどっちがどっちをしゃべっているのか分からない。
でも泣きそうに声が上ずって擦れていた。
「やっと会えた姉ちゃんなんだ。どうしてもいなくなって欲しくないんだ…ねえちゃん」
私は、私は鼻水と涙で顔を汚していた。
嗚咽を漏らさぬよう、泣いている事を悟られぬように泣くのは決して胸は張れないけど得意だったから。
「ごめん、ごめんねゆーくん、さーくん」
今は言えないの、言いたくないの。
階段の下からマミーの呼ぶ声がしてふたりは後ろ髪をひかれるように、ゆっくりと階段を下りていった。
土日を挟んだからまだ実質的に学校を休んだのは金曜と今日の二日だけだけど、私の異変は誰もが感じ取って空気を変えさせた。
空気を悪くしてしまったのは間違いなく自分だけど、萎縮するような触れられないような痛々しいものにしたのは周りの方だと思う。
「ねえ教えてよ!私はだれとどうしていけばいいの?!」
起動、という言葉を発さずとも天使が消えたり出てきたりするようになった。
パタパタと羽を鳴らしながら飛び回る子どもたちは困ったように俯いて、しゅんと羽ばたくのを止めてしまう。
「めぐるは…翔太先輩と接点なんてなかった!」
悪友に教えてもらった陰湿ないじめ描写が入り込んでくるのはかぐやくんか別のキャラで少なくとも深月先輩ではない。
「じゃあ何でふたりが付き合ってるの?!めぐと私は!友達じゃなかったの?!」
「何でも知ってるなら……答えてよぉ」
『…知らないこともあるんだ、ごめんね』
『でもでも、楽しい事の予定なら任せてよ!だから元気出して!!』
羽をたたんだ天使たちが膝の上で慰めの声をかけてくる。
ここ数日はこういうやり取りの繰り返しだった。
何度も何度も繰り返して、止めて、もう一度繰り返す。
壊れたゲームのキャラクターみたいだと思った。
「…つき、イツキ」
うとうとしてそのまま眠ってしまったのだろうか、マミーが私を揺さぶって名前を呼んでいる。
「イツキちゃん、そんなところで寝て…ご飯も食べないなんて…体壊しちゃうわよ?」
「マミー…私消えちゃうの?何か…調子悪、い」
弱音を吐く私の額をぺしっと叩く。
「イツキちゃんが家に引きこもって、ご飯もきちんと食べないで、寝てばかりいるからです―……消えちゃうなんて縁起でもない事…言わないで?」
本気で怒る眼差しのマミーにごめんなさいと項垂れる。
ああ、私の事をこんなに大事にしてくれるのに、何も言わないで、好き勝手して…なんて…。
「いい子じゃない自分は嫌い?」
まさに考えていた事を言われてびくりと肩をすくめる。
「マミーはね、本当のお母さんにはなれなくてもね、いい子じゃなくてもねイツキの事だいすきなんだから」
「ど、して?」
「どうしてもなにも、私の子なんだもん」
「学校ずる休みしても?偏差値が低くても?内申点取れなくても?成績が悪くても?」
マミーはやれやれしょうがないなあと言う具合に肩をすくめてため息を吐いた。
「見事に私の的から外れたことばっかり並べるのね。それ全部、私にとって無価値なことよ?ずる休みしても偏差値低くてお勉強できなくて内申点もとれないどうしようもない自宅警備隊でもマミーは変わらず愛せる自信があります!」
「何か…どうしようもない人間みたい…」
「だってどうしようもない事言うんだもの!」
マミーは私の後頭部を引きよせ撫でる。
「どんな風に育ってきたか、今のイツキちゃんの言動でなんとなあく分かったわ……楽しい事した事が無いんでしょう?」
そんなことない、と言い返そうとしたが言われて納得、確かに覚えが無かった。
「学校をずる休みしてお買いもの行ったりー、家でずうっとマンガ読んで映画見てゴロゴロしたりー、学校帰りに買い食いしたりー…ね楽しそうでしょ?」
私は反射で頷いた。
