中編
女は剣を抜き、焚火をはさんで銀狼と対峙した。
「きなさい!」
女の気迫あふれるその一言にのせられたのか、銀狼は一気に間合いをつめるために駆け出した。
焚火の目前にまでさしかかったとき、女は剣の柄の紋章をひと撫ですると意志の強い声で呪文を唱えた。
「炎よ爆ぜよ!彼の者を灼熱で絡め取れ!」
銀狼が焚火の上を飛び跳ねて越えようとした時、ちろちろと燃える程度だった炎が急に燃え上がり、
銀狼の美しい毛並みを焼いた。
「きゃうん!」
と情けなく鳴いて、女から距離を置く方向に進行を変え、炎から遠ざかったが、焦げた毛並みは狼がひと唸りすると、薄緑色の光を放ち、またもとに戻ってしまった。
「獣でも、治癒魔法が使えるなんて…!」
狼は執念に燃えた瞳を女にむけ、大きく飛び跳ねて女に向かった。
女は剣をとっさに構えて、迎えうち鋭い爪を何とか受け流した。
刃物を持つやっかいな人間と認識した銀狼は、遠巻きに女の周りを練り歩き始めた。
どうやってしとめようか、様子をうかがいつつ考えているようだった。
「さっきのが奥の手なの?」
逃げたと思われた少年の声がし、物陰から少年が近づいてきた。
「こんな危ない目に会ってまで、あなたは水晶を探すの?」
「守るべき民なくして、王家はありえません」
かたくなな女の態度に最初の方こそ呆れていた少年だったが、やがて何かを思い立ったかのように女に手を差し出した。
「その箱を渡して」
「だめ、これはあなたへの最後の切り札に…」
「使命を果たす前に死にたいの?大切なもの、守りたいんでしょう?」
「くっ…」
女はしぶしぶと小箱を少年の方へと投げやった。
「ありがとう」
少年は小箱を手にすると、満足そうに微笑んで物陰に引っ込んだまま見えなくなった。
銀狼は先ほどの復讐を果たすことが使命とでもいうように、非武装の少年には目もくれず、女のみを視界にとらえながら、うろうろしていたが頭の中で勝算でもついたのか、ふと足をとめた。
低くうなり、銀狼は飛びかかった。
銀狼の牙をなんとか剣で防ぎながらも、女は銀狼に押し倒されてもみ合いになった。
剣を挟んで、何とか押し返そうとする女と、食らいつこうとする銀狼。
死に直面しながら、女はふと考えた。「あの少年は小箱を手にして、遠くまで逃げてしまったのだろうか」と。
突然、暗い森には不似合いなフルートの音が聞こえた。
「?」
銀狼の攻撃の牙は緩められ、急におとなしくなった犬のように、すごすごと森の奥へ帰っていった。
銀狼が見えなくなると、フルートの音は止み、入れちがいに少年があらわれた。
「これは僕を信じてくれたお礼」
そう告げると、少年は手にしていたフルートを分解して、大事そうに小箱に収めてふたを閉じた。
「獣の心を静める魔笛か…」
「どんなに貴重な笛なのか、僕は知らないけど、とても大事な人からもらったんだ」
と、大事そうに小箱をさすった。
「あなたの決意がそれほどまでに堅いものなら、連れて行ってあげる。でも、真実を知った先のあなたの面倒まではみてあげられないからね」
「では、水晶のもとまで…」
「いいよ。でも、いつまでも僕をお前呼ばわりする人と一緒に行動するのは、ごめんだな。だから、僕の名前はペトロと呼んでおくれよ。僕も、あなたのことを名前で呼ぶから」
「こっちだよ、リズ」
ペトロに連れられ、女は森の中心にある湖のほとりまでやってきた。
湖はとても大きく、まるで海のようにどこまでも水面広がっていて、向こう岸が見えなかった。
ほとりには、ぼろ小屋が建っていた。
「森に人が住んでいるなど、初耳です」
「ここまで生きてたどり着いた人間なんて、そうそういないからね。ましてや、この小屋を見たあとに生きて森の外を出られた人間の数なんて、そうそう多いものじゃないし」
小屋には一人のくたびれた老人が住んでいて、ペトロとリズを暖かく迎えてくれた。
そしてペトロの話を聞くと、一艘しかない小舟を惜しみもなく貸し出してくれた。
「あなたの失せモノが見つかりますように」
老人は神妙な顔をして、湖の中心へとこぎ出す二人を見送ってくれた。
しばらく漕いだところで、ペトロは小舟があまりゆれないように立ち上がると、フルートを取り出して、また不思議なメロディーを吹き始めた。