高校生の堕落して軽蔑して馬鹿にしていた、でもずっと憧れてた日常。
「イツキちゃん一生懸命にならなくて良いんだよ?勉強なんて片手間でいいの、自分で精一杯なんだったら学校なんて休んじゃいなさい」
また頷く、涙もこぼれる。
「充電するの、あなたそんなこと全然しないから私心配になるの」
もう一度頷く、涙なんて隠したってどうしたってどうでもいい。
「マミーにまかせて?なんとかするから、でも……きちんとご飯は食べて、きちんとお布団で寝よう?お風呂に入って頑張ったねって自分をほめて、朝になったら楽しい事をワクワク待つの、ね?難しくないでしょ?」
「マミぃ…っ」
「何があったのかは、話したくなったら話してみて?でもずうっと一人で抱えて張りつめたままだと…苦しくて仕方ないでしょ?」
そうしてゆっくりとあやすように頭を揺らした。
そのリズムと心地いい温度にうずまっているのが、本当に幸福で幸福で、本当のお母さんにもこんなに優しくしてもらった記憶なんてなくて…労られたり慰められる事がどれほど強く優しく…胸が苦しく息がつまりそうになるか、はじめて知った。
イツキの家は中流階級の一般家庭だった。
父も母も仲が良く、家庭崩壊の危機の片りんも現れた事はない。
しかし私が小学校…はじめてのお受験に落ちてからどこか歪な家になったのだと思う。
公立の学校でもいいじゃない、私は楽しいもの。
喧嘩上等、親子でも夫婦でも喧嘩の一つや二つあった方が健全。
喧嘩などなく諍いもせずきれいにラッピングされたような、絵にかいたような家族。私が受験に落ちてからそれが欠陥してしまった。
ふたりは狂っていた。優秀であれ、誠実であれ、理想に忠実であれ。そこから外れることは…ドロップアウトは許されない。
中学は夢中で高校は無心で望ましい模範の生徒として振る舞い、望まれる成績を取ってきた。
叱られることや怒られる事が無い代わりに、褒められる事も優しくされた事もない。
このまま前の高校に通い続けていたら…きっといい大学に行っていい会社に入って…きっといい家庭を持つことになったんだろうな……親の望むとおりに。
その親から解放されて本当は少し嬉しかった。なんてひどい娘だろうと自嘲めいた笑みを浮かべる。
でも、次に現れたのは〝ヒロイン〟という〝役〟だった。
望まれるヒロインになりなさい、ヒロインを演じなさい、好感度を上げて、イベントをクリアして、ルートを固定して攻略するの、ヒロインになるの。
変わらない、何も変わらない、親がいなくなったって何かを押し付けられて期待にこたえなくちゃいけないのは…変わらなかった。
歪だからだ、と私が言う。
歪な家で育ったから、育てられた私が歪でないわけが無いではないか。
期待にこたえるべく生れて育てられた私、は、ヒロインになろうとした。嫌々でも、そのために私は……
ド変態眼鏡に指をくわえられて、自覚なしの天然とバスケをして、不良裏表王子に壁ドンされて、危ない先輩のデッサンのモデルを引きうけた……
でも私に応えてくれたものは何?
水面に映るように揺らめく、めぐるの笑顔。現れたパラメーターとクラスメイトの顔。
水面を叩いて、蹴って、大きく波を立ててそれをぶち壊してやりたい気分だった。ふざけるな、何のために私は!何のために!何のために誰のためにこんな事をしてるの!!
わあわあと声を荒げて獣のように慟哭する私を誰かが抱きすくめた。
どどめ色……何色も何色もきれいな色を広げたパレットを水で洗い流すときの…ただただ汚くて深い色の湖の広がる夢の淵。
「やり直せるわ」
やり直す?
「そう、やり直すの素敵な恋を何度でも」
抱きすくめられた肌が粟立って不快が体を駆け抜ける。
だれ?だれなの?止めてよ、私はそんなことしたくない!したくない!止め方を教えてよ!
不意に髪の毛を撫でて弄ぶような指先の感覚が体を支配する悪寒を少しだけ退けた。
抱きすくめた声の主は少し不服そうに私の体をぎゅっと抱き直す。
自分のおもちゃをとられまいとするような子どものような仕草だった。しかしそれも私の意識がどどめ色の湖から剥落していくと薄れていく。
私は頭を撫でる手の主よりも、私を抱きすくめた声の主の方が気がかりだった。
あんなところに一人でいて平気なのかしら?と
「…ん」
「起きた?」
「ん、マミー?」
「うなされてて…見てられなかったの」
全身汗でびっしょりと濡れて、にぎりしめた拳は悪寒に耐えるように震えていた。
「ふつう、そこはガバッと跳ね起きて『はあ…はあ…いまのはゆ、ゆめ…なのか?』っていう展開よね?でもいくら待っても起きないし顔色悪いし、きっとシナリオライターはオトメゴコロの分かってない三流なのよ!オトメゴコロが分かってないなんて乙ゲーにおいて最大の欠陥よ!!ジーザス!!」
いつもの調子のマミーを見ていると悪寒や汗が引いていく、顔色も良くなったと見たのか額に置いていた手を離した。
「…マミー私に何か…話しかけた?」
彼女はきょとんとした顔で首をかしげる。
「何も?娘を愛でていただけよ?」
「イヤらしい言い方しないでマミー」
顔をしかめて言うと今度こそ笑顔で離れていった。
横になっていたのはリビングのソファの上だった。
ようやっと自分の部屋から出る決心をしたのかと少し自分を見直して、それからまた居心地のいいクッションの上にぼふん!と横になった。
きっと眠りにつく前もこんな風に横になったに違いない。
クッションの弾力を確かめるように体を揺らしながら改めて思う。この家は居心地がいい。
マミーの言うとおり自宅警備員の道を極めてもいいかもしれない。
ケータイをいじっていると不意にインターホンが鳴った。
そして玄関から「イツキちゃーん?クラスメイトの方がノートを持ってきてくれたわよ?」とマミーが呼んだ。
誰なのか分からないけどとにかく出たくなかった。出るものか。
「イツキー?」
決意を固めた傍から、どうしてだか、低く聞き覚えのある声に名前を呼ばれて強張っていた体が安堵に弛緩して、足が玄関に向いた。
黙って玄関へ突き進むと、マミーはヲタクスキル『空気を読む』を発動してその場から静かに立ち去る。
「クラスメイトだなんて嘘ついてどうするんですか…秋月先輩」
瓶底眼鏡をかけた癖っ毛の背の高い男…秋月が私を見つめて「やあ」とすっとぼけた声を上げる。
「ついでに聞きますけどどうして家の住所知ってるんですか?事と場合によってはお巡りさん呼びますよ?」
「馬鹿だな、委員会のレジメがあると教師に言えば家くらい分かるだろう」
「じゃあ何でクラスメイトだって…」
「お母さまに〝イツキさんの彼氏です〟って名乗っても良かったんなら嘘ついたりしなかったけど名乗り直そうか?」
「わああああああ!!いいです!クラスメイトで!十分!!!」
それから不自然に間が空いて、秋月が無遠慮に爪先から頭のてっぺんまで何か確認するように見つめるので仕方なく「どうしたんですか」と訊く。
訊かなければお引き取り願えたのに。ちっ!
「いや…先週最後に君を見たとき…再起不能な顔でまっすぐ家に帰ってったからね、休まれると心配になるじゃないか」
「先輩は私の彼氏ですか?」
「イエスと答えてもいいかな?」
「拒否します」
しかし見抜かれているというのも居心地が悪い。本当に気色が悪いくらい。
「…虚勢を張ってるようじゃなくて安心したよ」
「!!」
相変わらずぞくぞくするような色気がダダ漏れな声でそんな事を言われると…心臓がばくばく言う!止めてよ!
「イツキ、顔が赤い…もしかして熱ある?」
「っ!無いです!ない!ないもん!」
「そこまでないないと連呼されると逆に心配になるもんだよ…ほらちょっとおでこ貸して」
「ち、近付かないでよ!うわ!あ!!」
寝起きでこの顔はキツイ!!くらっときたかも!!!
その〝くらっと〟が恋のときめきだと世の女子は叫ぶ。しかしイツキは物理だとはんだんする、してみせる。
一瞬の隙に後頭部に手を回されてグイッと引き寄せられる。
「ちょっ!やめ!!」
カツン
と突っ掛かった瓶底眼鏡に拍手と称賛を送りたい。ブラボー!
額をかっこよく合わせる算段だったのだろうが、瓶底眼鏡が見事それを阻止した。
「…まじか…ああ!おのれ瓶底おぉおぉぉ!!」
悲哀のこもった叫びを上げる秋月の頬がこころなしか赤い。あれ?もしかして恥ずかしいの?慣れてないの?
「せんぱい?」
「ちょっと…今こっち見ないでくれるかな、割と!本気で!恥ずかしいから」
片手で顔を覆って逃げようとする。
それ、私がやりたいんですけどね!!