すると小舟の前の水面がぶくぶくと沸き立ち始めて、やがて大きな気泡が生まれては弾け、生まれては弾けを繰り返しつつも、だんだんと盛り上がって美しい女の形をなした。
水が織りなしたそのあまりの美しさに、リズは茫然としていたが、少年に促されてやっと声をかけることが出来た。
「水の精よ、初めてお目にかかります。私の名前はリズと申しま……」
挨拶をしかけて、様子がおかしいことにリズは気づき、言葉を止めた。
水の彫刻は最初こそ女の形をなしていただが、やがてまた形を変え、シンプルな台座の上にリンゴと同じ大きさの薄いピンク色をした水晶を鎮座させた。
「これが、水晶?」
「水の精は、この水晶を水の国の王女に届けることを望んでいるってさ」
「あなたは水の精の意志が分かるの?」
「なんとなくだけど……ね。さ、帰ろう。気まぐれな水の精の気持ちが変わらないうちに」
水晶玉を回収し、湖のほとりまで帰ってくるなり、リズは改めて水の精が渡してくれた宝を見てハッとした。
「この水晶には、心がやどっていない!」
ヒステリックに叫んだリズを、ペトロはたしなめた。
「あまりこの森で大きな声を出さない方がいいよ。そう。この水晶には王女様の心なんかやどっていない。でも、この水晶が偽物ってわけじゃないのさ」
「なぜ?王女の心がやどっていないのに?」
「王女は別に心を水晶に取られたわけじゃないのさ」
「?」
「そもそも、水の国に王女なんていない。だって、王様にいるのは一人息子一人だもの」
「どういうこと?」
「僕は水の国の王様の息子なんだ。たった一人のね」
ペトロの話の顛末はこういうことだった。
水の国には、水の国の危機が迫った時、優れた女王がたち、民をまとめ上げて危機を救う伝承が信じられているという。
ここ数十年、水の国では天災による不作続きと近隣諸国との戦争のせいで、国が大きく傾いていった。
王はどうにも立ちいかなくなり始めたこの国を救うのは女王が立つしかないと、伝承を盲目的に頼り始めたのだった。
そうして、生まれた一人息子を王女のように育てあげ、女王として立たせようと目論んだ。
「小さいうちなら、性別なんてどうとでも偽れるさ。だから僕は王女として育てあげられた。でも、年を取るにつれて、僕の身体はだんだんと男になっていった。そんな僕を王は城から追い出した。入れちがいに、大臣が連れてきた昔の僕にそっくりな幼い子供を自分の娘だと思って、かわいがっているのさ」
暗い顔をして聞いていたリズに、ペトロは哀しく微笑んだ。
「僕は運命を呪ったよ。だって、どんなに努力したって女らしく振るまえても、本物の女にはなれない。救国の女王にもなれず、父親にも民にも必要とされないんだ」
「女に生れなかったからと言って、あなたはすべてを失ったわけじゃないです。伝承に頼らなくても、女王にならなくても、国を思う気持ちがあれば国は救えるはず。あなたの父上ともう一度話す価値はあるのではないですか」
「僕が声変わりをしたとき、父様は卒倒した。そして、僕が声の病気にかかったと思いこんで、医者にかかりっきりにさせて、僕にしゃべることを禁じたんだ。そこまでする親が、僕を息子だと認めてくれるのかな?」
リズは言葉を失った。確かに、1年前に水の国の王女の心が失われる少し前に王女がのどの病気にかかったと水の国とその周辺諸国で話題が持ちきりになったことがあった。
しかしまさか、王女が声変わりをしたなどという真実を察することが出来た民など、いようはずがなかった。
「会って、話すべきだ。お前が望むのなら」
リズは慎重に言葉を選びながら、応えた。
「望みなんて、とうの昔に尽きたさ」
ペトロの声は、とても薄っぺらく無機質なものだった。
「そんなことはない。心あるお前は生きているではないですか。
きちんと、お前の望みを伝えてみたらどうですか?」
「無理だとは思うけど。でも、あなたに言われると試してみる価値があるように思えてくるのが不思議だね」
うつむいていたペトロは顔をあげ、しっかりとリズを見据えて言う。
「行こう。父上の側にいるべきなのは、空虚な人形ではないと教えてあげなくちゃ」