「先輩、慣れないことはしない方がいいですよ」
「し!仕方ないだろ!女の子が卒倒するばっかりで寄ってこないんだから!!」
「でも、私的には点数アップです」
「マジで?!!!どの辺が?!!!」
ひとはけ赤い頬を隠していた手をどけて真面目に聞いてくる姿が可愛くて可笑しくて。
「慣れてない所と、私の純潔を守ってくれた素敵な瓶底眼鏡にプラス10ポイント」
「合計は?!」
「マイナス30ポイントです」
「アップしたんじゃなかったっけ?!」
「アップしましたよ、もともとマイナス50ポイントだったんですから!」
可笑しくて可愛かったから気を許してしまったんだろうか…ごく自然に、当然の流れのように、秋月が額に口づけた。
「なあっ!!!!」
「ぼくをからかった罰だよ、僕だけ顔が真っ赤だなんてフェアじゃない」
「ちが!そ、じゃなくて!!!なんで!!」
「だから罰だって、弄んだだろ?!」
「否定しませんけど!!」
「否定しようよ!!!」
「可愛かったんですもん!!」
言葉を詰まらせた隙をついて私はすぐに距離をとった。近寄るなこの変態!!!
「では!今日のところはお引き取り下さい!!」
「えっ!ちょ!まっ!!!」
力任せに勢いよく玄関の扉を閉めてずるずるとへたり込んだ。
膝に思うように力が入らなくて、縋るように玄関のドアノブにしがみつく。
澄んだ瞳がすぐ目の前にあって、それが間近で私の顔をゆっくりと覗き込む…そのたった一瞬にも満たないモーションがどれだけ長く感じたことか、頬がかっかと熱く熱を帯びて、まるでこれじゃあ…
「恋する少女漫画の主人公じゃないの…」
それを世の中で〝ヒロイン〟と呼ぶ。
頬を膨らませて、恨みがましい視線を思いっきり玄関外側に向ける。
「イツキちゃんのそんな顔マミー初めて見るなぁ~」
「マミー!みみみ見てたの?!」
ぺろっと舌をのぞかせて「ごめんね☆!」と誠意の感じられない謝罪を受け流してもう一度問いただす。
「どこから見てたのっ?!」
「えー?クラスメイトにあんな子いた記憶がなかったから、おっかしいなあと思ってみてた!あれ秋月君よね?瓶底眼鏡で思い出した!!」
「つまり全部ってこと?!」
「えー?お似合いだったわよ?慣れないキザなことをするものね、恋するオトコノコって必死で可愛い!」
「マミー?!私秋月先輩とはそんなんじゃないから!!」
「分かってるわよ、ルート固定されてないもの。それにしても…あの書庫の守人、秋月君が自分からイベントでもないのに、わざわざ、お家まで来る、だなんて」
意味深なワードをわざわざ区切って話すあたりが小憎たらしいが膝は言う事を聞いてくれるようになってきた。
「そう言えば…イツキちゃんは彼の目を見ても平気なのね?」
「別に…かっこいいだけで顔に興味ないし」
「ははあ、そういうことね」
「どういうことなの?」
「分からない方がいいわ、その方がマミー萌えるから!」
マミーは相変わらず意味不明なことを喚いているがそれは毎度のことなので良しとしよう。
彼女は少しばかり安心したように微笑んだ。
「イツキちゃんあの子と話してるときとってもキラキラしてたわ、少なくとも家に閉じこもってるよりも健康的な笑顔だった」
「けんこうてき?」
「年相応、っていうか皮肉っぽくない顔って意味よ」
私は少し反省する、〝この家〟に閉じこもるという事は自分の殻に閉じこもることと同意義だ。マミーにいらぬ心配をかけるようなことはしたくな…。
「でもマミー、気遣われる方が傷ついちゃうから今までどおりで大丈夫よ!」
「ああ、あ、はい」
「でこちゅーでのぼせちゃうイツキちゃんかわゆすよ!さあ、そろそろ甘いお茶飲もう!ゆーくんとさーくんが帰ってくる前にごろごろしながらゲームしよ!」
私の肩を抱いてリビングに向かうとき、今頃秋月先輩はどんな顔をしてるんだろう?
頭の端をそんな疑問がよぎった。
次回の更新は来週の月曜日20時を予定しております
次話も乞うご期待☆